教養とイデオロギー
家でオンラインミーティングすることが日常化していると、妻にオンラインミーティングの声を聞かれているわけだが、 「さっきの、ちょっと怖かったよ」 と言われてしまうことがある。別に怒っているわけでなくとも、いわゆるマサカリを投げるさまというのはそういう文化圏にいない人からすると怖いものなのだろう。
昨日は相手が持つべき専門性の基礎的な部分に問題のある発表について、それは職場の将来、ひいては日本の人文系の政策の将来に関わる話だったので、(学生さんなら投げ方にもっと注意するが、インテグリティの件しかり、シニアな方々というのは全力で投げないとマサカリ刺さんないので)結構しっかりマサカリを投げたのだが、「専門性の基礎的な部分に問題のある」といいつつ、なんでそんなことが生じるのか、私のその認識に問題はないかということについて表題の通り「教養とイデオロギー」の観点から検討するつもりが、深夜4:00に書いてるせいで、呪術の話で結ばれる。
ざっくりとした内容としては、大型の研究費は東大のような大学に集中しており、それは人数で割ってひとり頭にしてもそうなるよ、という話である。そして、それを大学ランキングなどと相関の強い指標として、大型の研究費を取りに行こう(もしくは人文系の研究者のそれを支援しよう)、となっていた。学生ならば、ちょっと呆れつつも指摘点を2つくらいに絞るには、「数字の解釈」「因果と相関」くらいかな、と教え諭すモードに入るレベルの話である。もちろん理系 vs 文系でいうと前者の方が大型の研究費が多く、別に人文系の研究者のそれを支援すること自体はやってみることに意義はあるとは考えている。第五世代コンピューターのプロジェクトが失敗したと言われつつも、次の時代の担い手の研究者ネットワーキングと教育の重要な基盤になったように、人文系の大型科研に立て続けに入れていただいている身からするとその意義というのも認めるところだ(別にそれらの科研が失敗しているとは言ってないよ、プロジェクトの成果を問わずとも出ると見込める価値があるので、大型プロジェクトをすること自体の意義もあると言っている)。
で、話を戻して、社会科学の基礎的教養があれば、分析の結果「人数で割ってひとり頭にしてもそうなるよ」という数字を見たら、「線形フィッティングが問題なのであって、関係資本のメカニズムからしても、政府の「選択と集中」などの政策などを踏まえても、個人の頑張りではない部分について分母を累乗で割らないといけないのではないか」と秒でよぎってほしいところなのである。意図を持って「人数で割ってひとり頭」という指標を使う、もしくは他の分析も踏まえてそれを使うという、「強い意志」があるのならば、それを語るべきであって。SNSの炎上について、堀元見氏が、浅慮を一番の問題として据えつつ「発信者の内部でしか炎上の善し悪しは計れない」(11:00ごろの発言)としていたのは、善悪の審級に観察不可能なものを極力含めるべきではないと強く信じているタイプの私を納得させる衝撃の反例(厳密には「善悪」の意味がズラされただけで反例にはなっていない)だったのだが、「教養のなさ」にみえる発言は少なくとも研究所的な側面を持つ組織の中では言い訳を求められて然るべきだとは思うし、一方、「強い意志」その一例として「イデオロギー」の強い提示を示すことでそれは肯定されうると思う。さきほどの炎上の例がまさにイデオロギーと関わっているわけだが、周りの迷惑も、バックラッシュ的な振る舞いによる悪影響も何も考えずに「イデオロギー」を開陳したとなると単なる愚行で終わるわけだが、考えてすらこうするのだという強い意志を持って行った場合、それでもはたから見たら愚行ではあるものの、本人の中では善しとされることは想像に難くないので、説得を諦めることになるかもしれない。なんなら、そういう振る舞いこそが、政治的には力を持ちうるのが昨今の風潮だろう。強い意志で愚行する。それを愚かと呼ぶのは私のイデオロギーを理解しない者たちである。私のイデオロギーについてくる者だけがついてこい。しばしば「イデオロギー」をそのマジョリティの力を使って透明化した上で、そういう振る舞いがなされる。そして、これが一文字学部の学問のような場ではなく Institutional Research (IR)という新興で実務が入り混じる分野であると、そこに求められる「社会科学の基礎的教養」というのも曖昧になり、なんなら学術会議が大衆にイデオロギー的に嫌悪されたのと同様、「社会科学の基礎的教養」がその学問社会のマジョリティさで透明化してきた「イデオロギー」と相対化されてしまう。具体例に戻ると、研究費の獲得という側面で、強い者が強くなるという機構があって弱い者が搾取される構造があるときに強い立場にいる自分について「私はちょっと強くて偉いですね、もっと強くなりましょう」という分析を恥じなくできるかどうかはイデオロギーの問題でもある。社会科学は透明化されたイデオロギーの中でそれを恥としてきた。IRはそんなイデオロギーは持ち合わせておらず合理性の欠如として(分野の合意ではないだろうが)それを恥とする規範が生む分析の補正を拒むことがあるのだろう。
まあ、ほとんどの年配の優秀な学者たちはそういう場に居合わせると「悪しき相対主義」だと一蹴するだろう。なんなら、「強い意志」が語られたわけでもないのに、こうやって「忖度」してる私を「悪しき相対主義」の実践者だと非難するだろう。しかし、本当に概念的ではなく実装されてしまったポストモダンの中に生きていると、投げたマサカリが幻影しか斬らなかったように見え、無力感を感じるとともに、どうやってまず解呪するか、もしくは私の足場がしっかりしていないから投げられていないのでは無いかと考えるわけだ。マサカリが刺さることを支える「世界」が無い。そういう物理だっただろう、理だっただろう、それがない。覇気や呪力を纏っていないと効力を発揮しない世界線なのかもしれない。大衆全体の中にそれが無いことはもう幼少期から諦めていたが、仮にも学問的な職場でそれか。一応、機関の長は私のマサカリを理解しているように見えたのは救いである。一方、「研究費を取るということ自体が成果のように語られる」ことも私は即座に問題の方を感じるところだが、その場では圧倒的に肯定する人が多かった。信頼している知性の一人もそちら側であった。私からすればそれは政治的圧力をナイーブに内化しすぎじゃないかと見える、でもその世界理解は過剰に愚かに左翼的だろう、政治的圧力という呪いはそこに効力をもって実在するのだからそれを前提に組み立てないと手が空を切る。常に、呪いと理の二重性を持つことが重要なのだ、と、その二重性を皆の脳に認識させることができれば、呪いと理が逆転した世界、呪いが現実で理は理想なのだという世界、に生きている人にもちゃんとマサカリを刺せるようになる。議論の場でそういう領域を展開できる能力を磨くしか無い。
