ほんとコレというか、前も言ったけど例えば他人の学会発表に対して「あなた可愛いから学問以外の道でもやっていけますよ」と述べることは、発表の質やその人の容姿や能力が現にどうかという事実性にかかわらず、場にirrelevantなものを持ち込んだ侮辱になっている点においてアウトですよね。
— 河村賢 (@ken_kawamura) January 8, 2016
これには全面同意なんだけど、
実際にそうだとしても、ステレオタイプを強化するような表現については、警戒せざるを得ない。
— 伊藤憲二 (@kenjiitojp) January 8, 2016
や
Sexism, racism, ageism, 等々、日本語では「〰差別」という訳があてられることが多く、それぞれについて「ステレオタイプ化して認知・表現する」という側面が抜け落ちてしまっている。
— 伊藤憲二 (@kenjiitojp) January 8, 2016
をリツりつつ、それ言われると、「場にirrelevantなものを持ち込んだ侮辱」に加えて「ステレオタイプを強化するような表現」という型がその例の捉え方として導入されているように思えたので、
望ましくないステレオタイプ強化一般の例としてはあまりに激烈すぎて例になっていない気が…というか何のステレオタイプなのか。
という疑問に繋がったわけです。そして、「ステレオタイプを強化するような表現」というタイプの表現批判はかなり一般的に観察される(例は省略)ので、その批判の使いどころについての疑問なのです。
結局、当惑の後の結論としては「可愛い女性は学問以外の場で活躍すべきというステレオタイプを持った人々が(キ○○イとして論外にならない)普通の人にも少なからず居る」らしいのだろうと推測し、そうならば「件の発言はそれに基づいた発言と解して批判されるべきだ、というのは一理ある」と納得したのですが、その発言が「可愛い女性は学問以外の場で活躍すべきというステレオタイプ」から発されたとは初めには思わなかったから、違和感を覚えました。
どういう背景を想定したかというと、何か質疑応答が喧嘩っぽくなって人格攻撃が行われた、もしくは学会に批判的な態度でやってきた外来者が端から攻撃的に発した言葉だった(セクハラではないタイプだけれどこういう攻撃は2度ほど見たことがある)というタイプのものでした。これは確かに「場にirrelevantなものを持ち込んだ侮辱」として排斥されるべきものだけれど、「ステレオタイプを強化するような表現」として排斥されるかというと、そこに想定されているステレオタイプは何か疑問になったのです。僕の個人的な想像でいうと、そんなこと誰かが言ったら、ただの人格攻撃としてみんな白い目で見るか、一応その発言者に釘を刺すか、という反応を周りがすると思うので、誰の何のステレオタイプも強化されないのです。(→ 議論能力および発表能力の発達段階 with 反論ヒエラルキー - 発声練習 これの DH1 として処理されると想像した)言われた方が傷つくことは容易に想像できるので、そこをフォローしたりすることは重要だと思うのですが、それはまたしても「場にirrelevantなものを持ち込んだ侮辱」としての問題化で済んでいるのです。
でも、発言者やその場に居合わせる人達を含め、「可愛い女性は学問以外の場で活躍すべきというステレオタイプを持った人々が(キ○○イとして論外にならない)普通の人にも少なからず居る」ことを想定するのならば、そのステレオタイプを少しだけ持っているような潜在層もそれなりにいるはずで、「ステレオタイプを強化するような表現」という批判は妥当になるわけで、まあ、そうなのかもしれないなと思いなおしました。さらに「白い目で見るか、一応その発言者に釘を刺すか」という反応を想定する僕の方が脳内お花畑なのかもしれないな、とも思って自己解決したという経緯でした。
「ステレオタイプを強化するような表現」という批判は結構乱用されがちで、批判者はそのステレオタイプを問題視するあまりに敏感にそれを読み取るけれども、批判される側はそういうステレオタイプの枠外にいることも多々あると感じているので、はじめはそこに引っかかったということです。
余談、関連: 先進的活動の場でのシニア批判
