Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

強欲について

今年の書初めは「強欲」にした。友人に報告したら「なぜそれを選んだのか...笑」と聞かれて「いつも、控えめ、お淑やかだからさ、ギャップ出していこうかと😉笑」と冗談めかして答えたが、真の意図をここに書いておく。

欲のバランスに欠けるがいいんじゃないか、シェアハウスの友人と3人で書初め

貪欲と強欲のどちらかで悩んで、漢字のかっこよさと、「貪欲」と「強欲」の違いとは?意味から使い分けまでわかりやすく解説 – スッキリ とか 「欲張り」「貪欲」「強欲」 - 違いがわかる事典 とかに示されている「悪い意味であること」の背景を積極的に評価しようという2点で選んだ。

強欲が悪いこととされているのは Greed - Wikipedia にもあるように、"it creates behavior-conflict between personal and social goals" ということなのだが、僕の欲というのは、世界のどこかでひもじい思いをしている人に食が与えられてほしいだとか、誰かの家の蔵にある文化財の価値が失われないでほしいだとか、離島の絶滅危惧種が消えないでほしいだとか、SGDsを声高に叫ぶお偉いさんたちのことは脇においても(国連のSGDsの会議にも出ていたことあるから別に脇に置く必要はないのだが、あまりそれをめぐる政治的状況は好きではないので)、めっちゃ social goals が内発的に含まれていて、一方それは根本自分のエゴだと思っている。つまり、共感してくれる人も、潜在的に共感できる人もいるが、多くの人は共感せず、強欲が前提としている conflict の中に居て、よくて偶然その人の身の回りの規範を鵜呑みにして従ってくれているといったところだ。

そういう意味では、論語:為政の「七十にして己の欲する所に従えども矩を踰えず」に由来する「従心」というのも一つの候補なのかもしれないが、そのエゴの危険性をどう評価しうるのかに意識を払わず自身の「従心」を自覚するのは、まさに七十くらいにしてなりがちな老害仕草だと思ったのでやめた。確かに内発的な social goal は古典的な behavior-conflict くらいは回避するかもしれないが、矛盾すら含むであろう多様な個々による social goal の和集合とは必ずズレをきたすし、もちろん積集合でもない。それを宗教的などっかの善から演繹するのでなければ(そうしたところでその宗教の内部にしか通じないのだが)、一から自分の責任で説明し、ズレの引き起こす結果については自分で引き受けなければならない。強欲な行動の結果、世間からどう見られて、その結果を欲するかどうか、それも欲のスコープとして考えなければならないし、そこででてくる「世間」というのは自分にとってままならない他者の集合体であるというのは重々承知してなければならない。Self-righteousness(独善)や Elitism (エリート主義)に陥らぬよう、それはエゴと世間の認識で支えていかなければいけない。世間はどうあるべきだ、というのは二重で否定しなければならないと思っている。一つは、そんな理想を掲げたところで(理想を分かりやすく提示するのはそれはそれで価値のあることだけれども)それが現実になるのに時間がかかったり現実にならないのでは行動に織り込むことはできないし、もう一つは太宰の言う「世間というのは、君じゃないか」問題であり、つまり根本個々人のエゴの社会的投影でしかないということだ。

そして、理想をどう織り込むべきかについても強欲は教えてくれる。『呪術廻戦』で五条悟が伏黒恵にお説教を垂れるシーン:

「君は自他を過小評価した材料でしか組み立てができない。少し未来の強くなった自分を想像できない。君の奥の手のせいかな?最悪自分が死ねば全て解決できると思ってる。それじゃ僕どころか、七海にもなれないよ。死んで勝つと、死んでも勝つは、全然違うよ。恵。本気でやれ。もっと欲張れ。」

ここで「自分を」ではなく「自他を」となっている。世間というのは平板ではなく、(友人関係のネットワークではなく、その欲における整合度での地平で)エゴセントリックに、信頼のおける友人とか理想を同じくする同志とかが、「その先」を手にしてくれることは信頼してみればいい、そしてもちろん、自分については自分の責任の範囲で自由に賭けられる。周りの人間に賭けてもらっていると感じるならば、「自分は評価されず放逐されてもよいので、価値のあることをしよう…」などと思わず「価値も、評価も、すべて強欲に取りに行け」ということになる。そこで時間が足らず健康が犠牲になると思うなら、バランスさせようと思わず、「健康も取りに行け」ということになる。バランスさせようというのは非常に困難なのだ。時間も金銭的だったり精神的だったりする様々な資源も有限なので、結果的にはバランスをとっていることになるだろう、でも、はじめからバランスを取りに行くのならば、予測と把握に意識はもっていかれる。個人的に、全部本気でやるというのはどうやら得意なようで、エーリッヒ・フロムが "a bottomless pit which exhausts the person in an endless effort to satisfy the need without ever reaching satisfaction" と強欲を評するときの疲れ(exhausts)はあまり生じない(ということを冒頭の友人に指摘された)し、どちらかというと「あの世でもらう批評が本当なのさ」(椎名林檎『目抜き通り』)と思いがち(それは先の評価の話で否定している)で自身の満足についてもその評価を無限延期し続けていて嫌にならないので、バランスをとろうというよりは強欲であることに向いているのだと思う。

強欲を積極的に評価すること自体は真新しいことではないし、特に経済的なものが多い。アダム・スミスが個人のそういう行動を肯定しただろうことは想像に難くない(し enwp にも軽く触れられている)し、アイヴァン・ボウスキーが”“I think greed is healthy. You can be greedy and still feel good about yourself.(強欲は健全だと思っています。皆さんも強欲になるべきだし快く感じられるはず)なんて言ってそれが映画で"Greed, for lack of a better word, is good. Greed is right, greed works. Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit. Greed, in all of its forms; greed for life, for money, for love, knowledge has marked the upward surge of mankind."って変奏して使われたりもしている。特に変奏の方は文字通りの意味だとさして遠くないように見えるが、映画の文脈を踏まえるとそれすらも経済的な欲の肯定でしかなく現代では害悪でしかないという見解もあるので、基本、この別段の肯定文を掲げない限りは、強欲の肯定なんてろくでもないと世間から見られがちであろう。そして、この別段の肯定文は長すぎるので、わからなければ「いつも、控えめ、お淑やかだからさ、ギャップ出していこうかと😉笑」ということだと思っていてくれればいい。

