Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

ブリジット論争に関する個人的なメモ

別に論争に参戦するつもりはない。なぜ個人的なメモが必要かというと、「可愛いもの好き、についてえらいミソジニーな界隈から発信されてるの、気持ち悪い、一緒にされたくない」というのがあったので。いざという時(?)にちゃんと説明できるようにしておくために。

背景は 【LGBT】ブリジットが最新作で男の娘→トランスジェンダー設定になり議論を呼ぶ【ギルティギア】 - Togetter で、「男の娘」の40年史 またはブリジットをトランス女性にすることがなぜ反動的なのかの歴史的説明|狂人note|note とかにその歴史背景が「男の娘をトランスと一緒にするな」側から描かれてる。

私の理解は、マツコの「コスプレと似てる」発言で考えた"女装"をめぐる根深い問題 女装はLGBTに含まれますか? (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) にあるように、男の娘は出生時の性別(というのは社会的要素を含みすぎるので生物学的性別と以降はしておく。もちろん「生物学的性別」を定めるのが難しいから「出生時の性別」としているのだけれど、後述のように「何を重視しているか」という問題においては「生物学的性別」と等価なので)も性自認も男で、性表現が女であるものが「男の娘」だという理解。

森山至貴氏による分類分析

で、性自認が女であるトランスとは別だし、ブリジットが性自認を「変えた」のだから、単純にトランスではないでしょ、そこ一緒にすんなってのが界隈の認識。一方、欧米LGBTQI+側(雑なまとめ方だけど、今回の文脈で「男の娘」発信界隈に対置されるものとして)からは「性自認は変えられるでしょ」という圧力が社会に存在し、それに対して対抗するために

いいえ。人の性的指向性自認は変えられるものではありません。性的指向を変えようとする試みは、しばしば人権侵害を伴い、深刻なトラウマを引き起こす可能性もあります。

from LGBTQI+コミュニティについてよくある質問 | OIST Groups

のような考えが強いこと、また、日本のアニメ設定などは生物学的性別が強調されやすいこと(僕は狂人noteは購入しておらず、おそらくそこも多様化していることが2010年代について描かれているが、傾向としてはそう)が、LGBTQI+側への無理解として捉えられている。不変な性自認が重要視されていると言える。性自認(ちなみに英語ではgender identity)の近接概念として「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」というのがあり、これが上の表にある衣装などによる「性表現」ともズレることがある。この3つが区別されていないことが今回の問題を引き起こしている。

「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」は「選択」なのだから、変えることもできる。「あなたの性自認は男なの?」と聞かれてどう答えることにしているのか、は「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」だ。そういう意味で、性自認は本来不可観測なもので、それを観測可能で変えられるものではないと固定しているという点で、性自認のありかたというのが「性自認は変えられるでしょ」という圧力への対抗の副作用として不自由に歪んでしまっている。様々ありすぎて区別が難しいと言われているような多様なジェンダーについて、どれを口にし、どれを否定し、どれを許容するかといったことも、「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」だ。当然、それは概念がどのくらい普及するか、それを自分が知っているかなどなどによって変わるわけであり、いわゆる不変な性自認とは別のレイヤーにあることは自明だ。で、今回の件は、「今作で女の子として生きる決断しおった。」という「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」の変更がある。

外に「男」だって言ってるのに、衣装などの性表現で「女」を纏っている、ということが欧米のLGBTQI+界隈で理解されにくいというのはそれはそう。だから、

というのがバズってて、

こういう欧米のLGBTQI+界隈に対して攻撃的な物言いまでもが増えてきて、冒頭の違和感に至る>「可愛いもの好き、についてえらいミソジニーな界隈から発信されてるの、気持ち悪い、一緒にされたくない」

狂人noteの人も色々ミソジニー拗らせてるし(というのは、どれと特定はできないが、なんどか目にしたTweetで私はそう感じている。当該note記事が英語圏に発信された際にも「こんなやつの言うこと…」って感じの反応が出ていたりする)が、まあ、こういう対抗意識を含んだ土壌がちゃんと独自の性表現の文化を生んだという意味では「こいつらミソジニーだよね」で片付けてしまうのはそれはそれでよくないとは思っている。一方で、性的消費の都合から生物学的性別(やそれと見た目のギャップ)が強調されやすいとか、まさに欧米のLGBTQI+界隈が直球で批判しているような側面があることも否めない。

僕はちょいちょい話していますが、3歳くらいから塗り絵とかいろんなものの選択が女の子用のもので、母に揶揄されたため、染色職人だった叔父に色と性別に関するインタビューをすることを経て色々考えて「性別に関する観念は社会的に作られている、それに自分が従う必要はない、自分の表現をデザインすることが大事だ」という考えに至り、4歳の時に「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」としては男を選択し、衣装とかの性表現としては「男も女も選択しない」(粗雑さよりも繊細さを称揚するとか、個別に他の軸があることを重視する)ことを選択しています。「男ならこう感じる」的な言説の大半に当てはまらないので、おそらく、不変的な性自認のレイヤーをprobeすると、不定性とかの判定になるとは思いますが(その時点で不変ではないよねw)、「男ならこう感じる」的な言説が批判されるようになるだろうという30年前の読みがちゃんと当たっているので、「男だがそうは感じない」と言えばいいだけなので、特にこの選択を変えずに生きてこられている。そこに関しては、欧米のLGBTQI+界隈の恩恵をかなり受けてるんですよ。そもそもオタクの地位向上だって海外の目線の影響が少なくない。そこに無自覚でありたくはない。

党派性でドンパチやりたい人は、盛り上がってる間は何言っても聞く耳持たないので、「別に論争に参戦するつもりはない」です。もう8年くらい前に某表紙問題について欧米のLGBTQI+界隈側の党派性に物申さねばとなった時には、日本のコンテンツ文化史「も」ちゃんと認識しろって立場を取った。その時は当事者性があったし丁寧に議論に付き合ってくれる賢い人がいた。今は、単にミソジニーに染まった人間が日本のコンテンツ文化史「を」理解しろって立場をとることが多くなってきて、一緒にされたくないから、どちらにも与したくない。そもそも、あくまでファンタジーに留めおいて消費する日本のコンテンツ界隈と、すぐにリアルに持ち込もうとする欧米のLGBTQI+界隈のズレというのもあるのだ。僕は今回の件については、自分のリアルな問題として入ってこの記事を書いてるから、コンテンツ文化史の細分としてはあまり興味のない系統であり(今回までブリジットは知らなかった)、男の娘になれる若さも美貌も持ち合わせていないから、生物性も性自認も年齢も「オジサン」でしかないけれど可愛いもの好きでたまにそれを身にまとったりしてしまう(職場のスリッパにはクロミちゃんのバッジがついているし、SNSのアイコンはずっとピーターラビットだし、夏でもちょっとオーバーサイズめのポップな感じのフードとか着ちゃうし)人間としてどういう良い表現ができるか(「ありのままでよい」と押し付けるのも一つの暴力だよ、僕が僕が理想とする形を探したい(先回り))という目下の問題の方が重要であり、コンテンツ文化史としての側面があることは思想的に重要だとはおもっているものの、その内実に踏み込む動機が無い。

というわけでだいたい整理できた。