Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

Breaking Bad をみたけどみなかった話

ネタバレあるので、ネタバレ嫌なら読んじゃダメ。

ネトフリで Breaking Bad を少しだけ見た。1.5倍速で Season 1 をすべてと Season 2 の 3話、あとは最終シーズンの最後3話だけ。

友人数人に特に理由なくおススメされて見た。「さまざまな批評家の称賛を受けており、多くの賞を受賞している」らしい。以下、こういう背景伝聞はすべてjawpの記事 に基づく。

主人公のウォルターの演技が素晴らしいのは同意する。ただ、初めの殺人に関しては「さっさと殺せよ、かったるいなー」としか思わなかった。倒叙法などの演出がよかったのも認める。ただ、私は家計を助けるためとかガンの治療費を稼ぐために麻薬を作ったりしないので、ぜんぜんその倒叙に納得できなかった(ちなみに僕は薬物の作製について抵抗を感じてこんなに dis っているのではない、法秩序が所与の中でリスクとの天秤が見合ってないと思うだけ)。つまり、表現技法は素晴らしいが、その中身が共感できない。あんな犯罪ドラマ共感するもんじゃないだろうと言われるかもしれんが、「「チップス先生をスカーフェイスに変える」という当初からの宣告通り、制作陣はシリーズを通してウォルターを徐々に共感できないダークな人物にしていった」らしい。ラストシーズンになるにしたがって、犯罪に気軽に手を染めているところをもってそう描いているつもりなんだろうか。全てにおいて、制作者の価値観(なんてものが表現されているかすら怪しいが)がクソくらえなのだ。そりゃ犯罪も繰り返せば慣れる。それは人格がダメになっているのではなく、慣れるってだけのことだ。延命治療についても、友人から借りたり悪事に手を染めてまで無理して受けること自体意味不明だし(それは脳性麻痺でも懸命に生きている息子と同じロジックで肯定できるが、そのロジック自体が嫌いだ)、「犯罪を犯したりそれによって家族に危険を負わせたりするのは(ギリガンにとって)男ではない、ウォルターはエリオットによる支援を拒んだことで男になるチャンスを逃した」とか言っているので、エリオット夫婦を逆恨みすることも、そんな形で頼ることもどちらも是に思えない僕からは理解不能である。科学能力の俺TUEEEE爽快感なら、Dr.STONEの方が事実に基づいていてもっと素晴らしい。Breaking Bad では雷汞で大爆発を起こしているが、雷汞なんて起爆に使うのが一般的だ。テルミット反応はまあ、あのくらいのことが実際にできると思うけど。

あと、大きなテーマとして、ウォルターが人に心を晒せないところがその弱さとして否定的に描かれる=晒せることを肯定しようとするが、この手の話は寝取られモノのエロコンテンツでクリシェになっている。何かの弱みを握られて「隠しておきたいんだろ」って迫られるとか、何かを隠しているのが分かって信頼が崩れてとかで、夫婦の中で秘密を抱え込んで破綻、お互いの信頼があった初めから言っておけばそうはならなかったのにね…っていうね。まあ、つまり、真新しいテーマではないし、特に描き方に工夫は感じなかった。ちなみに、jawp 見てると、当てつけのようにウォルターの奥さんは浮気セックスするそうだ。

医療費の高さも、薬物や銃があふれていることも、夫婦の不信も、変な家族愛も、経済格差も、なにもかも、アメリカの社会問題だとは言える。韓国ドラマを見ていたら、いじめや富裕層による犯罪のもみ消しが頻繁に出てくるのと同じだ。しかし、その社会問題を物語を盛り上げるスパイスとしてだけ使うならクソだし、この作品はそうだ。