悪魔の証明から確証バイアスまで

ひろゆき的なものを蹴り飛ばす方法が流行りそうだし、詭弁 - Wikipedia は当然頭に入れておくとして、他によくネット上で見る詭弁っぽい話を撃退するのに使える概念を並べておこうと思った。

  • 悪魔の証明 - Wikipedia 土地の所有権を証明することが根本的には前の持主から前の持主へと、最初の占有者まで遡ることを必要とすることなど、(特に法的な)証明の手続きについてその困難さを指摘する用語。最近のネットでは消極的事実の証明の困難さと同義で使われることが多い。
  • 消極的事実の証明 - Wikipedia「証明は肯定する者にあり、否定する者になし」「証拠が無いことは、無いことの証明にならない」といった格言と共に消極的事実の証明の困難さとその取扱いについてよく指摘される。ただし、在れば知りうるはずだという蓋然性があるのに無い、在るという証明ではなくとも十分に疑わしさを得る手掛かりがある、といった場合に消極的事実の証明は現実的で為すべきことになることも多く、ネット上の議論で「悪魔の証明」の不可能性をこの意味で金科玉条のように使ってくる相手には、「消極的事実の証明のことですよね?存在を十分に示唆する事柄がある際にそれについての合理的な説明を求めることは、論理的に不可能な消極的事実の証明と呼ぶに相当しない、つまり悪魔の証明ではありませんが?」と言っておけば良いですよ。これにまともに応答できる人間は、カラスの中での白い個体くらいの確率でしか存在しませんので。
  • ヘンペルのカラス - Wikipedia は 全てのカラスは黒い ことを示すのに、全ての黒くないものはカラスでないことを調べればよい(対偶)ので、カラスを調べずにその事実が言える。もともと帰納法の問題を指摘するためにヘンペルが考案した問題である。黒くないカラスが居ないのを示すのが困難であることと一致するため、「消極的事実の証明」の困難さの一例にもなっている。次のウェイソン選択課題と絡めて、この手の問題に関して「全調査の可能性」が証明可能性に関わっていることを意識するのに役立つ命題であり、帰納を論理的に意味があると認められればサンプルでも意味があることになるということを意識するのにも役立つ命題である。
  • ウェイソン選択課題 - Wikipedia 「4枚のカードがテーブルに置かれている。それぞれのカードは片面には数字が書かれ、もう片面には色が塗られているものであり、3・8・赤色・茶色が見えている状態である。このとき「カードの片面に偶数が書かれているならば、その裏面は赤い」という仮説を確かめるためにひっくり返す必要があるカードはどれか?」という課題で、間違えて赤いカードをひっくり返す被験者が多いというバイアスの話である。ロジックというより人間の思考についての実験であるという点に注意。「アルコール飲料を飲んでいるならば18歳以上である」という社会的に具体的な課題に置き換えると正答率が増す。多くの人間は抽象的な思考ができないものである。有限、しかも4枚しかない状況では、ヘンペルのカラスと同じロジックが「間違いやすいが当然のコト」になるという点を説明するのに、この課題設定は便利である。
  • 確証バイアス - Wikipedia 仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない心理傾向のこと。ウェイソン選択課題で赤を選んじゃうような傾向ってことね。XがAであることを言うのに、not A なものに正しい手続きで着目した議論を「関係ない」と言われてしまったときなど「確証バイアスの囚人だね」と揶揄してやりましょう。

電子メールアーカイブ(工事中)

Gmail の takeout 機能で自分の email を mbox 形式でダウンロードできる。適宜検索して昔のメールを見れる状況にはしておきたいし、定期的に takeout した場合に、統合した mbox を作ったりできるようにしておきたいが、どういう環境を整えればいいか…の過程メモ。ちゃんとまとまったら(工事中)外すけど、meliのインストールと意味なかったあたりの情報はさっさと共有しておこうと思って。

普通には Thunderbird を使えばいいと思うけれど、Thunderbird への移行 | Thunderbird ヘルプ のところに、

Windows Mail (.eml ファイル) から Thunderbird へのインポートは、サードパーティ製のアドオンである ImportExport Tools を使用し、メッセージ形式を変換してインポートします。ImportExportTools アドオン をダウンロードし、Thunderbird にインストールしてください。

として貼られている、ImportExport Tools は Thunderbird の最新版(本記事執筆時点で Version 102.1.2)には対応しておらず( Version 60.* まで!)ImportExportTools NG というアドオンで対応している。でも少し前はこちらも最新版に全然追いついていなかった、みたいな状況がある。ImportExport をメインの機能に位置づけていない時点で、アーカイブツールとしては使い物にならない。

