Fashion Weekでゴミ袋被ったインチキ野郎が勝手にランウェイを歩いたんだけど、客は全く気付かず。これが最先端のファッションだと思いこんだのは非常に滑稽である。pic.twitter.com/3YWfSBYp8R
— 関 泰久🌗 (@Campaign_Otaku) September 13, 2023
これについたQTコメントは、「マジで誰も何も理解してないのに何かをありがたがってるの、もはや宗教よな。」「こんなもんやろ」「いかに世の中の「識者連中」の感性がアレだって皮肉だなw」「めっちゃソーカル事件ぽくて素敵(笑)」「現代アート美術館の床に誰かがメガネを置いたら、皆んなアートだと思って写真撮りだしたってやつと似た話だ。アートとか最先端ファッションってなんなんすかね?っていう皮肉ききまくってて好き。」みたいなのが多くて *1 気持ち悪いと思った。そもそも、「客は全く気付かず」なんてことはなくて、もっとちゃんと何か仕組まれた批判としてプロのモデルをつかって適切な時間枠でやるとなれば、気づかないこともソーカル事件っぽさもあるだろうが、ウォーキングや後ろを気にしているさまから普通でないことはすぐにわかる様子である。
まあ、そんなことはどうでもよくて、特に事実に基づかずネタがあればハイカルチャーを馬鹿にしたい人々が多いのはいまに始まったことではない。酒場談義ではしばしば「維新的なるもの」とも称され、すごく一般的に力を持つようになってきた価値観だ。
伝統芸能やクラシック音楽などの、いわゆるハイカルチャーに否定的な見解を示す一方、お笑い、ギャンブルやストリップなどの大衆文化を肯定的に評価する発言が多い。
と橋下徹 - Wikipediaが言っていることは前にもこのブログで言及したし、それへの処方箋は「考え続けること」や「議論し続けること」に触れる機会を用意して、やさしくおしえてあげること、だとした。QTで多く言及されてたソムリエに「最もまずい」と評価された400円の激安ワインが国際コンクールで金賞を受賞してしまう - ライブドアニュース←この件も、ハイカルチャーの問題ではなく、ハゲタカジャーナルと似たような問題だ。つまりお金を払えば賞を授与するようなビジネスが成立してしまう。そう、もし経済価値だけが価値なのならばこの問題は生じず、それとは別に価値の体系があるから問題になるのだ。そして、それをハイカルチャーのハイさに求めることはむしろルサンチマン的な感情を引き起こして筋が悪いことは前の記事で言及した通りだ。ここまで答えがでていても、直接この事案について解説をリプするなんて、愚かさの極みなのでほおっておくしかない。
なのにわざわざまた記事を書く気になったのは、(1)ソーカル事件との関連で査読とオープンサイエンスについて触れておきたかったのと(2)前の記事にぼやっと述べていた楽しむ教養についてを補強しておきたいのと、(3)学術的な文脈を取り込んでおこうと思ったけどググった程度ではうまく見つからなかった話と。
(1) ワインについては賞なのでこの話には当てはまらないがそもそも前述の通り構造は異なり、ファッションウィークのそれぞれの作品、多くの芸術作品の展示、論文の出版については、それは「評価に晒す」フェーズであり評価されていることを意味しない。査読や審査ではいろいろな選抜がなされるが、ファッションウィークの審査やレポートなどで高評価を得る、それが数年にわたって言及される、そういう何段階にも積み重ねられた評価の場、というものを市井が理解できるようにならなければインテグリティを保持したオープンサイエンスなんてものは不可能であり(だって、より一層中途半端なものを成果として共有しないと非専門家による寄与は難しいわけで、その取り扱いを適切にするためには一連の評価と価値づけの流れ、そこにあるデフォルトとしての信頼がそのオープンさを享受する人たちの間で共有されなければならない)、戯れにそれを壊してはならない。
ソーカルたちも
しかしはっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要と感じており、明らかに事実無根のフィクションと分かるものについて、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。
とちゃんとエクスキューズをしているし、それですら批判もされたのだけれど、先ほどの当該の乱入者もQTに関わっている人たちもそのような動機にすら基づいているようには見えないし、結果としてまったくソーカル事件と比べられるものではない。むしろ、あなたたちのファッションの感性をファッション業界のヒエラルキーに反映させる可能性を自ら潰すような行為だと言える。こんなやつらに邪魔されずに象牙の塔の中でしっかりやっていきましょう、という反応を引き出すことによって。