misuseに対抗する
幾度か研究インテグリティに関して組織内でも発言する機会があったけど、もう2年間で日本語の「研究インテグリティ」の語義は research integrity とは別物として定義されてしまったと感じているので、その語義で積極的に使う人間を、生成AIにも劣る言語感覚で話す人もしくは管理主義者として内心侮蔑し、相手にしないことにしました。参考までに、生成AIにそのズレの問題点を語らせたものを置いておきます。だいたい言いたいことは代弁してくれている https://t.co/hpMk6L183x
— KAMEDA, N. Akihiro (@cm3) January 27, 2026
こういうツイートを昨日したけれど、このChatGPTの出力の中に含まれている学術会議の論点整理がかなり不誠実なもの(不適切な引用なども含まれている)でどうしちゃったんだろうなと思った。「再定義」「拡張」と強調されていて、意図的に語の濫用をしているあたり、関係者の能力を疑うよりも、なんらかの圧力があったのかしら、と思ってしまう内容だったからだ。また、全然関連する論点ながら、人文系ではあまり論点に挙げられないデュアルユースについても言及していたので、気になったのだけど引用先とか見に行っても全然具体がなかった。研究インテグリティの中でデュアルユースを含む misuse をどう扱うかというのはちょっと気になっていたが、残念だ。前述の「どうしちゃったんだろう」含め、何かデュアルユースについても圧力の中で言及だけしたのかしらと思った。しかし当方、「残念」で放置できない事情があり、先ほど締め切られた人工知能学会に哲学者とともに「デジタル人文学が misuse に脆弱なために(特に世代間)倫理についての検討が必要なのではないか」という論文を投稿している。そこで、こちらの方面から少し考えてみる。
以前翻訳したAHA専門職行動基準書 (2019年改定版)*1には以下の一節が出てくる:
歴史家は、場合によっては特定の資料の使用に関する制限的な条件に同意することがあります。ある種の研究、ある形式の雇用や、ある種の技術について(たとえば、オーラルヒストリーに関するインタビューの実施の際)は、その結果として得られる知識を用いて歴史家が行うべきことや行ってはならないことについての約束を伴うことがあります。歴史家は、そうした約束のすべてを守るべきです。歴史家は、自らが専門家として接する依頼主、学生、雇用主やその他の人々について、その秘密を尊重すべきです。しかしながら、歴史学の専門的観点からみると、歴史的記録は、オープンアクセス化され、一般の場で議論されることが好ましく、歴史家はこの実現についてもまた可能な限り努めるべきです。歴史家は、自らの調査研究が開始される前に、秘密保持義務について定めて、研究の内容に影響する可能性のある条件や規則について広く周知すべきです。
特に機微情報の misuse に関わる内容である。DHに関してはオープンデータの運動とも関わってデータをオープンにしようという圧力があり(その圧力が存在すること自体には賛成だよ)、それがデジタルアーカイブの肖像権ガイドライン と関わった misuse つまり、著作権と肖像権を限定的な形でクリアしていればオープンにされてしまう、他の権利の観点が軽視されてしまう問題としては認識されている。オープンにするか問題としては部落に関する地名問題も関連する。
史資料の保存整理と公開活用という原則を大前提とし、絵図をふくめて、差別に関わる史資料を、隠蔽、封印、廃棄、あるいはデジタル技術などによる改竄をしないことを求めます。
ただし、閲覧者の目的を的確に把握し、差別の助長や人権侵害につながる可能性を丁寧に説明するなど、利用にあたっての適切な助言をすることは必要です。悪意にもとづくと判断されるときなど、場合によっては断ることもありうるという認識も、あらかじめ共有しておきましょう。
全国部落史研究会 - 前近代における差別呼称が確認できる絵図(古地図)のデジタル公開についての提言
なので、オープン化と misuse 対策は両立するというのは具体議論レベルで着実に確認が積み上げられてきたことであり、いまさら対立構造として取り上げること自体が不適切と言っても良いと思っている。
「悪意にもとづくと判断」については「被差別部落の地名公開」許しがたい差別行為の実行者から直接攻撃 - RKB毎日放送 のように自明なものもあるが、難しいこともあるだろう。というか、「悪意」というのはなかなかこういう制度の中に組み込むことは難しく、デュアルユースの議論などでも帰結主義に基づく議論が多いと思っている。そこら辺はデュアルユース研究の何が問題なのかとかが綺麗に整理していて、「加重価値基準」のようにリスクを確率と被害の甚大さの重み和で捉えるというのは筋がいいと思っている。一方、例えば、多くの事象について真の「確率」というのは知り得ず、それは量的な形ではなかなか扱われず結局、想定される被害の甚大さと絡み合って、シナリオベースで「そのシナリオは対処すべきであるか、どの程度のどういう形の予防がなされていれば適切であるか」というのが実務上現実的な整理かと思う。(プラトンの「知識とは正当化された真なる信念である」から連綿と知識について「正当化」や「真」についての研究から構成されてきたのに対し、Timothy Williamsonが知識こそがプリミティブな概念でありそこから、正当化のありようなどが生じるとしたのに似ている。…が、それでも、前述の整理に意味があると思っているのは私は「確率」「被害」がはじめか「それが問題か」がはじめかではなく、双方相互に行き来する必要があると確信しているからである。ここではその双方が理論と実践の場面で偏るということを指摘しているにすぎない。)なので、研究者がよくあるシナリオとそこで必要とされる対策については対応し、そして、シナリオやそこで行うべき対処の知識(shared practices for misuse prevention とでも名付けておこう)の集積について常に協力的である必要がある、というところまでが実践的に言えることかと思っている。それが DMP の段階で組み込めるとよい、というところかな。