アーカイブという言葉を出すならば BitCurator が最適なんだろう。名前の通り Bit レベルのデジタル保存から NLP を用いた分析まで用意されているツールだ。しかし、今の目的の下ではオンラインに公開することを想定していないし、そんなに分析したいわけでもないし、手軽さの面で今回の目的には適していない。

mbox が扱えるメールツールがあればいいので、linux 上のメールツールならけっこうできるんじゃないかと思い、meliを試そうとしたが、結論、Windows WSL の Ubuntu では、うまく動かなかった。meli を実行しても何も表示されない。以下寄り道的なメモ:


meli は Rust で作られていて、rust のパッケージ管理?cargo というのを Ubuntu に apt でインストールして…とやっていっても、一部のライブラリについて Rust のバージョンが低すぎるというエラーでインストールできなかった。そこで apt の方で Rust を remove し、Install Rust - Rust Programming Language に従って rustup を使えるようにした。この過程でも、勧められている curl --proto '=https' --tlsv1.2 -sSf https://sh.rustup.rs | sh could not download file from … と言われて、うまくいかなかったので、Rustupをインストールするときに発生したエラーの回避方法 | ひがし研究所 を参考にインストーラを直接探してダウンロードしてきて、chmod +x rustup-init sudo ./rustup-init するという方法でようやく成功した。そうすると、rust も最新版が使えるようになって問題解決、cargo install meli … と思いきや、meli の方はまだまだエラーに悩まされる。failed to run custom build command for openssl-sys v0.9.75 とか言われる件については、rust で failed to run custom build command for `openssl-sys` が出るときにすること - Qiita を参考に、export OPENSSL_LIB_DIR=/usr/lib/x86_64-linux-gnu/ export OPENSSL_INCLUDE_DIR=/usr/include/openssl/ が必要だった、error: linking with cc failed: exit code: 1 /usr/bin/ld: cannot find -lsqlite3 って言われる件については、sudo apt-get install libsqlite3-dev が必要だった。そこまでやって、やっとインストールして、何も動かない。インストールが失敗しているのかもしれないし、何もわからない。初の Rust 製品体験は散々だった。


そして、eneam/mboxviewer: A small but powerfull app for viewing MBOX files というのにたどり着いたが、日本語のメールで使われる ISO-2022-JP がうまく扱えておらず、issue 上げたらめっちゃ活発に対応してくれていて、現在進行形で対応中。ISO-2022-JPのISO/IEC 2022適合性 とか読んでても思うけれど、マジで日本のガラパゴスな仕様で、こんなのがまだ使われているの、メール関連の色んなツールにとってすごく負担だ。一説にはガラケーがまだ生きてるから生きてる、みたいな説明もあるけれど、文字コードのレベルでは本当に UTF-8 に統一されてほしいわ。あとで、年ごとの文字コード利用統計とかとってみるし、分析とか含めて個人メールデータでできることや、その本格的なアーカイブとの比較と要件、「「個人メールアーカイブと公的なメールアーカイブとの関係」と「個人史と全体史との関係」との関係」、某個人追悼の際に考えたこと、をまとめて研究会論文くらいにはするかもだけど、アーカイブとして文字コードを気にする&強い真正性を気にするのは技術史観点か公的な権力性がある場合であって、個人メールアーカイブはとりあえず、文字コード UTF-8 に統一した mbox や eml ってのが扱いやすそうだよなー。Eml形式 - Wikipedia の中身全無視全消去でリダイレクトされちゃった(ノートのところに米国議会図書館のデジタル保存に関するページを張って、その方向での加筆の必要性をコメントしつつ統合提案して2年も放置してたわたしゃが悪いんですが)のも対応しなきゃだし、やりたいことが多すぎる。

ブリジット論争に関する個人的なメモ

別に論争に参戦するつもりはない。なぜ個人的なメモが必要かというと、「可愛いもの好き、についてえらいミソジニーな界隈から発信されてるの、気持ち悪い、一緒にされたくない」というのがあったので。いざという時(?)にちゃんと説明できるようにしておくために。

背景は 【LGBT】ブリジットが最新作で男の娘→トランスジェンダー設定になり議論を呼ぶ【ギルティギア】 - Togetter で、「男の娘」の40年史 またはブリジットをトランス女性にすることがなぜ反動的なのかの歴史的説明|狂人note|note とかにその歴史背景が「男の娘をトランスと一緒にするな」側から描かれてる。

私の理解は、マツコの「コスプレと似てる」発言で考えた"女装"をめぐる根深い問題 女装はLGBTに含まれますか? (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) にあるように、男の娘は出生時の性別(というのは社会的要素を含みすぎるので生物学的性別と以降はしておく。もちろん「生物学的性別」を定めるのが難しいから「出生時の性別」としているのだけれど、後述のように「何を重視しているか」という問題においては「生物学的性別」と等価なので)も性自認も男で、性表現が女であるものが「男の娘」だという理解。

森山至貴氏による分類分析

で、性自認が女であるトランスとは別だし、ブリジットが性自認を「変えた」のだから、単純にトランスではないでしょ、そこ一緒にすんなってのが界隈の認識。一方、欧米LGBTQI+側(雑なまとめ方だけど、今回の文脈で「男の娘」発信界隈に対置されるものとして)からは「性自認は変えられるでしょ」という圧力が社会に存在し、それに対して対抗するために

いいえ。人の性的指向性自認は変えられるものではありません。性的指向を変えようとする試みは、しばしば人権侵害を伴い、深刻なトラウマを引き起こす可能性もあります。

from LGBTQI+コミュニティについてよくある質問 | OIST Groups

のような考えが強いこと、また、日本のアニメ設定などは生物学的性別が強調されやすいこと(僕は狂人noteは購入しておらず、おそらくそこも多様化していることが2010年代について描かれているが、傾向としてはそう)が、LGBTQI+側への無理解として捉えられている。不変な性自認が重要視されていると言える。性自認(ちなみに英語ではgender identity)の近接概念として「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」というのがあり、これが上の表にある衣装などによる「性表現」ともズレることがある。この3つが区別されていないことが今回の問題を引き起こしている。

「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」は「選択」なのだから、変えることもできる。「あなたの性自認は男なの?」と聞かれてどう答えることにしているのか、は「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」だ。そういう意味で、性自認は本来不可観測なもので、それを観測可能で変えられるものではないと固定しているという点で、性自認のありかたというのが「性自認は変えられるでしょ」という圧力への対抗の副作用として不自由に歪んでしまっている。様々ありすぎて区別が難しいと言われているような多様なジェンダーについて、どれを口にし、どれを否定し、どれを許容するかといったことも、「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」だ。当然、それは概念がどのくらい普及するか、それを自分が知っているかなどなどによって変わるわけであり、いわゆる不変な性自認とは別のレイヤーにあることは自明だ。で、今回の件は、「今作で女の子として生きる決断しおった。」という「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」の変更がある。

