Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

Docker 再勉強

Virtuoso を Docker で運用 - Drafts を1年前にやってたのだが、Docker が進化しすぎて全然通用しなくなっていたので再勉強中。

Docker Toolboxという形でOpenStackみたいにいくつかのコンポーネントにプロジェクトが分かれた模様。最低限は Engine と Machine。ほんとは GUI の Kitematic も欲しいけれど、Linux Support はまだ初期段階ということで今回は見送り。

Docker Engine をインストール

docker.io ではなく docker-engine をインストールする。Installation on Ubuntu にいろいろ書いてある。

Docker Engine をアップグレード

sudo apt-get upgrade docker-engine

でできました 1.11から1.12にアップグレード。

Docker Machine をインストール

Install Machine にやりかた書いてあるけど、パーミッションの関係で動かなかったので、

wget https://github.com/docker/machine/releases/download/v0.7.0/docker-machine-`uname -s`-`uname -m`
sudo cp docker-machine-Linux-x86_64 /usr/local/bin/docker-machine
sudo chmod +x /usr/local/bin/docker-machine

とやった。つまりは、適切なバイナリ持ってきて適切な場所に置いて、実行権限つけてるだけ。

学ぶ

Linux — Docker-docs-ja 1.11.0 ドキュメント という日本語ドキュメントがあって、45分のチュートリアルがある。これを今やっている。

その他参考

  • Dockerでホストを乗っ取られた - Qiita 前もセキュリティ的に色々考えて面倒だった。そりゃ分かってる人が読めば当然のことなんだけど、Docker は使う側がセキュリティのことあれこれ考える必要が大きいのは現状の問題だと思う。

二日酔いがまだ抜けきりません。三日目です。純粋アルコール換算量 10ml まで大丈夫だったはずなのですが、8ml程度で半日つぶれることを覚悟したのに、36時間たってもまだ体がだるいです。あのちゃんとしたシャンパンとウイスキーはなかなか価値だったのですが、舐める程度でやめるべきでした。アセトアルデヒドを分解するALDH2遺伝子が無いのは確定なのですが、その場合ADH1B遺伝子の有無にかかわらず飲めないとされるもので、僕はあとの苦しみを考えなければ3,4時間ならば並みの日本人並みには飲めるので、よくわかりません。まぁこんな事実公表して飲まされたところで飲ます側はあとの責任を取ってくれるわけでもないので「飲めません」と基本的には断ってます。飲んでいるうちに強くなるというルートがあるともいわれていて、それが消えたため、10ml の限界が下がってしまったのかもしれません。これからは、改めて、舐める感じの喫酒を極めていきたいと思います。


その酒の席は料理持ち込みだったので、新味バターソースのマカロニアスパラサラダ by かおりん♪♡を作っていきました、結構好評で良かった。1時間くらい放置しただけでちょっと乾いた感じになってしまったので、レンチンすればよかった。たぶん脂分が時間の経過で固くなるんだと思う。

あと、その場でも料理をしたのですが、トマトを拙く切っているときに、Hさんが「お、上手いな」的なことをおっしゃって、僕が照れてしまって切り方を間違えたりしつつ、喜んで切り続けているのを見て、Yさんが「さすが褒められて育った世代だな!」とおっしゃってた。Yさんは昔アメフトか何かやってらっしゃって、そういうスポーツにおける発破による奮起みたいなのと対照的に見え、それを世代差として受け取ったのだと思う。もちろん世代差も大きいが、僕たちの世代は個人差が大きいと僕は思っている。

むしろ、Hさんのことを「人のことを良く見ていて、ちゃんと評価してくれるので、やる気が出る」とYさんと似た世代の方が評していたので、叱咤激励で頑張れないことを(これも規範っていうの?要はちょっと広範に力を持つ世間感覚)恥ずかしいというような風潮が、実はどの世代でもある程度あった個人差を抑圧してただけなんじゃないかなとさえ思う。


これはスポ根的なものを批判してるんじゃなくて、むしろ逆。彼らは叱咤激励に愛を感じて頑張れてたわけで、スポ根漫画も多くの場合、その世界だけに閉じていれば問題が無い。叱咤をコミュニケーション手段として用いることは、弊害が大きかったからこの数十年で否定されてきているだけで、それ自体が常に問題になるわけではないし、初等教育のような場で用いることは危ないということが共有されるのは妥当だとしても、スポ根漫画的表現が非難されたら馬鹿らしい話だと思う。


美味しいお酒も、褒めも、叱咤激励も、ちゃんと僕というレセプターや社会環境をひっくるめて個々アトミックなコミュニケーションとして成立していて、そこに齟齬があった場合は僕はできるだけ自分でなんとかしてるつもりだし、そのコミュニケーションに規範的なものが持ち込まれると、それが自分に味方するモノであったとしても特に歓迎してないです。その場の全員が共有してそうだと確信した場合のみ歓迎する。


その他関連:

Chrome の 32bit版廃止に伴ういろいろ on Lubuntu

ブラウザ周り

Chromium で Flash Player が使えなくなる件の対処法 - Qiitaにも追記したが、もう Chrome でも Chromium でも Flash は使えなくなる。厳密には古い Plugin を使い続けることはできるが、セキュリティ上望ましくないし、また YouTube などが HTML5 のサポートを充実させているので、もう使う必要がないだろう ニコ動も HTML5 Video 対応してくれないかな。私は、ChromiumFlash プラグインを切って使っている。Firefox に乗り換えることもできるが、Linux では LINEが Chrome/Chromium アプリでしか使えない(wine だといろいろ不具合がある)ので、どうしても Flash を使いたい時だけ Firefox を使ってる。

参考:

apt-get update 周り

エラーがでるようになったので、chrome を remove したら直った。

無神論者の疎外が肯定される論拠

アメリカから帰って紙幣を整理していると、そこに印刷されている「In God We Trust」という文字が気になった。これが印刷されるに至った経緯や巻き起こっている議論はイン・ゴッド・ウィー・トラスト - Wikipediaでも見てもらえれば良いが、これはアメリカにアイデンティティを持つ無神論者にとっては許しがたい言葉であり、私のような弱い不可知論者にとっても違和感を覚える言葉だ。

インドネシアでは無神論は違法であり、神の信仰ならばキリストだろうがアラーだろうが肯定される。

これら、オフィシャルに(特に一神教的)有神論が支持され、無神論者が疎外され、場合によっては迫害されることが肯定されるのは何故か考えてみたい。これは決して、法哲学的にそれを基礎づけようとするものではない。何かの宗教的正義を肯定するためにどんだけ理論を振り回したって、理論を社会影響に結び付けられる強者が勝つことにしかならないので(双方論理的には正しいことが屡々なのだ)そういうの大嫌いなのだけれど、なぜ肯定したがるのかということをメタに記述するのは楽しいのでやってみようということだ。


基本的には有神論者が信仰を否定されることへの不快感と、「神の信仰」と抽象化されたことで各宗教の有神論者が一体となるマジョリティの力が、無神論者の疎外を肯定する原動力なんだろう。

まあ、日本人の宗教観はそれの鏡像みたいなもんで、宗教が引き起こす害悪への不快感と、日本的な宗教観(日本は一般的に無宗教ではない、本来の仏教とかでももちろんない、日本的なるものとしか言いようのない宗教意識をかなりの人たちが共有している)を共有するマジョリティの力が、熱心な宗教者の疎外を肯定する原動力になる。

有神論者と弱い不可知論者は共存できるが、強い不可知論者や無神論者とは衝突を免れ得ない。世の中、共存し得ないものというのはあって、人を誰彼構わず殺したいという人間と、殺されず安全に暮らしたいと考える人間は共存しえない。前者だけならば特に矛盾は生じない。ただただ殺伐とした世の中が来るだけだ。それでも人類全体が滅びたりなんかはしない。「人を殺しちゃいけない理由」がなんか難しい哲学的論題のように扱われることがあるが、みんな莫迦なんじゃないかと思う。「人を殺しちゃいけない理由」なんかなくて「「人を殺しちゃいけない」ことにしている理由」は、マジョリティが「殺されず安全に暮らしたいと考え」ていて、殺すという行為がこの2つの両立を不可能にする行為であるというそれだけで十分な説明じゃないか。なんで「マジョリティが「殺されず安全に暮らしたいと考え」」ているかは、進化心理学的に説明がつくし。どこにも難しいことなんかない。あとは、これをバイナリから連続量的に捉えなおせるかとか、地域的局所性を想像できるかとか、ハードルはあることはあるけれど。

さて、脱線したけれど、繰り返すと、(1)不倶戴天のコードと(2)そのコード上でのマジョリティ、だけ揃えば「正義」が作られる、と綺麗に言葉になったのでメモしておく。

あとは、マジョリティがどう理論を振り回すかは僕の興味の範囲外だ。


利己的遺伝子 - Wikipediaに対する誤解とかも、この話が理解されないのと通底しているね。あくまで生き残った形質が優れた形質なのであって、優れた形質が生き残るのではない。後者は a priori に優れた形質を我々が判断できるという前提に立った言い方で、この考え方に基づく優生学はそりゃ問題を孕むさ。社会環境を含む環境との相互作用でしかなくて、環境さえも変化するということが織り込まれていないからね。この話と心理形質がどう結びつくかと言えば、ちゃんとミーム(この概念の発案者はドーキンス)という概念の導入で遺伝子概念が抽象化され、関連付けられているので、基本的には40年前にこういう考え方で「正義」を捉える基盤はできているはずなのだが、そうやって正義を相対化することは複数の正義を共存することにならず、「正義の味方」と衝突することにしかならない(=Yet Another 正義に堕してしまう)というのが、このミームが広がりにくい要因かもね。

eduroam を iOS7 以上で使う

Configuring eduroam on an iOS 7 or later device — University Information Services (Academic & Infrastructure)

このリンクをSafariで開いてインストールする必要がある。リンク読み取り用QRも置いておく↓

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参考:

語り得ぬことの輪郭

昼食でハーバードの目の前の「山頭火」でラーメンを食べた。東アジア研究者Pさんが「こっちのラーメンはまずい」と言ったので、検証してみようと思い立ったのだ。

  • スープの旨味が少ないこと
  • 添えられた野菜が薄めの葉物野菜であり苦みが際立ってしまうこと
  • 油っぽさが強く感じられること

が悪い部分で、

  • 分厚いがとろけるようなチャーシュー

は日本より良かった。総評としてそんなに批判するほどではなかったと感じた。同僚が「そんなに悪くなかったよ」とPさんに伝えたところ、「(日本人の)妻がこっちのラーメンは不味いと言っているので、それに同調してる部分もあるかも」とのこと。まあそれも Yet another 同調かもしれないけどね。


その昼食の時に、中国を対象とした研究について博士号を取得したばかりの学生に対して、同僚がアドバイスをしていて、なるほどと思ったのが、自由に写真が撮れずや文章が書けない国についての語りの偏りについて。

それはつまり、社会主義的な規制による部分や、識字率についての部分など、つまり表現の背景にある広義の資本がその偏りを生み出し、歴史研究をするときにはその偏りが語りの限界を生むということ。

そこで思い出したのが冒頭に張ったウィトゲンシュタインネタ。どうやったら、なんのために、語り得ぬことの輪郭を得ることができるだろうか。

そもそもこの論題は、語り得る/語り得ぬのバイナリ―ではない。何かを「語る」ということは、(誤解を含めた)コミュニケーションのなかで相互理解のメタ認知が得られることを指す。その相互理解のメタ認知はコミュニケーションの参加者それぞれで共有される部分が微妙に異なり、ぼやっとした相互理解の全体像が生まれる。正確性についても、事実性への信頼基盤=Plausibilityの認知基盤が社会で均一に保持されているわけではないため、ぼやっとした事実性評価の全体像が生まれる。輪郭は線ではなくグラデーションである。

三宅教授をはじめとして、「間」を研究している人たちのその「間」という概念にも通じるところがある。このグラデーションを描くことというのが、輪郭を得ることになるのではないかという直観を得た。

では何のために描くのだろうか。それは全体像をつかみたいという飽くなき研究者的探求心から来ており、「全体像」をつかむことが事実性への信頼基盤の醸成にもつながるだろう。でも一方でこれは矛盾していて、全体像など常につかみ得ないのだ。画一的な全体像などない。それがグラデーションを生み、輪郭を描き出す方法を支えるのだから。その描き出す活動自体が相互理解を作り、そこにすでにある相互理解が語り得る「全体像」なのだ。

この直観とウィトゲンシュタインの言ったこととの間の距離は近いと思うけれども、表面的には逆のことと言っている。つまり、間を語らないことによってはっきりと輪郭が見えると、上の漫画はそう言っている。そこはまあ、後期ウィトゲンシュタインをちゃんと読んでから考える。


追記:ちょうどたまたま(?)「社会調査とか歴史的資料を読むことですら根元的解釈から大きくかけ離れた(すでに非常に多くの事柄がお互いにわかっている上で可能となるやりとり)営みだ」という記述をけんさんのブログで見かけたので、上の文脈で考えると、

  • 多くの事柄がお互いにわかっている
  • 「多くの事柄がお互いにわかっている」とわかっている

は別で、後者は特に前提とされないし、それを先行させることはできないことが多い。で、「多くの事柄がお互いにわかっている」ことはコミュニケーションが成功裏に繰り返されて初めて明らかになる(=「多くの事柄がお互いにわかっている」とわかる)。でも、後者がすでに満たされているならば、コミュニケーションは円滑に行く(デイヴィッドソンの信念と意味とコミュニケーションの3項補完の話)。

ここでの信念のコミュニケーション前存在をあまりに重視することが、3項のうち1項を固定しているような印象をうける。もちろん、個々のコミュニケーションよりそれを可能にするシステムの方が相対的に Static なんだけれど、コミュニケーションの中で訂正・再構築されるべき部分もけっこうある。

デイヴィッドソンの言う「寛容の原理」というのは僕の理解では、コミュニケーションの成立が危ぶまれる場合、信念と意味の2項について肯定的な前提を一旦持ち込むことで(See: デフォルト推論@非単調論理 - Wikipedia)、コミュニケーションが成立し、信念と意味も確定しうるということを言っている。事実として信念が事前に共有されているなどということは言っていない。

ここでいう信念と、規範の関係について私見を述べると、信念のうち、中程度に Static なものが規範とされる。存在概念の存在などは重度に Static な信念であり、○○人が○○という特徴を持つことは軽度に Static な信念である(いまさらだが、ここでの「信念」は術語です。cf. 信念更新)。

そして、僕が毎回繰り返し言っているのは、規範の役割を(寛容の原理のようなメタな方法さえ持ち込まずに具体的に何か世界で単一で画一的な規範があるというかのように)拡大運用することで、コミュニケーションは失敗し、信念の更新も滞り、ただ規範を元から共有している人たちだけにコミュニティが縮小していく一方で、世界に断絶を生むと言っている。

ちなみに、デイヴィッドソンについては清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳『主観的、間主観的、客観的』を昔流し読んだだけなので誤解があるかもしれない。