ちょっと話はぶっ飛ぶけれど、最近、万人に「市民」を擬制して取り扱うのが ableism として問題なんじゃないか、大半の人間が「酔っ払い」だとして社会を組み上げることが必要なのじゃないかという考えに回帰してきている。直接のきっかけは Disco Elysium - The Final Cut をプレイしたことだけれど、もともと害のある(本人の自覚では)善人の社会への参与を制限しうるか問題について似たようなことを考えていたので「回帰」と表現している。同様に、研究者が、研究インテグリティを発揮することを期待するのも、理想の研究者像の擬制であり、それは「建前」というラベル付きで掲げるべきものであって、地の文で発言するのはよくないのではないかと思っている。つまり、先ほどの提言は「研究の途中で特定のAIとたまに10分くらい会話することで研究の将来の価値が上がる」くらいの実装がなされるべきであり、こういうことに多くの研究者が意識的でなければいけないという意識の高い方向で考えるべきではないと思っている。そもそも、misuse は misuse するやつが悪いんであって、その責任を過剰に研究者に押し付けるべきではないし、政治をハックして社会をぶち壊す奴らが悪いのであって、道理のわからぬ凡俗が非難されるべきではないのである。
2026/01/29 追記:冒頭に「研究インテグリティ」という概念の misuse の話題を出していて reflexive だということに気づいたが、まあ、想定していたのは技術やデータの misuse であって、概念や語の misuse はちょっと次元が違うので、難しいかな。でも何が misuse なのかが難しいというところ含めてその相似は示唆に富むね、日本では misuse が正式になっちゃった、そうなると、言語学における語用の反規範主義で考えると、それはもはや use なのですよ(とはいえそこに語の定義の人工性や政治が絡むと、そうとも言い切れないとも主張可能)あるデータの意外な使われ方に楽観的に期待をするのがオープンデータのあり方なので、misuse かどうかは、その使用が生じた時にならないとわからない部分が大きい、とも言えるし、使用が生じた時に概念工学的だったり規範主義的に use/misuse を区別することができたとして、その区別もやはり時代の審級に晒されるわけで、本当に論理というのは無力なのだなぁと… そんな中で、<社会>の破壊に加担している「道理のわからぬ凡俗」をヨシヨシしようとしているのは、そうするしか、社会は改善できないから、であり、圧倒的な社会構想能力でそれをするしかないだろうというマッチョイズムであり、それが長いものに巻かれていると誤解されるのは悲しいものである。
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一部私大「義務教育のような授業」 財務省が指摘 文科省幹部は異論https://t.co/yYZrfVcr0X
— 初台さん@大学財務ウォッチャー (@daigakuzaimu) April 15, 2025
「大学なのに義務教育のような授業だ――。財務省が15日の有識者らによる審議会で、一部の私大の教育内容を厳しく指摘し…」… pic.twitter.com/j0scVWW1GA
炎上してたこの件、はじめは財務省の役人たちは省庁の中でも偏差値的には優秀なはずであって、だいたいの反応は想定の範囲内なのだろうから、ハンロンの剃刀の「無能さ」の説明が不可能な状況であって、「邪悪」なんだろうなと思った。言い換えれば、「下層」を切り捨てて社会の奴隷にすることは日本の経済的繁栄と天秤にかけて許されるという倫理観を持ち合わせている、もしくはそういう倫理の観測気球をあげてよいと考えていると推測するのが妥当なんじゃないかな、と思った。でも、財政制度分科会(令和7年4月15日開催)資料一覧 : 財務省 を見ると本当に頭が悪いだけに見える。

例えば、Twitterで切り取られていた左の方ではなく右下をみて、「情報系業種におけるミスマッチ」「文系出身者も多く、必要とされる能力とのギャップが生じている可能性。」とか、大学の情報系の出身じゃないと、会社での情報系の業務ができない・難しい前提に立っているが、むしろ「ちゃんとした」大学の情報系の出身など、ほとんどの日本の会社ではその専門性を使いこなせない。約10年前に政府界隈で見られた大学を労働訓練校化したいという欲望はとうとう、大学を労働訓練校としてしか見れない無知蒙昧に堕落してしまった。
これは財務省が自分たちの話にノッてくれるお偉いさん(教授やシニアな経営陣)ばかり集めた(財政制度分科会(令和7年4月9日開催)資料一覧 : 財務省 に名簿がある)のでそうなってしまっているのではないか。「情報系」の解像度が「我が社もAIを!」と言いながら的外れなことをする経営層のそれで、自分自身が使えてないタイプの人間が集まってそう。直前のスライドでは

急激な少子化とそれによって生じている必然的な変化について書かれている。ここから、もともと大学に行けなかった層が大学に行っているのだけれど、それを「教育の質の確保・向上が必要」と結論づけるのは、ちょっとその結論を書いた人の頭の質の確保・向上が必要であると言わざるを得ない。それとも、「誰でも質の高い教育をすれば十分に優秀になれる」というタテマエとともに心中したいのか?そうじゃなきゃ、「「下層」を切り捨てて社会の奴隷にすること」を目指すことで長期的な繁栄を諦めて短期的に逃げたいという魂胆で、こういうナラティブによって彼らを搾取し使い潰すことは、邪悪だけれどもある種の合理性を見出せる。しかし、それも長期的な観点から反対である。評価に関する諸々については、こういう話をするからには 測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか? 日本の政策はなぜ機能しないのか? EBPMの導入と課題 とかは当然読んでるんですよね?