外に「男」だって言ってるのに、衣装などの性表現で「女」を纏っている、ということが欧米のLGBTQI+界隈で理解されにくいというのはそれはそう。だから、

というのがバズってて、

こういう欧米のLGBTQI+界隈に対して攻撃的な物言いまでもが増えてきて、冒頭の違和感に至る>「可愛いもの好き、についてえらいミソジニーな界隈から発信されてるの、気持ち悪い、一緒にされたくない」

狂人noteの人も色々ミソジニー拗らせてるし(というのは、どれと特定はできないが、なんどか目にしたTweetで私はそう感じている。当該note記事が英語圏に発信された際にも「こんなやつの言うこと…」って感じの反応が出ていたりする)が、まあ、こういう対抗意識を含んだ土壌がちゃんと独自の性表現の文化を生んだという意味では「こいつらミソジニーだよね」で片付けてしまうのはそれはそれでよくないとは思っている。一方で、性的消費の都合から生物学的性別(やそれと見た目のギャップ)が強調されやすいとか、まさに欧米のLGBTQI+界隈が直球で批判しているような側面があることも否めない。

僕はちょいちょい話していますが、3歳くらいから塗り絵とかいろんなものの選択が女の子用のもので、母に揶揄されたため、染色職人だった叔父に色と性別に関するインタビューをすることを経て色々考えて「性別に関する観念は社会的に作られている、それに自分が従う必要はない、自分の表現をデザインすることが大事だ」という考えに至り、4歳の時に「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」としては男を選択し、衣装とかの性表現としては「男も女も選択しない」(粗雑さよりも繊細さを称揚するとか、個別に他の軸があることを重視する)ことを選択しています。「男ならこう感じる」的な言説の大半に当てはまらないので、おそらく、不変的な性自認のレイヤーをprobeすると、不定性とかの判定になるとは思いますが(その時点で不変ではないよねw)、「男ならこう感じる」的な言説が批判されるようになるだろうという30年前の読みがちゃんと当たっているので、「男だがそうは感じない」と言えばいいだけなので、特にこの選択を変えずに生きてこられている。そこに関しては、欧米のLGBTQI+界隈の恩恵をかなり受けてるんですよ。そもそもオタクの地位向上だって海外の目線の影響が少なくない。そこに無自覚でありたくはない。

党派性でドンパチやりたい人は、盛り上がってる間は何言っても聞く耳持たないので、「別に論争に参戦するつもりはない」です。もう8年くらい前に某表紙問題について欧米のLGBTQI+界隈側の党派性に物申さねばとなった時には、日本のコンテンツ文化史「も」ちゃんと認識しろって立場を取った。その時は当事者性があったし丁寧に議論に付き合ってくれる賢い人がいた。今は、単にミソジニーに染まった人間が日本のコンテンツ文化史「を」理解しろって立場をとることが多くなってきて、一緒にされたくないから、どちらにも与したくない。そもそも、あくまでファンタジーに留めおいて消費する日本のコンテンツ界隈と、すぐにリアルに持ち込もうとする欧米のLGBTQI+界隈のズレというのもあるのだ。僕は今回の件については、自分のリアルな問題として入ってこの記事を書いてるから、コンテンツ文化史の細分としてはあまり興味のない系統であり(今回までブリジットは知らなかった)、男の娘になれる若さも美貌も持ち合わせていないから、生物性も性自認も年齢も「オジサン」でしかないけれど可愛いもの好きでたまにそれを身にまとったりしてしまう(職場のスリッパにはクロミちゃんのバッジがついているし、SNSのアイコンはずっとピーターラビットだし、夏でもちょっとオーバーサイズめのポップな感じのフードとか着ちゃうし)人間としてどういう良い表現ができるか(「ありのままでよい」と押し付けるのも一つの暴力だよ、僕が僕が理想とする形を探したい(先回り))という目下の問題の方が重要であり、コンテンツ文化史としての側面があることは思想的に重要だとはおもっているものの、その内実に踏み込む動機が無い。

というわけでだいたい整理できた。

銀河鉄道999(1979年)2時間8分 Netflix で見た。友人が「見る価値があると思ったがそれは自分が4歳の頃に見たからだった」と述懐していたのを聞いて。僕も4歳の頃に見た超獣戦隊ライブマンについて似たような評価を与えるし、そういうのってあるよね。

さて、感想というほどの感想もない。

テクスチャ的には、ストーリーが非常に神話的だというのが一番の感想だ。主人公星野鉄郎に様々な人が期待し、そしてそれは遂行されていくが、それぞれの必然性は薄い。例えば、クレアというクリスタルガラス製の機械化人はちょっと鉄郎に美しいと言われただけで鉄郎に惚れて、後半で鉄郎を殺害しようとしたプロメシュームを、自らの命と引き換えに破壊して砕け散り、その涙型になった欠片を鉄郎は手に取って「こんな悲しそうな涙、みたことがない」「クレア…」とか言って見せるのだけど、まーったく白々しい。まあこれは僕は松本零士作品として、"守と娘のサーシャをヤマトへ避難させるが""自身はイスカンダルへ残り、降下してきた自動惑星ゴルバを道連れにイスカンダルと共に自爆する"(from jawp) スターシャとかも想起させるのでより一層そういう印象を受けるのだ。女性の母性やそこに含まれる献身、男子の冒険心や還ってこないことについてのナイーブな肯定がまあ見ていてムリ。時代背景があるので当時のアニメ作品として評価する際には別にそれらは関係のないことだけど、これらのシンプルな価値観の下に、必然性の薄いパーツがつなぎ合わされているさまは、神話的に感じる。安能務版の封神演義とかも宝貝がでてきて、効力を発揮して対象が死ぬ、状況が動く、というコトの連鎖でバンバン描かれていくのをみていて神話っぽさを感じた。書かれる事柄の深さ、それぞれの連関の強さ、あたりが浅くて弱くてキャラ付けに重みが置かれているあたりが神話的だと思っている。動物化するポストモダン?かその付近のオタク論でストーリーからカタログへというので第一世代と第二世代のオタクを分けていたが、神話→ストーリー→カタログとなると「それぞれの連関の強さ」の進展について、ある種の螺旋的構造があるのかもしれない。

