Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

語り得ぬことの輪郭

昼食でハーバードの目の前の「山頭火」でラーメンを食べた。東アジア研究者Pさんが「こっちのラーメンはまずい」と言ったので、検証してみようと思い立ったのだ。

  • スープの旨味が少ないこと
  • 添えられた野菜が薄めの葉物野菜であり苦みが際立ってしまうこと
  • 油っぽさが強く感じられること

が悪い部分で、

  • 分厚いがとろけるようなチャーシュー

は日本より良かった。総評としてそんなに批判するほどではなかったと感じた。同僚が「そんなに悪くなかったよ」とPさんに伝えたところ、「(日本人の)妻がこっちのラーメンは不味いと言っているので、それに同調してる部分もあるかも」とのこと。まあそれも Yet another 同調かもしれないけどね。


その昼食の時に、中国を対象とした研究について博士号を取得したばかりの学生に対して、同僚がアドバイスをしていて、なるほどと思ったのが、自由に写真が撮れずや文章が書けない国についての語りの偏りについて。

それはつまり、社会主義的な規制による部分や、識字率についての部分など、つまり表現の背景にある広義の資本がその偏りを生み出し、歴史研究をするときにはその偏りが語りの限界を生むということ。

そこで思い出したのが冒頭に張ったウィトゲンシュタインネタ。どうやったら、なんのために、語り得ぬことの輪郭を得ることができるだろうか。

そもそもこの論題は、語り得る/語り得ぬのバイナリ―ではない。何かを「語る」ということは、(誤解を含めた)コミュニケーションのなかで相互理解のメタ認知が得られることを指す。その相互理解のメタ認知はコミュニケーションの参加者それぞれで共有される部分が微妙に異なり、ぼやっとした相互理解の全体像が生まれる。正確性についても、事実性への信頼基盤=Plausibilityの認知基盤が社会で均一に保持されているわけではないため、ぼやっとした事実性評価の全体像が生まれる。輪郭は線ではなくグラデーションである。

三宅教授をはじめとして、「間」を研究している人たちのその「間」という概念にも通じるところがある。このグラデーションを描くことというのが、輪郭を得ることになるのではないかという直観を得た。

では何のために描くのだろうか。それは全体像をつかみたいという飽くなき研究者的探求心から来ており、「全体像」をつかむことが事実性への信頼基盤の醸成にもつながるだろう。でも一方でこれは矛盾していて、全体像など常につかみ得ないのだ。画一的な全体像などない。それがグラデーションを生み、輪郭を描き出す方法を支えるのだから。その描き出す活動自体が相互理解を作り、そこにすでにある相互理解が語り得る「全体像」なのだ。

この直観とウィトゲンシュタインの言ったこととの間の距離は近いと思うけれども、表面的には逆のことと言っている。つまり、間を語らないことによってはっきりと輪郭が見えると、上の漫画はそう言っている。そこはまあ、後期ウィトゲンシュタインをちゃんと読んでから考える。


追記:ちょうどたまたま(?)「社会調査とか歴史的資料を読むことですら根元的解釈から大きくかけ離れた(すでに非常に多くの事柄がお互いにわかっている上で可能となるやりとり)営みだ」という記述をけんさんのブログで見かけたので、上の文脈で考えると、

  • 多くの事柄がお互いにわかっている
  • 「多くの事柄がお互いにわかっている」とわかっている

は別で、後者は特に前提とされないし、それを先行させることはできないことが多い。で、「多くの事柄がお互いにわかっている」ことはコミュニケーションが成功裏に繰り返されて初めて明らかになる(=「多くの事柄がお互いにわかっている」とわかる)。でも、後者がすでに満たされているならば、コミュニケーションは円滑に行く(デイヴィッドソンの信念と意味とコミュニケーションの3項補完の話)。

ここでの信念のコミュニケーション前存在をあまりに重視することが、3項のうち1項を固定しているような印象をうける。もちろん、個々のコミュニケーションよりそれを可能にするシステムの方が相対的に Static なんだけれど、コミュニケーションの中で訂正・再構築されるべき部分もけっこうある。

デイヴィッドソンの言う「寛容の原理」というのは僕の理解では、コミュニケーションの成立が危ぶまれる場合、信念と意味の2項について肯定的な前提を一旦持ち込むことで(See: デフォルト推論@非単調論理 - Wikipedia)、コミュニケーションが成立し、信念と意味も確定しうるということを言っている。事実として信念が事前に共有されているなどということは言っていない。

ここでいう信念と、規範の関係について私見を述べると、信念のうち、中程度に Static なものが規範とされる。存在概念の存在などは重度に Static な信念であり、○○人が○○という特徴を持つことは軽度に Static な信念である(いまさらだが、ここでの「信念」は術語です。cf. 信念更新)。

そして、僕が毎回繰り返し言っているのは、規範の役割を(寛容の原理のようなメタな方法さえ持ち込まずに具体的に何か世界で単一で画一的な規範があるというかのように)拡大運用することで、コミュニケーションは失敗し、信念の更新も滞り、ただ規範を元から共有している人たちだけにコミュニティが縮小していく一方で、世界に断絶を生むと言っている。

ちなみに、デイヴィッドソンについては清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳『主観的、間主観的、客観的』を昔流し読んだだけなので誤解があるかもしれない。