わいもジェンダー系、現代思想史ゼミでしたが、これはガチ。
— 脱輪 @野生の批評家 (@waganugeru2nd) April 13, 2025
まあジェンダーのみならず思想とか哲学とかそーゆーアレを素直に言っちゃうと、「言うこと聞かねえやつ」と思われてふつーにマイナス。
なぜなら社会はゴミだし面接官は無能だし会社は言うこと聞く体力あるやつを求めているだけだからです。 https://t.co/MGtXfA5Kxg
「社会で必要とされる分野」というものがどういうように語られ、それは真に「社会で必要とされる分野」とどういう関係にあるか考えるだけの人文社会学的な能力が、この委員にも足らなさすぎてわかっていないのだと思う。この国の将来にとって害悪でしかないので、教養教育などで最低限の人文社会的な素養を持っているなら理系も含めて、理詰めでこの委員会はバッシングすべきだと思います。私は、シニアになってこのようなレベルの知性の人間を専用の施設に閉じ込めて10年間再教育を施したとしてもまともな知性を持てるというタテマエには賛同しかねるし、代替案がというより存在が害しかなしていないともうので、ぶっ潰す以外に策はないと思います。
とこんなところで言っていてもしょうがないともうのですが、財務省に限らず「自分たちの話にノッてくれるお偉いさん(教授やシニアな経営陣)ばかり集め」ることが常態化してしまって、それに自縄自縛されている官僚組織の問題というところもあり、もう既存の政治組織と大衆に政治は任せておけないと考えるしかない。学問自身が積極的に政治に関与することを学問的にまっとうにやるのは、最近の学術会議がらみの動向を見ていても無理でしょう。幸い、人工知能のレベルが、使い方次第では財政制度分科会よりはマシな知性を発揮できるレベルになってきたので、私はその方向に賭けます。
頭の悪い財務官僚と哀れにもその操り人形としてしか動けないエセ学者や経営者のために、何点か(←そのうち追加する)解説をしておきましょう。
「社会で必要とされる分野と大学で学んだ分野のギャップ」は報告書にある経済産業省「平成29年度産業技術調査事業(産業振興に寄与する理工系人材の需給実態等調査)報告書」のp.17 図表2-8 ですね。そこには「社会科学系・人文科学系の人材は供給過多の傾向」などとは書かれておりません。そもそも「過多」という表現はこの報告書を通して「東京での需要過多」という一箇所しか登場しません。不足というのは66回も登場するのに対してこの状況です。そして、不足に関しては以下のように書かれているのに、あなたたちが「土木や建築分野」についての言及を省いた理由に自覚はありますでしょうか?
全体的に、機械工学、ソフトウェアとともに、インフラ整備の人材不足のためか、土木や建築分野が不足していることがうかがえる。
私には3つほど仮説があります(経済規模、人の規模、外貨)が、胸に手をあてて考えてください。そして、「本当にその理由は妥当か」を国の将来に何が必要かという観点から検討してみてください。
さて、「過多」という表現の話に戻ります。あなたたちには「過多」に見えたそれを、経済産業省はどう扱ったでしょうか?
人文科学系においては、大学で学んだスキルが企業が必要とするスキルを大きく上回っているところが特徴的であり、例えば人文科学系の学生においても、情報系のスキルを学ぶことで、このギャップを緩和できると考えられる。
「大きく上回っている」ことと「過多」であることの違いは何であるか、小学生の国語の問題にちょうど良さそうなレベル感ですが、ちょっと財務官僚には難しすぎたようですね。ChatGPTさんに聞いてみてはいかがでしょうか、以下のように答えてくれます。「その違いは、この文章が政策や世論に与える影響にどのような差異をもたらしますか?」という質問もしてみています。
付記の部分なんてわかりやすいですね。
この違いは、「誰が変わるべきか」という方向性を決定します。
- 「上回っている」:社会・企業が変わるべき
- 「供給過多」:学生・大学が変わるべき
つまり、同じ統計でも、語られ方が当事者の尊厳、進路、予算配分に直結するのです。
ちょっと私のChatGPTは私に教育されているかもしれませんが、みなさんの手元でもそんなに大きな差異はなくちゃんと小学生並みの知性を発揮してくれるのではないでしょうか?