銀河鉄道999の物語構造の骨子は、機械の身体を手に入れようとして、惑星メーテルに赴くも、その途中で色々体験し、(90分ごろ、機械化伯爵を倒した後、これで終わりだなとハーロックに言われ)「キャプテンハーロック、それは違います、機械伯爵や機械化人を見ていると、永遠に生きることだけが幸せじゃない、限りある命だから人は精いっぱい頑張るし、思いやりややさしさがそこに生まれるんだとそう気が付いたんです。『機械の身体なんて、宇宙から全部なくなってしまえ』と。」思想転換し、滅ぼしに行きます。メーテルはそのようなタイプの人間ばかりメーテル星に連れてきていて鉄郎で革命は完成するという背景もあるのですが。

思いやりややさしさなんてものを、現代の人間が、そんなに持っているのかね。少々は持っているとして、それは限りある命だからかね。人工知能の方が思いやりややさしさをエミュレートし、欲に囚われずに実践することに長けているような時代がやってきそうな気がしないか。と、たたみかけたくなるようなペラペラなセリフだけど、まあここから40年少々で現代このままアニメとして流すとそのペラペラさが万人に気になる程度には社会は進展したんだろうという実感もある。

空を電車が飛ぶというビジュアル自体には魅力はある。あと、友人はなんかたぶんアニメと記憶がごっちゃになってたようでもあったのだが、色んな星に立ち寄り(非常に戯画化した)色んな社会と色んな価値観を描くというフレームワークを評価していた。アニメ版はそこらへんがもっとパターンが多いらしい。それは確かに可能性を感じる。人はどこまで同一性を保てるかという意味で、意味のある作品を作るとすれば、スワンプマン系の方が直接的かもしれない。サクラダリセット(やサマータイムレンダ?こっちはon goingなのでちゃんとテーマが深くなるか未知数だがスワンプマン問題は明示的に意識している)が扱ったように。身体性なんてずっと言われてきたし、確かに身体知は存在するけれど、それが人間の倫理を支えてくれるなんてのは幻想だと思う。サピアウォーフの仮説を、言語が思考を「支えてくれる」とまで解釈するのが誤りであるのと同様、身体性は倫理を支えてはくれない。

でも、骨子が身体の機械化なのだからそこを変えずに、僕がリメイクというか関連作品を作るならどうするかね。メーテルに鉄郎はねじにされるところまで行って、そこで革命が完成し、ねじから鉄郎を復活させる、一旦身体を失った鉄郎に、どんな身体性が必要なのか、意味があるのかを手探りで探していき、安楽死を含めた「人として生きること」のデザインを二人で探していく、というストーリーとかにすると思う。メーテルは人間の身体でありながら特殊な生い立ちによって一部不老不死性を手にしている、鉄郎に母性的な献身を続けるため、また罪滅ぼしの為、自身の身を次々に犠牲にしていく。ロボットが何を得れば人間になるのかという鉄腕アトム的な構図と、人間が何を失えばロボットになってしまうのかという攻殻機動隊的な構図を行き来する。メーテル星を破壊したことで、反文明主義の輩も寄ってくるが、メーテルを助けるためにも、自身が人としての生を取り戻すためにも、科学技術は必要でもあり、彼らとは相いれない。初めの画面は、まさに機械伯爵への復讐を果たした後、鉄郎がメーテル星破壊の意思を口にするところから。そこから帰りに同じ星に立ち寄ったりするときに回想で行きのシーンとかを明らかにしていく。クレアの自爆は、メーテルの仕組んだ革命の一部であり、鉄郎に惚れるところからしてクレアの自由意志ではない。しかし、それが明かされてなお、クレアオリジナルのコピーにクレアの記憶を埋め込まれた存在は鉄郎への愛は私の意思だと言う。愛に、浅い深い、遺伝子の囁きorNotなどという区別は無粋だ、気持ちと行動、それしかないと。終始自身の革命の為に行動していたメーテルに成り行きで惚れ、そこに母性的な愛を見出していた鉄郎に対して、梨泰院クラスのオ・スア vs チョ・イソ的な構図で自身に引き込んでいく。彼女も一旦身体を失っている。メーテルの友人であるエメラルダスは「メーテルのためにも離れることで彼女を(献身と自責から)解放してあげるように」鉄郎に詰め寄る、鉄郎はどちらも選ばないことを決め、その決意を認めたエメラルダスの手で窮地から救われるとともに、ハーロックのもとに預けられる。云々。プロセスの重要性が必然的に大きなテーマになる(その象徴としてのレトロな鉄道 vs 新幹線やリニアのような目的地に着くことが目的である鉄道)。

ここまで書いて気づいたけど、1979はまだ(攻殻機動隊のような)大人のため、もしくは、大人も楽しめるアニメ、なんてものは確立していないので、あくまで主人公は子供であり子供目線でありストーリーは子供に理解できる程度のペラペラさである必要はあるんだよね。

