Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

「二合半」の読みと意味

Androidスマホでホーム画面左に「Google Discover」というニュースフィードのようなものがあって、そこでたまにくだらない記事を読んでしまう。

「二合半」はなんと読むでしょう?

QuizKnock 見てる勢なので答えは知ってるが、そういや用例について色々疑問があったなと思って読んでみる。『現代ビジネス』のサイトだったのだ。『grape』のようなメディアなら「どーせ回答と「なんでこう読むの!?」みたいな市井の反応を紹介するだけで、その理由も書かずに終わるだろう」という期待値なのだが、もうすこしマシだと期待して、大量の広告をかいくぐって読んだら、

正解は「こなから」でした!わかりましたか?

で終わり。本当にクズすぎてリンクも貼りたくない。


代わりに解説すると、一升の半分を「半」で「なから」と呼び、さらに半分を「小半」で「こなから」と呼んだ。…というところまでは知っている。そういう意味で、référent は同じ二合半 = 二合五勺という量である。しかし、「二合半」という文字列を「こなから」と読んだかについては個人的に甚だ疑わしいと思っているのだ。まず国会図書館の次世代デジタルライブラリーで全文検索してもろくに出てこない。逆に二合半をそのまま「にごうはん」と読む例はあり、

家庭の栞 : 教育実話

これは、デジタル大辞泉(from コトバンク)に

2 《1日5合の扶持米(ふちまい)を朝夕二度に分けて食べたところから》武家の下級の奉公人。また、身分の低い奴やっこなどを卑しめていう語。

と書かれているようにこの書籍に限らず言及されている用法である。「五合」で「なから」と読ませる例は全然見かけないし、「二合半」で「こなから」も同様に怪しいのだ。「春夏冬」で「あきない」、「一斗二升五合」で「しょうばいますますはんじょう」(なぜかは各々考えよ)と読ませる遊びと同様の読みだと言われれば、なるほどと思う。そういった、トンチ的面白さも相俟って読みとされているのだろう。もう、現代にはクイズ以外で出てくることはない読みといっても過言ではない。

ちなみに、référent の同一性から生じる難読語は他にも色々あるが、先日帰省した時に「安口」で「はだかす」という地名に出会った。その地域にオオサンショウウオがいたのだけれど、

落合重信氏著の「ひょうごの地名再考」には、「江戸時代、丹波地方では、山椒魚のことをハダカスともアンコウとも言っていたのである。アンコウから『安口』の文字をあてていたが、方言としてアンコウよりハダカスが一般的になってきて、安口(アンコウ)が山椒魚だと知っている人たちが、いつしかこれをハダカスと呼ぶようになったのであろうか」と記載している。

from 「安口」なんて読む? 正解は「大山椒魚」に由来 かつては井戸で飼う風習も - 丹波新聞 孫引きになってすまないが、この丹波新聞の記事は本当によく調べられている。そして砂防ダムで姿を消したというところで、地名から今はみかけない生物が元々多くいたことに思いを馳せることができるという点が明示的にされているのも良い。

さて、二合半が多いのか少ないのかという点については、「少量の酒。こなからざけ。」という語義が辞書に載せられているように「少ない」わけだが、酒に弱い僕からすると、450mlの日本酒なんてとんでもなく多い。傷む前に飲みきることすらかなわない。飲酒量が多かった江戸時代、酒はいくらだったか 日本酒が作られるようになった時代の飲酒事情 (東洋経済オンライン)わが国の飲酒パターンとアルコール関連問題の推移(厚生労働省) を見合わせてみると、そんなに現代と変わらない飲酒量だったようで、ただ、酒の種類の大半が日本酒だった(日本酒というのはだから、レトロニムだよね)とはいえ、やはり二合半の日本酒を「すくない」の代名詞として使える気はしない。水割り日本酒のルーツは江戸時代!その理由と蘇った江戸酒を紹介 (日本酒ラボ) 当時のアルコール度数はもっと低かったとなって合点がいった。徳利は一升が基本で五合が最低ラインだった(現在は1〜2合 貧乏徳利・牡丹徳利【うまか陶】)というのも、人間の耐性がそう簡単に変わるわけはないので、度数の説を後押しする。「最近の若者は酒が飲めないじゃないか。昔はもっと飲んでたんだよ」って?前掲の厚労省のデータを見るといい。

同じ物理的な二合半を指していても、そこに乗った気持ちは異なる。あとは小吉は吉より下なのは小江戸より江戸が江戸なんだから当然だし、算術の教科書に二合半がたくさん出てくるのは Quarter 貨幣があるように二合半というのは身近な単位だったというのとか、「二号はん」とかけてお妾さんを指す用法があったとか(これマジ?)、諸々含めての二合半なのである。

「明けの明星」と「宵の明星」。これらは「同じ」なのか。ゴットロープ・フレーゲは言う。それらの「意味」(Bedeutung)は同じであると。しかし、それは意味が同じというだけである。彼は明確に、それらの「意義」(Sinn)は違うという。

from 「意義と意味の哲学」日本哲学会


「二合半」を「こなから」と読む、それだけでは、二つの signifiant の繋がりを知識化しただけにすぎない。「中国語の部屋」みたいな時代遅れな例えを出さずとも、文脈を encode してなければ、文脈を decode できないよねという話。実は、表層的に確認できる意味理解なんてものは、その程度でしかなくて、その元データとしての現実世界との繋がりを作れるのは現実と情報のインタフェースとしての身体を持った存在だけだけど、それも別にロボットでもできること。

ちなみにこの記事のタイトルについてのAI推薦は以下の通り↓ソーシャルメディアはバカの言い換えか。