少し話がそれるが、韓国ドラマ「梨泰院クラス」はありがちなそういうスパイスと、成功への強迫観念とで、ダメダメなはずなんだけど、とてもよかった。それは主人公とヒロインのソシオパスと言われるくらいの空気の読めなさと仕事と恋愛への一途さとグリットが苦難を乗り越え成功をもたらしていく、そのディテールがよかったからだ。シンプルな話でもディテールが良いと、ジャッキーチェンのアクションをみてアクションがしたくなるように、元気が得られたりする。そういう意味で、アクションものなら、ほぼほぼ演出だけでも意味があるだろう。「梨泰院クラス」は人生譚ぽさがあるので、演出だけでなく心理描写もある程度は求められる。韓国は日本に比べてもセクシャルマイノリティに対するバッシングが酷いが、そんな中でネット上にアウティングされたヒョニが、イソから読んでいる本に出てきた詩―「炎で焼いてみよ 私はびくともしない石ころだ」から始まり「私はダイヤだ」で締められる(これは実在せずドラマのために作られている)―を送られて奮起するシーンとか、これを当事者への強さの要求なんて読んでしまうと批判されかねない話である意味 primitive なのだが、ディテールが良いからそうは思わない。これは演出だけではない。あと、悪徳な商売が横行している現実を描いて、正直やお人よしに商売しても成功できるって話は倫理のボトムアップな再構成みたいで好きだ、日本のドラマでも「正直不動産」とかがもっとビジネス寄りに詳細を描いてストレートにそれを表現している。「梨泰院クラス」は基本韓国ドラマの書法の中で、恨みを晴らすという側面が強すぎて手放しで絶賛まではしない。怒りを原動力の一つとして持つことまでは別に否定はしないし、その原動力としての使い方次第だというのは作品の中でも描かれているなど、韓国ドラマ文化の延長線上でこんな感じに作れるんだねという良さだった。(イカゲームやパラサイトやお嬢さんもこんなドロドロしたものも蒸留すればここまでアートになるって感じだった。基本的に韓国ドラマ文化の延長線上にある成功例はそういう形になりがちなのだろう)

Breaking Bad では、社会問題に対するそういう個人の向き合い方の問題が描かれにくい。登場人物の心がみんなみんな弱すぎるのだ。抗ガン治療の議論の際のマリーとかは、あの告白枕を順番に持ってウォルターを治療に説得するという流れの中でちゃんと自分の立場で場を乱してでも反論してえらいなとかは思ったけど。弱い中でどうしていくかってのを描いても良かったはずだけれど、単にみんなみんなボロボロになっていく。「チップス先生がスカーフェイスに変わる」ストーリーって決めちゃった時点で、それは既定路線だったのかもしれない。たまに大金を得て、バッと失ってしまう、その刺激はギャンブルのようにチープな刺激だ。なんというか、いいところが演技とか演出以外に見いだせない作品だった。ちゃんと全部見たらジェシーが何かを伝えていた可能性はある。でも、この説明を見るに、制作者の「スピード」が遅すぎてたいした地点まで至ってないだろうと思う。

シーズン1での死亡が予定されていたにも関わらず、ジェシーのキャラクターとアーロン・ポールの演技力は彼を死なせるのは大きな間違いだと制作陣に確信させた。ヴィンス・ギリガンは最初の7話のうちに、思いがけずもジェシーがこのショーの道徳拠点(moral center)であると気付いた。ジェシーはその素朴さと疑問を絶やさぬ性により「二人の悪人のうちの良い人」になっているとし、彼のイノセンスがウォルターの悪影響をどれだけ免れていられるかという問題に取り組んだ。Erik Kainは、ウォルターがますます共感し難い人物へと変化していくにつれ、ジェシーが逆方向に成長して、より人間的で複雑になっていると述べた。Christian Research Journalの記者は、ウォルターとジェシーが同じ悪事に携わりながら、前者が偏狭な相対論的道徳観に拠ってそれらすべてを是認していくのに対し、後者が普遍的道徳規準に反したことに因る多大な精神的苦痛に生きていることに注目し、ジェシーのキャラクターが道徳は個人的都合の問題ではないということを視聴者に思い出させると考えた(なお、ヴィンス・ギリガンはカトリック教徒であり、「cosmic justice」 の存在を信じている)。Alex Hortonは軍人としての戦場経験から、ジェシーやハンクの道徳的損傷に深い共感を示した。WIREDのLaura Hudsonは、ウォルターら作中男性の支持する「男」像がカルテル等に見られるハイパーマスキュリン文化(男らしさを誇示する文化)のそれと同じであることを指摘した上で、ジェシーの内面的特性がステレオタイプの女性像に非常に近いことについて言及した。思いやり豊かで感じやすく、子供を無条件に愛し、暴力を嫌い、人前で涙をこぼす、など――こうした特性は「男」にあってはならなぬ「弱さ」であり、彼らの文化にあっては搾取と支配の対象であることを証すものだとする。彼女はまた、ジェシーをウォルターのwhipping-boy(生贄、身代わり、スケープゴート)と呼んだ。