Linux で CD をリッピング

最近のPCにはCDドライブなんてついてない。しかし、昔のソフトをインストールして使う必要ができた。手元にあるドライブ付きの機械と言えば Linux (Dist. Peppermint) しかない。なるほど、Linux で iso つくってUSBメモリで移行して使えばいいのか。

isoinfo -d -i /dev/cdrom

ここで出てくる

Logical block size is: 2048

Volume size is: 327867

みたいな数字を利用して

dd if=/dev/cdrom of=[blabla.iso みたいな保存ファイル名] bs=[上のblock sizeの数字] count=[上のvolume sizeの数字]

で成功した。あっけな。

参考:

Breaking Bad をみたけどみなかった話

ネタバレあるので、ネタバレ嫌なら読んじゃダメ。

ネトフリで Breaking Bad を少しだけ見た。1.5倍速で Season 1 をすべてと Season 2 の 3話、あとは最終シーズンの最後3話だけ。

友人数人に特に理由なくおススメされて見た。「さまざまな批評家の称賛を受けており、多くの賞を受賞している」らしい。以下、こういう背景伝聞はすべてjawpの記事 に基づく。

主人公のウォルターの演技が素晴らしいのは同意する。ただ、初めの殺人に関しては「さっさと殺せよ、かったるいなー」としか思わなかった。倒叙法などの演出がよかったのも認める。ただ、私は家計を助けるためとかガンの治療費を稼ぐために麻薬を作ったりしないので、ぜんぜんその倒叙に納得できなかった(ちなみに僕は薬物の作製について抵抗を感じてこんなに dis っているのではない、法秩序が所与の中でリスクとの天秤が見合ってないと思うだけ)。つまり、表現技法は素晴らしいが、その中身が共感できない。あんな犯罪ドラマ共感するもんじゃないだろうと言われるかもしれんが、「「チップス先生をスカーフェイスに変える」という当初からの宣告通り、制作陣はシリーズを通してウォルターを徐々に共感できないダークな人物にしていった」らしい。ラストシーズンになるにしたがって、犯罪に気軽に手を染めているところをもってそう描いているつもりなんだろうか。全てにおいて、制作者の価値観(なんてものが表現されているかすら怪しいが)がクソくらえなのだ。そりゃ犯罪も繰り返せば慣れる。それは人格がダメになっているのではなく、慣れるってだけのことだ。延命治療についても、友人から借りたり悪事に手を染めてまで無理して受けること自体意味不明だし(それは脳性麻痺でも懸命に生きている息子と同じロジックで肯定できるが、そのロジック自体が嫌いだ)、「犯罪を犯したりそれによって家族に危険を負わせたりするのは(ギリガンにとって)男ではない、ウォルターはエリオットによる支援を拒んだことで男になるチャンスを逃した」とか言っているので、エリオット夫婦を逆恨みすることも、そんな形で頼ることもどちらも是に思えない僕からは理解不能である。科学能力の俺TUEEEE爽快感なら、Dr.STONEの方が事実に基づいていてもっと素晴らしい。Breaking Bad では雷汞で大爆発を起こしているが、雷汞なんて起爆に使うのが一般的だ。テルミット反応はまあ、あのくらいのことが実際にできると思うけど。

あと、大きなテーマとして、ウォルターが人に心を晒せないところがその弱さとして否定的に描かれる=晒せることを肯定しようとするが、この手の話は寝取られモノのエロコンテンツでクリシェになっている。何かの弱みを握られて「隠しておきたいんだろ」って迫られるとか、何かを隠しているのが分かって信頼が崩れてとかで、夫婦の中で秘密を抱え込んで破綻、お互いの信頼があった初めから言っておけばそうはならなかったのにね…っていうね。まあ、つまり、真新しいテーマではないし、特に描き方に工夫は感じなかった。ちなみに、jawp 見てると、当てつけのようにウォルターの奥さんは浮気セックスするそうだ。

医療費の高さも、薬物や銃があふれていることも、夫婦の不信も、変な家族愛も、経済格差も、なにもかも、アメリカの社会問題だとは言える。韓国ドラマを見ていたら、いじめや富裕層による犯罪のもみ消しが頻繁に出てくるのと同じだ。しかし、その社会問題を物語を盛り上げるスパイスとしてだけ使うならクソだし、この作品はそうだ。

少し話がそれるが、韓国ドラマ「梨泰院クラス」はありがちなそういうスパイスと、成功への強迫観念とで、ダメダメなはずなんだけど、とてもよかった。それは主人公とヒロインのソシオパスと言われるくらいの空気の読めなさと仕事と恋愛への一途さとグリットが苦難を乗り越え成功をもたらしていく、そのディテールがよかったからだ。シンプルな話でもディテールが良いと、ジャッキーチェンのアクションをみてアクションがしたくなるように、元気が得られたりする。そういう意味で、アクションものなら、ほぼほぼ演出だけでも意味があるだろう。「梨泰院クラス」は人生譚ぽさがあるので、演出だけでなく心理描写もある程度は求められる。韓国は日本に比べてもセクシャルマイノリティに対するバッシングが酷いが、そんな中でネット上にアウティングされたヒョニが、イソから読んでいる本に出てきた詩―「炎で焼いてみよ 私はびくともしない石ころだ」から始まり「私はダイヤだ」で締められる(これは実在せずドラマのために作られている)―を送られて奮起するシーンとか、これを当事者への強さの要求なんて読んでしまうと批判されかねない話である意味 primitive なのだが、ディテールが良いからそうは思わない。これは演出だけではない。あと、悪徳な商売が横行している現実を描いて、正直やお人よしに商売しても成功できるって話は倫理のボトムアップな再構成みたいで好きだ、日本のドラマでも「正直不動産」とかがもっとビジネス寄りに詳細を描いてストレートにそれを表現している。「梨泰院クラス」は基本韓国ドラマの書法の中で、恨みを晴らすという側面が強すぎて手放しで絶賛まではしない。怒りを原動力の一つとして持つことまでは別に否定はしないし、その原動力としての使い方次第だというのは作品の中でも描かれているなど、韓国ドラマ文化の延長線上でこんな感じに作れるんだねという良さだった。(イカゲームやパラサイトやお嬢さんもこんなドロドロしたものも蒸留すればここまでアートになるって感じだった。基本的に韓国ドラマ文化の延長線上にある成功例はそういう形になりがちなのだろう)