最近、ちょっと問題だなと感じていることの一つに、「俺ら若者は新しいことをしようとしているのに、老人共は頭硬くてついてこれないからダメだ!」みたいなレトリックがあります。これは学問の場でも、しばしば観察されます。もちろん、シニアの方が保守的になるのは生物的にも社会的にもそういうメカニズムがあるわけで(参考文献略)、事実として傾向は正しいと思いますが、それをそういう形で大っぴらに責めるのどうなんだろうと思うわけです。
たまに、そういう先進的活動のシンポジウムに聴衆として他のシニアの方がいらっしゃってたり、さらには直前に登壇されていたとしても、そういうこと言っちゃう人がいます。まあ、本人は嫌な思いをされたのでしょうから、不満を発したくなる気持ちはよくわかります。つまり、そのシニアの方は権力を持っているので、無理解は即、圧力となって発現するし、それを何とかする建設的な手段も思い浮かばす、「新しいことをしようとしている人」で連帯してノウハウを共有するということになります。もちろん、そういう場は無理解なシニアへの対策を看板に掲げているわけではなくて、先進的活動を看板に掲げるわけですが。すると、そういう発言を誘引する空気が醸成されがちなのではないかと感じている。
で、ここでは「ステレオタイプを強化するような表現」という批判がまさに妥当する気がしているのです。コミュニケーションってのは先入観がかなり強く作用しますから、このステレオタイプに基づいた発言を尤もらしいと受け取って先入観を強化すると、自分が関わるコミュニケーションでさらにステレオタイプを強化するなど悪影響は連鎖すると。またこのステレオタイプはマスメディア含めそこかしこで喧伝されてるものです。
じゃあ、どうしたらいいかというと、このレトリックを「ステレオタイプを強化するような表現」だと言って排斥するのも一つの手ですが、それは元の問題が解決されない限り燻り続けると思う。というか、そのステレオタイプ云々とは別に、元の問題は解決されないといけない。ここでいきなりマッチョなこと言いますが、その程度のステークホルダーを巻き込めないならその程度!という気分で、その問題に取り組めばいいのかと思います。身近だと、あるシニアの好みの事例を作り上げることでプロジェクトを推進した例とかがあって、最終的に社会にまで価値共有の輪を広げることが求められている昨今、まず輪を少し広げる一歩としてその障壁を捉えるのが妥当かなと。そうしてみると、シニアであることは本質的に問題にならず、もっと具体的な問題点(例えば、「コンピュータによるデータ分析の結果を専門家に信頼してもらえない場合」など)としてその齟齬は表現できる。すると自動的に「ステレオタイプを強化するような表現」の問題性も減るわけです。
らくらくホンも、老人には携帯売れねぇ!って怒ってたら生まれないですよね、みたいな。
余談2: 本題と余談の関係に関する余談
これを前半のジェンダーの話に適応できるかは、留保します。そもそも、自己解決したものの、元の状況が僕が想像つかないような状況だったことから、想像を広げるのが困難です。
一方で、ちょっと話はそれますが、僕は「カッコよさ」肯定派なので、研究者にも男女問わずアイドル的研究者がいてもイイと思うし、マスメディアでの研究者像が「賢い」「変人」が多い中、「カッコいい」研究者ももっと増えていいと思っています。読モに憧れて服着るように、アイドル研究者に憧れて勉強のめりこんでもいいじゃない。でも、それが研究者に不当に強制されたら問題だし(リケジョブームにはそういう部分があった?)、ましてや、可愛いからって「学問以外の道」を勧めるなんて論外です(「可愛さ」「カッコよさ」をいかなる文脈においても称揚しているので当然の帰結です、「可愛さ」「カッコよさ」が異性の性的消費対象としてしか価値がないなんてとんでもない!)。そういう意味で「場にirrelevantなものを持ち込んだ侮辱」の「侮辱」って部分も大事なんですよね、前にツイッターで僕が「この表現はなんで許されるんだろう?」と途上国支援の国連のポスターでだいたい黒人が使われることについて聞いたら、「貧困状態を改善しようっていうメッセージだからオッケー」と指摘された件も含め、「ステレオタイプ化して認知・表現」すること自体は即問題にはならないことは大事だなと(福山雅治のガリレオとか)。