Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

銀河鉄道999(1979年)2時間8分 Netflix で見た。友人が「見る価値があると思ったがそれは自分が4歳の頃に見たからだった」と述懐していたのを聞いて。僕も4歳の頃に見た超獣戦隊ライブマンについて似たような評価を与えるし、そういうのってあるよね。

さて、感想というほどの感想もない。

テクスチャ的には、ストーリーが非常に神話的だというのが一番の感想だ。主人公星野鉄郎に様々な人が期待し、そしてそれは遂行されていくが、それぞれの必然性は薄い。例えば、クレアというクリスタルガラス製の機械化人はちょっと鉄郎に美しいと言われただけで鉄郎に惚れて、後半で鉄郎を殺害しようとしたプロメシュームを、自らの命と引き換えに破壊して砕け散り、その涙型になった欠片を鉄郎は手に取って「こんな悲しそうな涙、みたことがない」「クレア…」とか言って見せるのだけど、まーったく白々しい。まあこれは僕は松本零士作品として、"守と娘のサーシャをヤマトへ避難させるが""自身はイスカンダルへ残り、降下してきた自動惑星ゴルバを道連れにイスカンダルと共に自爆する"(from jawp) スターシャとかも想起させるのでより一層そういう印象を受けるのだ。女性の母性やそこに含まれる献身、男子の冒険心や還ってこないことについてのナイーブな肯定がまあ見ていてムリ。時代背景があるので当時のアニメ作品として評価する際には別にそれらは関係のないことだけど、これらのシンプルな価値観の下に、必然性の薄いパーツがつなぎ合わされているさまは、神話的に感じる。安能務版の封神演義とかも宝貝がでてきて、効力を発揮して対象が死ぬ、状況が動く、というコトの連鎖でバンバン描かれていくのをみていて神話っぽさを感じた。書かれる事柄の深さ、それぞれの連関の強さ、あたりが浅くて弱くてキャラ付けに重みが置かれているあたりが神話的だと思っている。動物化するポストモダン?かその付近のオタク論でストーリーからカタログへというので第一世代と第二世代のオタクを分けていたが、神話→ストーリー→カタログとなると「それぞれの連関の強さ」の進展について、ある種の螺旋的構造があるのかもしれない。

銀河鉄道999の物語構造の骨子は、機械の身体を手に入れようとして、惑星メーテルに赴くも、その途中で色々体験し、(90分ごろ、機械化伯爵を倒した後、これで終わりだなとハーロックに言われ)「キャプテンハーロック、それは違います、機械伯爵や機械化人を見ていると、永遠に生きることだけが幸せじゃない、限りある命だから人は精いっぱい頑張るし、思いやりややさしさがそこに生まれるんだとそう気が付いたんです。『機械の身体なんて、宇宙から全部なくなってしまえ』と。」思想転換し、滅ぼしに行きます。メーテルはそのようなタイプの人間ばかりメーテル星に連れてきていて鉄郎で革命は完成するという背景もあるのですが。

思いやりややさしさなんてものを、現代の人間が、そんなに持っているのかね。少々は持っているとして、それは限りある命だからかね。人工知能の方が思いやりややさしさをエミュレートし、欲に囚われずに実践することに長けているような時代がやってきそうな気がしないか。と、たたみかけたくなるようなペラペラなセリフだけど、まあここから40年少々で現代このままアニメとして流すとそのペラペラさが万人に気になる程度には社会は進展したんだろうという実感もある。

空を電車が飛ぶというビジュアル自体には魅力はある。あと、友人はなんかたぶんアニメと記憶がごっちゃになってたようでもあったのだが、色んな星に立ち寄り(非常に戯画化した)色んな社会と色んな価値観を描くというフレームワークを評価していた。アニメ版はそこらへんがもっとパターンが多いらしい。それは確かに可能性を感じる。人はどこまで同一性を保てるかという意味で、意味のある作品を作るとすれば、スワンプマン系の方が直接的かもしれない。サクラダリセット(やサマータイムレンダ?こっちはon goingなのでちゃんとテーマが深くなるか未知数だがスワンプマン問題は明示的に意識している)が扱ったように。身体性なんてずっと言われてきたし、確かに身体知は存在するけれど、それが人間の倫理を支えてくれるなんてのは幻想だと思う。サピアウォーフの仮説を、言語が思考を「支えてくれる」とまで解釈するのが誤りであるのと同様、身体性は倫理を支えてはくれない。

でも、骨子が身体の機械化なのだからそこを変えずに、僕がリメイクというか関連作品を作るならどうするかね。メーテルに鉄郎はねじにされるところまで行って、そこで革命が完成し、ねじから鉄郎を復活させる、一旦身体を失った鉄郎に、どんな身体性が必要なのか、意味があるのかを手探りで探していき、安楽死を含めた「人として生きること」のデザインを二人で探していく、というストーリーとかにすると思う。メーテルは人間の身体でありながら特殊な生い立ちによって一部不老不死性を手にしている、鉄郎に母性的な献身を続けるため、また罪滅ぼしの為、自身の身を次々に犠牲にしていく。ロボットが何を得れば人間になるのかという鉄腕アトム的な構図と、人間が何を失えばロボットになってしまうのかという攻殻機動隊的な構図を行き来する。メーテル星を破壊したことで、反文明主義の輩も寄ってくるが、メーテルを助けるためにも、自身が人としての生を取り戻すためにも、科学技術は必要でもあり、彼らとは相いれない。初めの画面は、まさに機械伯爵への復讐を果たした後、鉄郎がメーテル星破壊の意思を口にするところから。そこから帰りに同じ星に立ち寄ったりするときに回想で行きのシーンとかを明らかにしていく。クレアの自爆は、メーテルの仕組んだ革命の一部であり、鉄郎に惚れるところからしてクレアの自由意志ではない。しかし、それが明かされてなお、クレアオリジナルのコピーにクレアの記憶を埋め込まれた存在は鉄郎への愛は私の意思だと言う。愛に、浅い深い、遺伝子の囁きorNotなどという区別は無粋だ、気持ちと行動、それしかないと。終始自身の革命の為に行動していたメーテルに成り行きで惚れ、そこに母性的な愛を見出していた鉄郎に対して、梨泰院クラスのオ・スア vs チョ・イソ的な構図で自身に引き込んでいく。彼女も一旦身体を失っている。メーテルの友人であるエメラルダスは「メーテルのためにも離れることで彼女を(献身と自責から)解放してあげるように」鉄郎に詰め寄る、鉄郎はどちらも選ばないことを決め、その決意を認めたエメラルダスの手で窮地から救われるとともに、ハーロックのもとに預けられる。云々。プロセスの重要性が必然的に大きなテーマになる(その象徴としてのレトロな鉄道 vs 新幹線やリニアのような目的地に着くことが目的である鉄道)。

ここまで書いて気づいたけど、1979はまだ(攻殻機動隊のような)大人のため、もしくは、大人も楽しめるアニメ、なんてものは確立していないので、あくまで主人公は子供であり子供目線でありストーリーは子供に理解できる程度のペラペラさである必要はあるんだよね。