Breaking Bad では、社会問題に対するそういう個人の向き合い方の問題が描かれにくい。登場人物の心がみんなみんな弱すぎるのだ。抗ガン治療の議論の際のマリーとかは、あの告白枕を順番に持ってウォルターを治療に説得するという流れの中でちゃんと自分の立場で場を乱してでも反論してえらいなとかは思ったけど。弱い中でどうしていくかってのを描いても良かったはずだけれど、単にみんなみんなボロボロになっていく。「チップス先生がスカーフェイスに変わる」ストーリーって決めちゃった時点で、それは既定路線だったのかもしれない。たまに大金を得て、バッと失ってしまう、その刺激はギャンブルのようにチープな刺激だ。なんというか、いいところが演技とか演出以外に見いだせない作品だった。ちゃんと全部見たらジェシーが何かを伝えていた可能性はある。でも、この説明を見るに、制作者の「スピード」が遅すぎてたいした地点まで至ってないだろうと思う。

シーズン1での死亡が予定されていたにも関わらず、ジェシーのキャラクターとアーロン・ポールの演技力は彼を死なせるのは大きな間違いだと制作陣に確信させた。ヴィンス・ギリガンは最初の7話のうちに、思いがけずもジェシーがこのショーの道徳拠点(moral center)であると気付いた。ジェシーはその素朴さと疑問を絶やさぬ性により「二人の悪人のうちの良い人」になっているとし、彼のイノセンスがウォルターの悪影響をどれだけ免れていられるかという問題に取り組んだ。Erik Kainは、ウォルターがますます共感し難い人物へと変化していくにつれ、ジェシーが逆方向に成長して、より人間的で複雑になっていると述べた。Christian Research Journalの記者は、ウォルターとジェシーが同じ悪事に携わりながら、前者が偏狭な相対論的道徳観に拠ってそれらすべてを是認していくのに対し、後者が普遍的道徳規準に反したことに因る多大な精神的苦痛に生きていることに注目し、ジェシーのキャラクターが道徳は個人的都合の問題ではないということを視聴者に思い出させると考えた(なお、ヴィンス・ギリガンはカトリック教徒であり、「cosmic justice」 の存在を信じている)。Alex Hortonは軍人としての戦場経験から、ジェシーやハンクの道徳的損傷に深い共感を示した。WIREDのLaura Hudsonは、ウォルターら作中男性の支持する「男」像がカルテル等に見られるハイパーマスキュリン文化(男らしさを誇示する文化)のそれと同じであることを指摘した上で、ジェシーの内面的特性がステレオタイプの女性像に非常に近いことについて言及した。思いやり豊かで感じやすく、子供を無条件に愛し、暴力を嫌い、人前で涙をこぼす、など――こうした特性は「男」にあってはならなぬ「弱さ」であり、彼らの文化にあっては搾取と支配の対象であることを証すものだとする。彼女はまた、ジェシーをウォルターのwhipping-boy(生贄、身代わり、スケープゴート)と呼んだ。


稲田 豊史という方が最近倍速視聴ネタでバズを飛ばしまくってる 現代ビジネス「映画を早送りで観る理由」シリーズ 友人とも倍速視聴に関しては議論することが多いので読みはしてるが、毎回「的外れな上に人の感情を逆なでしてスパムみたい」という印象を持っている。まあ、でも、青山学院大学の生徒さんにインタビューした結果に基づいているのだから、一部の層ではある程度妥当なんだろう。「大学生にとって「カロリーを使わず経済運転で延々と動画を観る行為」は、TikTokやインスタグラムの「リール(短尺動画がランダムで次々と流れてくるもの)」で慣れっこだ。」って記事の文言を見たりすると、単に昔でいって漫然とテレビを見続ける人となんもかわらない層を取り出して話しているんだろう。それは僕の身の回りの倍速視聴層の像ではない。一方で「大学生が倍速視聴するのは、“貧乏”になったから?」のところとかはロジックがそもそも破綻…というか無い。いろんな安い動画視聴サービスがある時代になった、学生が貧乏になった、そこまでが正しいとして、なぜ倍速視聴しなければならないのか?バイトしなければならないから時間が無くて、でも話題の作品はチェックしておかなければならなくて、と言っているが、それは「話題の作品はチェックしておかなければならなくて」の部分がロジックとして必須で、それが前提なら「とりあえずチェックしておくだけだから倍速視聴する」というロジックで代替できるので貧乏は大した理由ではない。FOMO - Wikipedia の解説でもしておけばいい。なのに、貧乏を理由のように語ったりするのは皆のクリック率を上げるので、まさにスパム性が高い行為だと思う。「「予想もしない展開」は“不快”なのだ。彼女は感情を揺さぶられたくない。なぜなら「疲れる」から。」みたいな話を出してきて、「なるべく感情を使いたくない」なんてタイトルをつけるのも、まさに悪い意味で reflexive な行為だと思う。人を殺せば、血をぶちまければ、人を病気にすれば、別れさせば、いじめれば、それで感情を揺さぶれると思っている。こんなタイトルで苛立ちを誘えばいいと思っている。そんな「くだらない感情の揺さぶり方」が嫌いなだけだ。「上手に」感情を揺さぶられるのは好きだ、むしろ、テキストより映像で見る時の大きなメリットはその感情の揺さぶりにあることは同意するのだから。合気道で投げられた時の気持ちよさにも似ている。こっちが主体的に見るという行為を使って、ストーリーの中で予測させられ裏切られ「なんとー!」ってなったりする。それが気持ちいいのは技をかけるほうが上手いからだ。下手な投げでも投げられろ、それが嫌だなんて視聴者の問題だ?ざけんな。