稲田 豊史という方が最近倍速視聴ネタでバズを飛ばしまくってる 現代ビジネス「映画を早送りで観る理由」シリーズ 友人とも倍速視聴に関しては議論することが多いので読みはしてるが、毎回「的外れな上に人の感情を逆なでしてスパムみたい」という印象を持っている。まあ、でも、青山学院大学の生徒さんにインタビューした結果に基づいているのだから、一部の層ではある程度妥当なんだろう。「大学生にとって「カロリーを使わず経済運転で延々と動画を観る行為」は、TikTokやインスタグラムの「リール(短尺動画がランダムで次々と流れてくるもの)」で慣れっこだ。」って記事の文言を見たりすると、単に昔でいって漫然とテレビを見続ける人となんもかわらない層を取り出して話しているんだろう。それは僕の身の回りの倍速視聴層の像ではない。一方で「大学生が倍速視聴するのは、“貧乏”になったから?」のところとかはロジックがそもそも破綻…というか無い。いろんな安い動画視聴サービスがある時代になった、学生が貧乏になった、そこまでが正しいとして、なぜ倍速視聴しなければならないのか?バイトしなければならないから時間が無くて、でも話題の作品はチェックしておかなければならなくて、と言っているが、それは「話題の作品はチェックしておかなければならなくて」の部分がロジックとして必須で、それが前提なら「とりあえずチェックしておくだけだから倍速視聴する」というロジックで代替できるので貧乏は大した理由ではない。FOMO - Wikipedia の解説でもしておけばいい。なのに、貧乏を理由のように語ったりするのは皆のクリック率を上げるので、まさにスパム性が高い行為だと思う。「「予想もしない展開」は“不快”なのだ。彼女は感情を揺さぶられたくない。なぜなら「疲れる」から。」みたいな話を出してきて、「なるべく感情を使いたくない」なんてタイトルをつけるのも、まさに悪い意味で reflexive な行為だと思う。人を殺せば、血をぶちまければ、人を病気にすれば、別れさせば、いじめれば、それで感情を揺さぶれると思っている。こんなタイトルで苛立ちを誘えばいいと思っている。そんな「くだらない感情の揺さぶり方」が嫌いなだけだ。「上手に」感情を揺さぶられるのは好きだ、むしろ、テキストより映像で見る時の大きなメリットはその感情の揺さぶりにあることは同意するのだから。合気道で投げられた時の気持ちよさにも似ている。こっちが主体的に見るという行為を使って、ストーリーの中で予測させられ裏切られ「なんとー!」ってなったりする。それが気持ちいいのは技をかけるほうが上手いからだ。下手な投げでも投げられろ、それが嫌だなんて視聴者の問題だ?ざけんな。

共感性羞恥とかで再生を止めてみたり、(これは僕はやらないが)演技が尊すぎて「尊い~」って余韻に浸るために止めてみたり、それは鑑賞方法の一つに過ぎない。もし、元のスピードでの視聴が過度に特権的になるならば、すべての表現は実時間で表現されなければならない。前述に登場した友人との議論の中で

十全に理解する暇を与えずに<僕たちを置き去りにしつつ僕たちを強引に引きずっていく>時間の中で生きているという感覚があるほうが「リアル」

だと僕は表現したけれど、そういうリアルを時間的に多様に体験でき、解説により理解を補助できるのもフィクションの良いところであり、メッセージというのは受け取り手を含めて伝わるものなんだから、そこに時間操作の多様さはある程度あるものだ。人間の認識レベルの多様性を無視して、時間のスピードを押し付けるならば、そこは認識が介在しないリアル、つまり実時間のみが特権的になり(まあそんなのはあり得ないと思う)、認識を含んだ表現としての価値を認めるならば、認識様式の多様性について何らかの答えを出さなければならない。そこで「倍速再生じゃないと遅く感じる」という意見について真正面から答えているものを見たことが無い。


