Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

強欲について

今年の書初めは「強欲」にした。友人に報告したら「なぜそれを選んだのか...笑」と聞かれて「いつも、控えめ、お淑やかだからさ、ギャップ出していこうかと😉笑」と冗談めかして答えたが、真の意図をここに書いておく。

欲のバランスに欠けるがいいんじゃないか、シェアハウスの友人と3人で書初め

貪欲と強欲のどちらかで悩んで、漢字のかっこよさと、「貪欲」と「強欲」の違いとは?意味から使い分けまでわかりやすく解説 – スッキリ とか 「欲張り」「貪欲」「強欲」 - 違いがわかる事典 とかに示されている「悪い意味であること」の背景を積極的に評価しようという2点で選んだ。

強欲が悪いこととされているのは Greed - Wikipedia にもあるように、"it creates behavior-conflict between personal and social goals" ということなのだが、僕の欲というのは、世界のどこかでひもじい思いをしている人に食が与えられてほしいだとか、誰かの家の蔵にある文化財の価値が失われないでほしいだとか、離島の絶滅危惧種が消えないでほしいだとか、SGDsを声高に叫ぶお偉いさんたちのことは脇においても(国連のSGDsの会議にも出ていたことあるから別に脇に置く必要はないのだが、あまりそれをめぐる政治的状況は好きではないので)、めっちゃ social goals が内発的に含まれていて、一方それは根本自分のエゴだと思っている。つまり、共感してくれる人も、潜在的に共感できる人もいるが、多くの人は共感せず、強欲が前提としている conflict の中に居て、よくて偶然その人の身の回りの規範を鵜呑みにして従ってくれているといったところだ。

そういう意味では、論語:為政の「七十にして己の欲する所に従えども矩を踰えず」に由来する「従心」というのも一つの候補なのかもしれないが、そのエゴの危険性をどう評価しうるのかに意識を払わず自身の「従心」を自覚するのは、まさに七十くらいにしてなりがちな老害仕草だと思ったのでやめた。確かに内発的な social goal は古典的な behavior-conflict くらいは回避するかもしれないが、矛盾すら含むであろう多様な個々による social goal の和集合とは必ずズレをきたすし、もちろん積集合でもない。それを宗教的などっかの善から演繹するのでなければ(そうしたところでその宗教の内部にしか通じないのだが)、一から自分の責任で説明し、ズレの引き起こす結果については自分で引き受けなければならない。強欲な行動の結果、世間からどう見られて、その結果を欲するかどうか、それも欲のスコープとして考えなければならないし、そこででてくる「世間」というのは自分にとってままならない他者の集合体であるというのは重々承知してなければならない。Self-righteousness(独善)や Elitism (エリート主義)に陥らぬよう、それはエゴと世間の認識で支えていかなければいけない。世間はどうあるべきだ、というのは二重で否定しなければならないと思っている。一つは、そんな理想を掲げたところで(理想を分かりやすく提示するのはそれはそれで価値のあることだけれども)それが現実になるのに時間がかかったり現実にならないのでは行動に織り込むことはできないし、もう一つは太宰の言う「世間というのは、君じゃないか」問題であり、つまり根本個々人のエゴの社会的投影でしかないということだ。

そして、理想をどう織り込むべきかについても強欲は教えてくれる。『呪術廻戦』で五条悟が伏黒恵にお説教を垂れるシーン:

「君は自他を過小評価した材料でしか組み立てができない。少し未来の強くなった自分を想像できない。君の奥の手のせいかな?最悪自分が死ねば全て解決できると思ってる。それじゃ僕どころか、七海にもなれないよ。死んで勝つと、死んでも勝つは、全然違うよ。恵。本気でやれ。もっと欲張れ。」

ここで「自分を」ではなく「自他を」となっている。世間というのは平板ではなく、(友人関係のネットワークではなく、その欲における整合度での地平で)エゴセントリックに、信頼のおける友人とか理想を同じくする同志とかが、「その先」を手にしてくれることは信頼してみればいい、そしてもちろん、自分については自分の責任の範囲で自由に賭けられる。周りの人間に賭けてもらっていると感じるならば、「自分は評価されず放逐されてもよいので、価値のあることをしよう…」などと思わず「価値も、評価も、すべて強欲に取りに行け」ということになる。そこで時間が足らず健康が犠牲になると思うなら、バランスさせようと思わず、「健康も取りに行け」ということになる。バランスさせようというのは非常に困難なのだ。時間も金銭的だったり精神的だったりする様々な資源も有限なので、結果的にはバランスをとっていることになるだろう、でも、はじめからバランスを取りに行くのならば、予測と把握に意識はもっていかれる。個人的に、全部本気でやるというのはどうやら得意なようで、エーリッヒ・フロムが "a bottomless pit which exhausts the person in an endless effort to satisfy the need without ever reaching satisfaction" と強欲を評するときの疲れ(exhausts)はあまり生じない(ということを冒頭の友人に指摘された)し、どちらかというと「あの世でもらう批評が本当なのさ」(椎名林檎『目抜き通り』)と思いがち(それは先の評価の話で否定している)で自身の満足についてもその評価を無限延期し続けていて嫌にならないので、バランスをとろうというよりは強欲であることに向いているのだと思う。

強欲を積極的に評価すること自体は真新しいことではないし、特に経済的なものが多い。アダム・スミスが個人のそういう行動を肯定しただろうことは想像に難くない(し enwp にも軽く触れられている)し、アイヴァン・ボウスキーが”“I think greed is healthy. You can be greedy and still feel good about yourself.(強欲は健全だと思っています。皆さんも強欲になるべきだし快く感じられるはず)なんて言ってそれが映画で"Greed, for lack of a better word, is good. Greed is right, greed works. Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit. Greed, in all of its forms; greed for life, for money, for love, knowledge has marked the upward surge of mankind."って変奏して使われたりもしている。特に変奏の方は文字通りの意味だとさして遠くないように見えるが、映画の文脈を踏まえるとそれすらも経済的な欲の肯定でしかなく現代では害悪でしかないという見解もあるので、基本、この別段の肯定文を掲げない限りは、強欲の肯定なんてろくでもないと世間から見られがちであろう。そして、この別段の肯定文は長すぎるので、わからなければ「いつも、控えめ、お淑やかだからさ、ギャップ出していこうかと😉笑」ということだと思っていてくれればいい。