あと、本当は、元の資料がどういう目的と文脈で書かれたものかを把握して、それを読み解きに反映するというのも大事なのですね、それは歴史学の資料の扱いなどで実践的に叩き込まれますし、知識としては第一回目の授業で話されるほど基礎中の基礎ですが、残念ながら、人文科学系のスキルが小学生に期待される程度以下の皆さんにはここに書いても理解してもらえるとは思えません。なので、あなたたちはそれを恥じる以外にどうしようもないと思います。「理工系人材育成に関する産学官円卓会議」などが背景にあって、どうやって理工系人材を育成・確保するかということなので、あなたたちに不足しているような国語力の底上げが、他の国民にも必要ではないということを言うために使えるような資料ではないのです。
あと、経済学でもアンケートを行うこともあるはずですが、どうやらそういう授業はおとりにならなかったようで。アンケートはその対象や項目を注意深く設計しないと測りたいものが測れないですし、注意深く設計したところで推測可能なものから不可能なものまで実態とのズレが生じるもので、目的外使用の場合にはなおのこと注意を要するということくらい、理解していなければアンケートを扱うような授業の単位をあげられないです。アンケートが「 経営・管理工学、事業創造系(工学)」が情報系に分類されたような定義であることはご存知ですか?そういう細かいことに気を配ることができないのならば、少なくとも元の資料の主張をちゃんと読みましょう。
「需給分析の考え方」のところでこのデータを扱い際の注意を書いてくれています。あなたたちが興味を持っているのは「社会人アンケート」のところですね。
例えば、文型の選択科目で履修した情報系のスキルと、情報系学部・学科の必須科目で学んだものを同じとみてよいか、疑問が残る。(中略)現状の人材需給を考えるにあたり、高い専門スキルを有するスペシャリストだけでなく、自身の専門以外の専門分野を有するゼネラリストが求められていることがわかる。このため、回答者が学んだ学部学科において主に学ばれる専門分野以外の履修状況を把握することは重要であると考える。
すでに引いた「人文科学系の学生においても、情報系のスキルを」論と一貫した内容ですね。ちなみに、その主張自体、人文科学系の学生の情報系のスキルを教えることのある私の立場からすると「総論賛成、各論は実態に問題あり」なのですが、まあそこは置いておきましょう。上で私は「むしろ「ちゃんとした」大学の情報系の出身など、ほとんどの日本の会社ではその専門性を使いこなせない」という指摘をしていますが、そんなことはこの資料を読むだけでも気づけたはずなのです。また、
特定の学部学科のみに限定して需給を比較すると、情報系といった文系学部を卒業した学生も多数就職している業種において、実態と乖離する。
みたいな話も書かれており、もう一つの内閣府の資料についての読み解きについても示唆があるわけです。
そもそも人文社会系の教育の必要性は、経済産業の側面だけから測れないのは当然なので、そこは経済産業を専門に扱う省から幅広い国家財政の価値を見渡す省へ文脈が移る時に補わなければならないのですが、補うどころかより積極的に無視しているのはどういうことなのでしょうか。
「定員割れしていたり、基礎的な学びを採り入れたりしている大学の教育の質が一概に低いとは言い切れず、一面的で粗い考え方だ」と指摘。「学力の成長度や進路実績なども含めた評価が必要だ」と反論した。
文部科学省が担当のメディアを介してお叱りを入れてくれたようですが、そこまで踏み込んでおらず甘いですね。そこは大きな話なので『測りすぎ』の本の解説を含めてあとで書くことにしましょう。
ちょっと本題を外れるのですが、ざざっと過去の文教関連の発言を見ていてやたら害悪の大きい人がいる気がする。たとえば、NHK解説委員の神子田章博という人物。
〔神子田委員〕5ページの2,000人の定員増を見た瞬間、これは幾らかかるのだろうという思いがして、確かに、霞が関もそうですが、あまり忙しいと良い人材が採れないということが起こって、そうした意味では増やしたいのですが、一方で、例えば、介護人材はどうだ、足りないと言われていますが、全体の中でどうするかというと、やはり増やさないという前提でどうするかを、まず考えてほしいと思います。
これは労働人口が減っている中で大事だとは思います。
それと、忙しいから授業を減らす、こまを減らすということはどうかと思いまして、やはり私も拙い教育実習の経験があるのですが、1か月ですから、やはり生徒に何か規則を守らせるとかすごい大変ですし、実習生にさえ悩みを打ち明けてくれる生徒もいて、やはり先生は生徒と触れ合うことで、人を教育できるのではないか。悩みを聞いたりしながら育てたり、若い先生だったら自分が育ったりもするということで、何でこの教育授業の時間を減らすという話に発想がなっていくのかなと。
資料の方は、以下の通り、教科担任制によって、学級担任の持ちコマ数を減らすという話である。
教科担任制の趣旨・⽬的は、専⾨性の⾼い授業の実施による教育の質の向上のほか、教員の授業持ちコマ数軽減による教員の負担軽減とされる。
なのに、そのような調整をお気持ち論で否定した上に以下の発言である。
担任の話も、授業交換のイメージ、6ページにあるのですが、これをもっと現場で知恵を出してやったらどうなのか。文科省も、金を要求する前に、もっと脳みそから汗が出るほど知恵を出したらどうなのかと思います。
現場と文科省に知恵が足らないから、授業交換などが進まないとお考えで、そのせいで、新規の教員獲得を伴う教科担任制の話がでる、それが予算と人のリソースを圧迫すると考えているのですね。授業交換も含めて、なんなら家庭にアウトソースするなども含めて、色々手を打っている中での、教科担任の話ですよ。それぞれのやり方のメリットデメリットなどはもっと分かりやすく資料にまとめておけばこういう発言にはつながらなかったかも知れませんが、
いろいろな事務作業とか親との対応とかあるのですが、この部分を専門にやってくれる人か何かを雇うと、要はカスタマーサービスでも、電話に出てきて、らちが明かないと、何かすごい人が出てきて処理したりするではないですか。何かそうした人が出てきて、親の対応だけでも全部やってくれると、先生は教育という本業にもっと集中できるのではないかと思いました。