共感性羞恥とかで再生を止めてみたり、(これは僕はやらないが)演技が尊すぎて「尊い~」って余韻に浸るために止めてみたり、それは鑑賞方法の一つに過ぎない。もし、元のスピードでの視聴が過度に特権的になるならば、すべての表現は実時間で表現されなければならない。前述に登場した友人との議論の中で

十全に理解する暇を与えずに<僕たちを置き去りにしつつ僕たちを強引に引きずっていく>時間の中で生きているという感覚があるほうが「リアル」

だと僕は表現したけれど、そういうリアルを時間的に多様に体験でき、解説により理解を補助できるのもフィクションの良いところであり、メッセージというのは受け取り手を含めて伝わるものなんだから、そこに時間操作の多様さはある程度あるものだ。人間の認識レベルの多様性を無視して、時間のスピードを押し付けるならば、そこは認識が介在しないリアル、つまり実時間のみが特権的になり(まあそんなのはあり得ないと思う)、認識を含んだ表現としての価値を認めるならば、認識様式の多様性について何らかの答えを出さなければならない。そこで「倍速再生じゃないと遅く感じる」という意見について真正面から答えているものを見たことが無い。


なんで、こんな寄り道をしたかというと、そもそも

友人数人に特に理由なくおススメされて見た

という動機で、

1.5倍速で Season 1 をすべてと Season 2 の 3話、あとは最終シーズンの最後3話だけ。

見ていることと、

でも、この説明を見るに、制作者の「スピード」が遅すぎてたいした地点まで至ってないだろうと思う。

なんて理由で切りつつ、

なんというか、いいところが演技とか演出以外に見いだせない作品だった。

って言っちゃってること。それについてある程度説明しておかないと不誠実だと思ったからだ。

業として批評するなら、せめてすべては見ないといけないと思う。それでも等速再生で見る必要は私は感じないけれど。批評が作品の流通に影響を与えるし、その一部としてプロに関わっているならば、変な歪みをもたらすようなことは避けるべきだからだ。変な歪みというのは例えば、毎週やるアニメの場合、最近だと一話、昔だと三話くらいまでで心がつかめなければ切られるという文化があるがそこに2つのデメリットがある

土台を積み重ねてどんどん面白くなっていく大器晩成型の作品に対応できない

悪貨は良貨を駆逐する。作品数が増えて過当競争になると、必然的に早い段階で視聴をやめる視聴者が増えてくる。そのような環境下では大器晩成型の作品は生き残ることは出来ない。大器晩成型でない作品でも、かなり早い段階で視聴者の心をつかむ必要が出てくる。結果として、作品の前半にリソースを割きすぎて、後半に息切れしてしまったりする。

from ○話切りとは (マルワギリとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

こういう問題を助長してしまうので、全部見て語る必要がある。しかし、私は業としてやってるのではないし、ここまでの整理を以て勧めた友人に「僕には合わんかったわー」というつもりである。それで終わるかもしれないし「シーズン〇〇だけでも見て、ジェシーが××するところかきっとイイと思うから」みたいにカスタマイズされたおすすめが得られるかもしれないわけだ。まあ、だから、ツッコミとかは歓迎なのでこういう形で感想をおいておく。

え、倍速視聴の問題の方はって?真っ当な指摘を一つでも持ってくれば考えますよ。限定的なシチュエーションで問題になり得るのは友人との議論でも出てるけれど、一般的に問題になるって立論はまずできないと思うよ。限定的なシチュエーションで僕が例に挙げたことあるのは、スポーツアニメでの反響音。「ハイキュー」とかちゃんと録音していて、そうすると、普段の練習と大会で反響音が変わってて、大会だとより広い会場の空気があるのが伝わってくる。倍速再生でも差異に気づくことはできるが、この「広さ」をちゃんと把握するのに、等倍再生じゃないととは思った、というのがある。


余談。見てるだけで英語の発音が少し綺麗になった気がした。表現で面白かったのは、コインで死体処理か殺人かを選ぶときに殺人の方になったウォルターが「best-two-out-of-three」って言うのね。これは「3回勝負の、先に2勝した方が勝ちの」っていう意味の定型表現で、ゴネてみせている、まあそのゴネが通らなかったのは結果をみればわかるし、まあ通らなさそうってわかるんだけど、このセリフでウォルターは死体処理の方がマシだと思っていたことが伺えるわけだ。で、日本語訳の方は、シンプルに「おめでとう」になっている。コインで表が出たことについておめでとう。思い切った意訳だね。


この話を書いている途中、 cosmic justice が出てきた。元ネタは The Quest for Cosmic Justice | Hoover Institution これだろう。正義を不公平の是正と捉え、法の運用のように正しい手続きを重視する伝統的な正義、SJWなどで問題視される社会的正義、そしてこの小論で述べられている宇宙正義の3つを対比させながら説明している。このなかで社会的正義はあるコストを無視することで反社会正義にもなり果てていると批判している。なんども登場する例として、犯罪の多い地域へのピザの配達ができないというのはけしからん、配達において地域を制限するなというものである。これは一つの不公平を解決するが、ドライバーの身体的安全などのコストを考えておらず、別様の反社会性を持ってしまっているので、反社会的正義になっているということだ。確かに多くの社会的正義にはそういう側面がある。宇宙正義は、そういうありとあらゆる人の不平等を考えた正義だという。ただし、実現可能性の面では他2つの正義にも劣るので、宇宙正義を犬と肉の寓話のような欲張りな正義になり得てしまうとしている。Breaking Bad で宇宙正義が描かれてたようには思わないけれど、伝統的正義に反したときに、そこの苦しみからジェシーが道徳を立ち上げているのならばそれは見るに値したかもね。