なんで、こんな寄り道をしたかというと、そもそも

友人数人に特に理由なくおススメされて見た

という動機で、

1.5倍速で Season 1 をすべてと Season 2 の 3話、あとは最終シーズンの最後3話だけ。

見ていることと、

でも、この説明を見るに、制作者の「スピード」が遅すぎてたいした地点まで至ってないだろうと思う。

なんて理由で切りつつ、

なんというか、いいところが演技とか演出以外に見いだせない作品だった。

って言っちゃってること。それについてある程度説明しておかないと不誠実だと思ったからだ。

業として批評するなら、せめてすべては見ないといけないと思う。それでも等速再生で見る必要は私は感じないけれど。批評が作品の流通に影響を与えるし、その一部としてプロに関わっているならば、変な歪みをもたらすようなことは避けるべきだからだ。変な歪みというのは例えば、毎週やるアニメの場合、最近だと一話、昔だと三話くらいまでで心がつかめなければ切られるという文化があるがそこに2つのデメリットがある

土台を積み重ねてどんどん面白くなっていく大器晩成型の作品に対応できない

悪貨は良貨を駆逐する。作品数が増えて過当競争になると、必然的に早い段階で視聴をやめる視聴者が増えてくる。そのような環境下では大器晩成型の作品は生き残ることは出来ない。大器晩成型でない作品でも、かなり早い段階で視聴者の心をつかむ必要が出てくる。結果として、作品の前半にリソースを割きすぎて、後半に息切れしてしまったりする。

from ○話切りとは (マルワギリとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

こういう問題を助長してしまうので、全部見て語る必要がある。しかし、私は業としてやってるのではないし、ここまでの整理を以て勧めた友人に「僕には合わんかったわー」というつもりである。それで終わるかもしれないし「シーズン〇〇だけでも見て、ジェシーが××するところかきっとイイと思うから」みたいにカスタマイズされたおすすめが得られるかもしれないわけだ。まあ、だから、ツッコミとかは歓迎なのでこういう形で感想をおいておく。

え、倍速視聴の問題の方はって?真っ当な指摘を一つでも持ってくれば考えますよ。限定的なシチュエーションで問題になり得るのは友人との議論でも出てるけれど、一般的に問題になるって立論はまずできないと思うよ。限定的なシチュエーションで僕が例に挙げたことあるのは、スポーツアニメでの反響音。「ハイキュー」とかちゃんと録音していて、そうすると、普段の練習と大会で反響音が変わってて、大会だとより広い会場の空気があるのが伝わってくる。倍速再生でも差異に気づくことはできるが、この「広さ」をちゃんと把握するのに、等倍再生じゃないととは思った、というのがある。


余談。見てるだけで英語の発音が少し綺麗になった気がした。表現で面白かったのは、コインで死体処理か殺人かを選ぶときに殺人の方になったウォルターが「best-two-out-of-three」って言うのね。これは「3回勝負の、先に2勝した方が勝ちの」っていう意味の定型表現で、ゴネてみせている、まあそのゴネが通らなかったのは結果をみればわかるし、まあ通らなさそうってわかるんだけど、このセリフでウォルターは死体処理の方がマシだと思っていたことが伺えるわけだ。で、日本語訳の方は、シンプルに「おめでとう」になっている。コインで表が出たことについておめでとう。思い切った意訳だね。


この話を書いている途中、 cosmic justice が出てきた。元ネタは The Quest for Cosmic Justice | Hoover Institution これだろう。正義を不公平の是正と捉え、法の運用のように正しい手続きを重視する伝統的な正義、SJWなどで問題視される社会的正義、そしてこの小論で述べられている宇宙正義の3つを対比させながら説明している。このなかで社会的正義はあるコストを無視することで反社会正義にもなり果てていると批判している。なんども登場する例として、犯罪の多い地域へのピザの配達ができないというのはけしからん、配達において地域を制限するなというものである。これは一つの不公平を解決するが、ドライバーの身体的安全などのコストを考えておらず、別様の反社会性を持ってしまっているので、反社会的正義になっているということだ。確かに多くの社会的正義にはそういう側面がある。宇宙正義は、そういうありとあらゆる人の不平等を考えた正義だという。ただし、実現可能性の面では他2つの正義にも劣るので、宇宙正義を犬と肉の寓話のような欲張りな正義になり得てしまうとしている。Breaking Bad で宇宙正義が描かれてたようには思わないけれど、伝統的正義に反したときに、そこの苦しみからジェシーが道徳を立ち上げているのならばそれは見るに値したかもね。