結局、人増やしていて、それはカスタマーサービス人材を増やせと言っている。派遣でできる、派遣は安いからOKと思っているんですかね、そんなものはあなたが知恵が足りないと言った文科省が10年以上も前に考えててやってたことなんですよね→外部委託始めます―モンスターペアレントへの対応 - きょういくじん会議 - 明治図書オンライン「教育zine」 そんな認識でよく臆面もなく委員やってるな。その取り組みの現状を聞くのならアリなのだけれど。まあ、結局、モンペは先生を出せっていうから難しいんだというのは想像つきますけどね。
そして、この議事録を議事要旨にまとめるのは財務省の職員がやってると思うが、
先生が忙しいから授業時間数を減らすという考え方はどうかと思う。実際、先生は生徒と触れ合うことで人を教育できる。
と要約している。もうこれ、誤読させて、発言引き出して、お墨付きを得た意見として掲載するというかなり悪質な所業ですよね。だから、委員が不勉強なのはもう仕方ないとして、そういう委員をこのように「使って」いや「操って」いる財務省は確実に糾弾されるべきなんですよ。
Strategic Essentialism における幾つかの戦略について
(以下、ChatGPT o1, 4, 4.5, 4.5 deepresearch との会話の結果を少々手直ししたもの。背景:ある研究会で感じた懸念を Cultural Essentialism via Ressentiment (ルサンチマンによる文化本質主義)と概念化した結果、たまにChatGPTとの会話で登場しているのだけれど(僕のChatGPTは一緒に議論した造語で溢れている…)、これまたある取り組みに関して感じた懸念を、研究やその文化の蛸壺化の重要性という話から発展して文化論一般でいうと Cultural Sanctuary が近いか云々と話していて、繋がったのは良いのだけれど、なんかある程度外部に書いておかないと、そのうち ChatGPT としか会話できなくなりそうで、ここに一部公開しておこうと思った。文化政策についての議論としてちゃんと論文化するのは手間だしあんまり興味はない。そっちの専門の人が論文化したいということがあれば協力します。具体的に想定した人が一人いたのだけれど:パ****ちゃん、Twitter上で消えていたのか僕がブロックされたのか分からないのでとりあえず明示的言及は避ける。)
近年、グローバリゼーションの進展は文化間交流を劇的に加速させている。その一方で、過剰な文化交流がもたらす弊害や、文化的多様性の喪失を懸念する声も高まっている。ここでは、「Strategic Essentialism(戦略的本質主義)」という概念を手がかりに、文化の保護と交流を適切にバランスさせる戦略を考えてみたい。
Cultural Essentialism と Strategic Essentialism
まず、「Cultural Essentialism(文化的本質主義)」とは、ある文化や集団を固定的で本質的な属性として捉える考え方であり、これには自己文化の理想化や他文化のステレオタイプ化が伴いやすい。一方で、「Strategic Essentialism(戦略的本質主義)」は、文化の多様性や動的な性質を理解した上で、特定の政治的・文化的目的のために一時的かつ意識的に文化やアイデンティティを本質的なものとして提示する戦略である。インドの文化理論家ガヤトリ・C・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak)が提唱したこの概念は、弱い立場にある文化やコミュニティが外部からの圧力に抵抗し、自らを守るための実践的手段として積極的に評価されている。
Cultural Sanctuary と Cultural Bazaar
私は、文化を保護・発展させる空間として「Cultural Sanctuary(文化的聖域)」を意識することが大事だと思っている。Cultural Sanctuaryは、特定の文化やコミュニティを外部の影響や干渉から一時的に遮断することで、その文化の内発的な創造力を守り、発展させる空間を指す。文化は、時に外部からの影響を制限した「孤立状態」でこそ、純粋な形で深められ、新たな文化生成力を獲得できる場合があるからだ。
しかし、もちろん、文化が積極的に交流し、互いに刺激し合い、新しい表現やアイデアを生む「Cultural Bazaar(文化的バザール)」もまた、グローバル化時代に必要不可欠な空間である。特にインターネットは現在この「バザール」として機能し、多様な文化が自由かつ混沌と交錯し、予想外の創造性を発揮する場となっている。
つまり、Strategic Essentialismという観点からは、Cultural Sanctuary(文化的聖域)とCultural Bazaar(文化的バザール)の双方を意識的に準備し、状況に応じて使い分け、併存させることが重要になる。
グローバリゼーションは、文化交流を容易にするが、同時に一方的で均質化を促す危険性を孕む。Cultural Sanctuaryは、そうした均質化への抵抗装置として機能し、ローカルな多様性を守るための戦略となる。逆にCultural Bazaarは、多方向の交流を促進し、グローバリゼーションが持つ積極的な面、すなわち文化の相互理解や創造的融合を最大限に引き出す仕組みとして働く。
これらの戦略的使い分けは、文化交流の制御を可能にし、グローバリゼーションの恩恵を享受しつつも、固有の文化的アイデンティティや創造性を喪失しないための鍵となる。
なお、「Cultural Sanctuary」は既存の概念であり、文化や環境を保護する目的でしばしば使用されている。一方で「Cultural Bazaar」は、Cultural MarketplaceやCultural Commons、Cultural Crossroadsと同様の自由な交流空間を指し得るが、本稿ではCultural Sanctuaryとの対比的ペアとして機能することを念頭において敢えて新たに命名したものである。上からの政策がCathedral(伽藍)的になって失敗しがちであるので、伽藍とバザール - Wikipedia を意識して、Bazaar という語を選んだ。この議論がわからん人には、聖域の方含め、「ちゃんとほっとけ!」ということだけわかって頂ければよい。David Held 2022 "A Globalizing Word?" では、文化のグローバル化の問題をどう捉えるか、肯定的、否定的、そう簡単に生じない、といった3つの立場を踏まえグローバル化も文化の変容の一要素として飲み込むような「文化の変容論」を論じていると思う(10. 文化のグローバル化 1).地域文化の画一化・均質化・平準化 - ppt downloadより推測)一方で、この議論はグローバリゼーションの力に対してあまりにも楽観的なので Strategic Essentialism の枠内でその変容で考慮すべき要素を挙げた形になる。
