「なぜ僕はジェンダーを語る人と衝突しがちなのか」第 k 回、「ブルードルフィンのヘルメット」です。
Twitterでパパ、スーパー戦隊は仕事なの?「スーパー戦隊と公共性」(工藤啓) - 個人 - Yahoo!ニュース というリンクが張られていて、流し読みながら、別にこれとは全く関係が無いのですが、スーパー戦隊って男に強さ、女に優しさを性格付けする描写が多かったので、今なら問題にされやすいだろうなぁと考えてました。そもそも女性が主役にならないのは仮面ライダーも同じで、仮面ライダーの主人公って男ばっかりですけど、女主人公とかつくらな... - Yahoo!知恵袋みたいな回答にあるように基本的に「子供向けキャラクタービジネスの世界では、『男女の住み分け』は思っている以上に重要」なんですが、そういう文脈を無視するのがジェンダー界隈なので*1。
子供っていわゆる第一次反抗期くらいから男女別々に遊ぶことが多くなって、同性で同じコンテンツを見ていることも重要になってくるのかと思います。僕はそのころ、男女の遊びグループが分かれる中でどちらにもちょこちょこ顔を出すけれど一人遊びが多くなるという経緯を辿って、幼稚園では完全に浮きました。園を脱走して電車を見に行ったり、一人で氷の張ったプールを歩こうとしてあわや溺れそうになったり、親は監督不行き届きな幼稚園の先生に不満を持ってましたが、僕がみんなから逃げている以上しょうがなかったと思います。基本的に女の子と遊べないし、ガサツな男の子が嫌いだったのですが、ある日男の子と女の子が楽しそうに騒いでいるのを見て「おお、珍しい、何をしているのかな」と思ったらスカートめくりから鬼ごっこに発展していたようで、「なるほど、そういうものなのか!」と早合点し、途中で加わったところ、スカートをめくって先生にチクられ怒られて「なんという理不尽!」と思いました。その理不尽さを共有する人がおらず、仕方なく自分の持ち物を入れる棚の前に行き、青いカゴのなかの自分の持ち物―自分の持ち物だけは自分の味方だという安心感があったのです―を順次眺めながら心を落ち着かせていたことも鮮明に覚えています。暗いですねー、キモいですねー、残念な子ですねー。でも未だにその「彼」にどうやったらよかったかという解決策を提供できずにいます。
前後しますが、僕は年中から通園したので、入園前の4歳の時にやっていた戦隊ものといえば超獣戦隊ライブマンだった。当時、そのあるキャラクターのヘルメットをかぶってなりきって自転車漕いでました。母曰く「あれは見ていて恥ずかしかった」とのことですが、なりきっていたキャラクターは「優しさ」を性格付けされている女性のキャラクターだったのです。べつにそこになんの違和感も感じなかった。好きなキャラクターだったから。それだけ。前述の文脈に翻訳し直せば、強さ、優しさ、などのキャラクター付けだけでキャラを見ていて、男だろうが女だろうが些末事だったのです。
周りにはたまに話してますが、2歳~3歳にかけて塗り絵も女の子用ばかりやっていて、でも、自分が女の子だという自意識ではなかった。電車やメカが大好きで、そこはとっても「男の子」なのです。性的にもヘテロで、それを明確に自覚していました。
ジェンダーを語る人々は、男と女の区別をかなり自明のものとしてなおかつすごく重大なこととして出発して、その出発点が色々縛られているもんだから、その原因を社会環境とかに求めているように見えます。何を語ってもその出発点は強固だし、むしろそれを強化するようなことしか言わないので、3歳までの平和な世界を壊す、悪いやつらなのです(冗談です)。もちろん、そりゃその区別が現実問題必要で、なおかついろんな災厄をもたらしてますよ。でもその解決策を考えるのに、なんで区別を強化して距離を離す方向に行くんですかね。
大学入ってすぐに、これを理解してくれる人々が寮にいたのでとても心地よかった。そして、その10年後にも某サークルの後輩たちが、ソウルメイトという概念を駆使して―まあ他のメカニズムも働いているのですが―、仲が良いけれどいわゆる「男女関係」ではない関係を構築してるのをみて、「あぁ、類友なんだな、テニサーではありえないもんな」と思って見ていました。
昨日のデートも、まったく心地よく、ずっと話していたくて、四条河原町から京都駅まで喋ったまま歩いてしまいました。
ちなみに、これは性的な事柄を避けているのではないです。僕は別に性的に欲望されることも全く厭わないですけれど、性的に「だけ」欲望されるのはとても悲しい。2つの指標があった時に(1,0)から(0,1)の一次元直線しか見えない人が多いのですけど、ふつーに(0,0)も(1,1)もある2次元でとらえてほしい。なんでわざわざ一次元にするのかわからない。かわいさの称揚の否定も同様、かわいさの称揚を否定する必要なんてどこにもない。いや、本当はわかってるけどね、反比例するという間主観感覚があるからでしょ。なんでそこを固定して考えるのか不思議です。
この性的にだけ欲望する人と通底するのですが、実は世の中の人間のそれなりの割合が僕の目から根本的に違う、人間の皮をかぶった地球外生命体かなにかのように見えています。その違いの方が男女の違いよりもずっとずっと僕にとっては恐ろしい。これは学歴や政治的思想とも関係が無い。血液型なのかなとか、ADHD特徴なのかなとか、いろいろ考えているけれど、よくわかりません。ふとした仕草とかを見て「同じ人間なんだなぁ」という謎の発言をしてしまったりします。
別にそんな異人でも尊敬したりは全然できるのですが。
冒頭の題にもどると、衝突のメカニズムとしてはトランスの人とかクィアの人が、ジェンダー論の主流(なんてものがあるのか微妙だけれど)と衝突するのと似ていたりするのかな。まあ、あの頑迷さが腹立つという Yet Another 頑迷さなんですけど。
- 2014/4/28 追記 ダイバーシティの本質はそういうことじゃないんじゃないかな - メソッド屋のブログ 読んだ。"インターネットの日本語サイトを見ていると、ダイバーシティというと、女性の権利がどうこうとか、マイノリティや外国人の受け入れのために云々という言葉が並んでいます。そこに凄く違和感を感じました。" "それは国籍の違い、人種、性別の違いだけではありません。人間は、すべての要素が違っていて当然という前提で考える事がダイバーシティのポイントじゃないでしょうか?" 別にそれが唯一のダイバーシティのポイントだとは思わないけれど(それぞれの側面でのマジョリティ / マイノリティは存在するしね)、日本の「ダイバーシティ」の文脈に感じる違和感については脳味噌揺れるくらい首肯する。
*1:これ、後半の男女の住み分け自明云々とぶつかる気がしますが、ここでは要は子供社会とか経済的側面とか無視して、表層的な token (cf.token-black) だけ語るって意味です