(2) 特別展「古代メキシコ」 を見に行った友人(イギリス人)が「展示は素晴らしかったのだが、観客が写真ばっかりとっててウザかった。僕がモノを見てる時に手をニュッと伸ばして写真撮ってどこかいくんだよ?何を見にきてるのっていう。写真くらいオンラインで見ろよっていう。特に日本人は、そういう傾向強いと思うんだけどなんで??」と言っていた。何かを楽しむのって能力が要る。カラオケを楽しむのもカラオケがそこそこ上手くないと楽しめないってのは僕がよくだす喩え(これにも文化バイアスがあって、海外の人は「下手でもみんなで歌えば楽しいじゃん」派が多いのでグローバルに使える喩えではないけれど)。街を見る力と長距離歩くのが苦にならない体力がないと街歩きはそんなに楽しくない。なので楽しむ能力をつけなきゃいけなくて、「それがないのに見にいく」というのは起こりにくい、つまり楽しくなさそうなら行かない、楽しそうなら行く、はずなのに、「大して楽しくないのに行く」が生じやすいのが日本人の特性の一つで、話題になってるから行く、そしてそのことをシェアする、さまざまな対象が人間関係のためのメディア化する、というのがある。僕は韓国人の方がこれが激しいと思っていて、年単位どころか数ヶ月単位で話題になる観光地が変わりそこにドッと人が押し寄せるということを、去年の秋に韓国に行ったときに実感しそういう話を聞いたので、別に「日本だけ」ということはないが、なんにせよ負の側面も強い特性である。それでも何度か行っていたら楽しむ能力がつくのならば良いのだけれど、あんまりそうでもないようなので、楽しみ方まで教科書にしてあげないといけないのかもしれない。まさに西洋絵画についてそういう意図で書かれた本にまなざしのレッスンという本があり、暗い部屋でひたすら絵を紹介し続けるという著者の授業で教科書に指定されていた
本書がよくあるタイプの概説書や啓蒙書と決定的に違うのは、単に西洋絵画に関する知識を植え付けようとしていない点にある。むしろ、西洋絵画を見るために必要な個々人の「まなざし」を作ること、鑑賞に有効な構え、コツ、ポイントなどを肉体化することに集中している点が特徴なのである。比喩的に言えば、絵との対話の仕方を伝授しているのだが、それを身につけるのは決して難しいことではない。
メタに楽しむという様式や個人レベルでの批評の方法などを体系化する必要があるのかもしれない。
ちなみにこうやって教養をつけろという方向に行くと、絶対に多くの人々を置き去りにしてしまうので気をつけなきゃいけないし、朝ドラのらんまんで要潤演じる田邊彰久が西洋かぶれして西洋文化を日本文化の上位に置いて尊ぶ振る舞いをしていた(これはフィクションだが明治の文明開化にそういう側面があったのは事実)のも、(【世界で戦う教育法】日本の「学歴」「偏差値」はもはや無価値。我が子をグローバル社会でキャリア形成させるには?【東京大学教授・鈴木寛×元ハーバード大学准教授・柳沢幸雄】 - YouTube のような動画(11:45付近)で「オペラ、ヨット、乗馬」をグローバルな教養として挙げる浅はかさも、関連して気をつけなければいけないコトではある。
(3) この問題自体、僕が見つけた視点でもなんでもなくすごく幅広く認知されている問題で、学問的に扱われていないわけがない。
ググって吹上 裕樹〈書評論文〉文化区分の形成とその変容 : ハイカルチャー研究における新たな課題を問うために とか、そこで出てくる「文化本質主義」というタームから長谷川 典子 「文化本質主義」をめぐる一考察をざっと読んでみたのだけど、
前者時代的にもまだまだ橋下の扱いが曖昧だったのかも知れないが「クラシック音楽が「ハイカルチャー」だからといって、これを慣例や文化的権威に基づいて支援することは困難になっているということ」と言及していて「ハイカルチャー"だからこそ"の扱いだったわけで的外れだろう」と思うし、のだめについて「ハイカルチャーとしてのクラシック音楽が、商品として広く行きわたることによって、自らその権威を切り崩している姿」と描写しているが、別にクラシック側がポップスを取り入れるのはともかく、ポップス側がクラシックを取り入れるのは権威の強化にもなりうる行為でなんか的外れだし、『のだめ』も『ブルーピリオド』も私たちとは違う世界の闘いを描いていて、だから冒頭の問題でも『ランウェイで笑って』に言及しているコメントはむしろ場を荒らされたイベント側に寄り添っていた。そういう意味で各論はほとんど納得感がなく、末尾で挙げられてた
今日の文化状況を「礼節としての文化(卓越・エクセレンス)」、「アイデンティティとしての文化(エートス)」、「商業的・ポストモダニズム的なものとしての文化」の間で三方面にわたって展開される闘争と捉える(イーグルトン 2006:154)。またこの中でも、グローバルなスケールでの重要な闘争として、「商品(コモディティ)としての文化」と「アイデンティティとしての文化」との闘争をあげている
といった文化のタイプの解像度をあげる議論は少し面白そうと思い、解像度をあげようという総論はまあそうだよねとは思った。後者は「文化本質主義」という概念自体が構築主義者の藁人形論法じゃんと言ってて、まあそうだろうねと思いました、くらいで、あまりだった。今の立場を利用して誰か詳しそうな先生を飲みに誘ってみよう。
*1:文脈的にユーザ名を名指ししない方がいいと思って付していませんが、ご希望でしたらコメントくださればユーザ名などを付します