ルサンチマンによる文化本質主義を避けることの重要性
ここで注意すべきは、文化を防衛するための本質主義が「Cultural Essentialism via Ressentiment」、すなわちルサンチマン(怨恨や被害意識)を基盤としたものにならないよう注意することだ。
Cultural Essentialism via Ressentiment は、「自分の文化が脅かされている」という脅威感に基づき、自文化を理想化し絶対視する一方で、外部文化、特に力のある文化を敵視・ステレオタイプ化する傾向を強める。この現象は、自文化を守ろうとするあまり、かえって自己を閉ざし、対話や理解の可能性を阻害する。結果的に、文化の内発的な創造力を損なう恐れがある。
具体例を挙げることは、その適切な empowerment を阻害しかねないので基本的にボカさざるを得ないが、単に西洋的標準を相対化するために十分な検討を経ることがなく差し出されるローカル化された標準、歴史的被害意識から生まれる集団の強硬姿勢や、規制への抵抗感から過度に自己防衛的になった結果の「弱者男性」のオタク文化、というものが問題になり得る。こうした状況では、自文化への誇りがルサンチマンに転化し、結果的に文化そのものを歪め、自己目的化する可能性がある。
Strategic Essentialismを実践する際には、文化を守る動機がルサンチマンに陥らないよう十分注意し、内発的で肯定的な価値観に基づいて文化を深める努力を維持することが重要である。
おわりに
文化間の関係を考えるうえで、戦略的本質主義の枠組みの中で、文化的聖域と文化的バザールを両立させるという戦略は重要である。また、ルサンチマンに基づく文化本質主義を避け、積極的で内発的な動機に基づく文化の発展を推進することも意識しなければならない。
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Alexa の スキルのプログラミングを試した - Drafts とかやってて chatgpt の方はたまーに使うけど、まあ全体的にあまり使わない。一方で出張中に Alexa が恋しくなるほど Alexa に日常的に頼っている。
- ただいま、おはよう、いってきます:妻が里帰り中、シェアハウスに住んでないと気が狂う僕が正気でいるためには必要
- 今何時:起きるかどうか迷った時。だいたい5時台で寝直す。
- 今日の予定は?明日の予定は?:Google カレンダーと同期
- 今日の天気は?:洗濯物干すか決める
- 「タイマー 30分 ⚪︎⚪︎」「タイマー 30分延長」:いま何をやってるかわからず作業に没頭してしまうのを防ぐため。ポモドーロをよりシンプルにしたもの。
これだけでほとんど十分です。アレクサ+ で chatgpt なことをしてくれるのは嬉しいが、直接 chatgpt のアプリに繋いでくれた方が嬉しいと思う=アレクサを介すことは少ないかも。
PureScriptで人工物記述?
CH137の「勝手に」盛り上がっていた話(ボクハ、チャント、アドバイストシテハ、ゲンジツテキナコトヲ、イッタヨ!)をここにメモしておく。人工物のデータ記述をモナドや関手を使って記述するというアイデアを、人文系に持ち込むには、どうすればいいかという話。第一級関数をサポートしている言語なら書けないことはないとはいえ、やはりこういう概念を扱うには Haskell か OCaml が良いとは思うんだ。でも、プログラミングバリバリの人に勧めるならともかくも、プログラミング未経験の人文系の学生に対していきなり「Haskell やるぜ!」は色んな意味で酷だなと思って、調べてたら PureScript というのがあるようで、
で以下のコードを試せる。
module Main where
import Prelude
import Effect (Effect)
import Data.Int (toNumber)
import TryPureScript (render, p, text)
-- 単純な abs 定義(Prelude に無い場合用)
abs :: Number -> Number
abs n = if n < 0.0 then -n else n
-- 材料情報
type Ingredients =
{ starch :: Int
, water :: Int
, sugar :: Int
}
-- 品質スコア(物理的形状の維持と味の良さ)
type Score =
{ shapeQuality :: Number
, tasteQuality :: Number
}
-- 混ぜた状態。材料情報とその時点のスコアを保持する。
type Mixed =
{ ingredients :: Ingredients
, score :: Score
}
-- 理想的な含有水分率(例:0.5 が理想)
idealWaterRatio :: Number
idealWaterRatio = 0.5
-- 含有水分率を計算する関数
waterRatio :: Ingredients -> Number
waterRatio ing =
let total = toNumber ing.starch + toNumber ing.water
in if total == 0.0 then 0.0 else toNumber ing.water / total
-- waterRatio と理想値との差から shapeQuality を決定する関数
calcShapeQuality :: Number -> Number
calcShapeQuality ratio =
let deviation = abs (ratio - idealWaterRatio)
penalty = deviation * 200.0 -- penalty は調整パラメータ
baseScore = 100.0
score = baseScore - penalty
in if score < 0.0 then 0.0 else score
-- mix: 材料を混ぜる工程
-- この工程で含有水分率を計算し、それに基づいて shapeQuality を設定します。
-- また、砂糖の量に応じて味のスコアも設定します。
mix :: Ingredients -> Effect Mixed
mix ing = do
let ratio = waterRatio ing
shapeQ = calcShapeQuality ratio
tasteQ = if ing.sugar >= 50 then 100.0 else toNumber ing.sugar * 2.0
score = { shapeQuality: shapeQ, tasteQuality: tasteQ }
pure { ingredients: ing, score: score }
-- 成形した状態。混ぜたものに形状情報を付加し、スコアを更新する。
type Shaped =
{ mixture :: Mixed
, shape :: String
, score :: Score
}
shape :: Mixed -> Effect Shaped
shape mixVal = do
let oldScore = mixVal.score
newShapeQuality = oldScore.shapeQuality * 0.95 -- 成形工程で 5% 劣化
newScore = { shapeQuality: newShapeQuality, tasteQuality: oldScore.tasteQuality }
pure { mixture: mixVal, shape: "丸い", score: newScore }
-- 仕上げたわらびもち。成形状態にきなこをまぶして仕上げた結果のスコアも保持する。
type Warabimochi =
{ shaped :: Shaped
, dusted :: Boolean
, score :: Score
}
dust :: Shaped -> Effect Warabimochi
dust shapedVal = do
let oldScore = shapedVal.score
newTasteQuality = oldScore.tasteQuality + 10.0 -- 味が改善
newScore = { shapeQuality: oldScore.shapeQuality, tasteQuality: newTasteQuality }
pure { shaped: shapedVal, dusted: true, score: newScore }
-- 各工程を連結して最終的なわらびもちを作る
makeWarabimochi :: Ingredients -> Effect Warabimochi
makeWarabimochi ing = do
m <- mix ing
s <- shape m
dust s
-- レシピの例
myRecipe :: Ingredients
myRecipe = { starch: 100, water: 80, sugar: 60 }
-- メイン関数:最終結果を文字列としてレンダリング
main :: Effect Unit
main = do
w <- makeWarabimochi myRecipe
let output = "Final Shape Quality: " <> show w.score.shapeQuality <> "\n" <>
"Final Taste Quality: " <> show w.score.tasteQuality
render $ p (text output)
感想として
- ここまで Hakell に寄せてるならば、JS派生言語でやってる意味があまりないかもしれない… 少なくともプログラム初心者には辛い
- 人文的なものを対象にできるかもしれないが、もうこの記述は全然人文的ではない気もするし、レシピのような description を裏でこのコードに「翻訳」できて、VR空間でわらびもちを作って食べるという体験をするのに寄与できたり、地域差をモデル化できるのならば、悪くはない気がする。結局、すでにある程度研ぎ澄まされた人文的な目的を持ってこない限り、何をやっているかわからなくはなる
2時間だけのマイブーム
JPOPマイベストリリック(1990年代)|みすゞ を読んで、なかなか推薦文がよかったので、山崎まさよし『One more time,One more chance』(1997)を聞いてみた。聞いたことはあったんだけど、なんかなよなよしたイメージでいままで響いたことがなかったんだよね。いい曲だなぁと3回くらい聞いて、初めは別れた直後の曲なのかと思ったけど、なんかけっこう長い間引きずってる感じがするな…なんか気持ち悪くなってきたぞ…?となってWikipediaで『秒速5センチメートル』の主題歌になってたと読んで、あ、新海誠の気持ち悪さそのものか…となって閉じました。
新海誠さんの作品はよく気持ち悪いと言われます、私は見てても気持ち悪いとは思わず... - Yahoo!知恵袋 まあ、基本的に石田衣良さんの見立てに近くて、でも、まあそれを生身の人間がいる人に言うのは yet another 気持ち悪さがあるなぁ(別に気持ち悪いということが悪いのではなく、そういうプライベートなことをゲスパーしたような言い方で気持ち悪いと言うことがよろしくないよね)と思う。知恵袋の回答者は「バカという方がバカ」みたいな小学生的なロジックなのでどうしようもないのだけれど、ずっと未成年の両思いの恋を引きずっていることを美化すること自体が気持ち悪い。よく、名前をつけて保存 vs 上書き保存って言われるように、基本的に相手は少なくとも感情的には忘れていると思うんだけど、思い出だけではなく引きずってること自体も美化することはもうストーカースレスレの気持ち悪さがある。
まあ、じゃあ、それを気持ち悪いという側は多くの恋愛でスレだだけじゃないのと言われれば、そこは平行線の対立かもしれない。
一途な思いの強さと喪失を表現するのに、気持ち悪くならないようにするには、まず、わがままを許していたという恩着せをやめて、次あったら全てを捧げられるというメンヘラをやめて、せめて相手の過去の厳しい言葉を一つでも引いてみせて、再会したところで「続き」にはならないことを認識してみせればいいんじゃないかな。
スレた側の気持ち悪さは、ずっと好きな人がいるだろう「名曲」に対して2時間だけ好きでしたと言ってのけるようなチャラさと精神的童貞の見下しとそれをブログに書いちゃう性格の悪さ、そして、それを確信犯でやってしまう感じなんだろう。