もう結婚しとるんに、なんでこんな番組をわざわざTVerで睡眠時間削ってみたのかわからんが、せめてメモを残しておく。番組の感想は2割ほどしかないのではないか笑
神名言連発!崖っぷち男女12人の恋の行方は! | TVer 2泊3日で男側女側セコンドがアドバイスをしながら婚活パーティー合宿をするという構成。実際はもう少し長めにロケしてそうな気もするけれど。また、メインの視聴者ターゲットは婚活で失敗して悩んでいる30代後半女性で、その立場の女性が成長して年収学歴人柄はいいが女性慣れしていない男性とのマッチングに成功するのを中心ストーリーに据えていた。全体的に男女とも(演技が強く)どんだけコミュ障やねんって感じではあったので僕は全然感情移入はしなくって、どういうふうに描かれて、それがどういうふうに消費されて Twitter 上での呟きにつながっているか、などに興味があった。
いきなり話が飛ぶが、先週の出張で、オランダはコスモポリニズムの極致だなと感じることが多かった、つまり、ジェンダーについても人種問題についても欧州の理想がここにあると感じた。そして、ほぼ最終日の朝、街を歩いていたら、ホームレスの男性に声をかけられて、素敵な街を早足で歩きながら神と愛とセックスについて話しつづけるというbefore sun***シリーズっぽいことをしたのだが、彼はそのコスモポリタニズムに取り残された「弱者男性」だった。別にこの認識を恥じるつもりはないし、彼にわざわざそういうレッテルは伝えなかったものの、傲慢にも、「あなたと神との絆は、あなたが社会に向けている男女論を中心とした規範から離れた個々の他者性の捉え直しで強くなる(要約)」という説教をたれて、なんか感謝されて、最後、お互いに「一期一会だがいい時間だった、お互いに良き人生を」と言い合って固い握手をして別れたのだが、この世にどんどんと溢れている「人間嫌い」に僕は我慢がならなくて、そんなことをいちいちして、自己満足に浸っているのだと思う。昔でいうと、仲人をやっているおせっかいおばさんみたいなメンタリティを抱えているんだと思う。でも、別に、妙齢の男女をくっつけたいだけではなく、人間同士がもっとちゃんと社会をやって欲しいから、シェアハウスや寮に住んだり、トルコで少しの空き時間ができたらバスから建築物を眺めるフリーツアーに行くのを断って一人で田舎町に出向いて、手振り身振りで人と関わろうとする。ただ、その一環として、恋愛や結婚にまつわる人のコミュニケーションについての興味というのがライフワークと化してしまっているのだと思う。
33分ごろのところで、「あんまり正解ないんだって」ってイッセイが言われているシーン、少しわかりにくいが、自分の行動がまわりにどう見えているかの自覚を促しているところで、なにか間違ったことをしていると言われてると思って、「選択肢が間違っているのか、それとも…」と正解を探すフレーミングをしているところをツッコまれている。これはかなり本質的で、マッチングというのは、相手と自分の、現状と理想を、環境を含めて捉えれば自ずと答えはでるという側面があるのだけれど、一方でそこに「理想」という変数が含まれている以上、正解は演繹されるものではなく、作られる(必ずしも、ではないが、アブダクションに近いと思う)ものである。どういう質問が結婚につながるとセコンドたちに評されているかを観察すると、単にプライベートなことというのではなく、どんな結婚生活をしたいかということで、それは理想状態である。当然のことのようだけど、その理想は、ある程度は人格的に幅が決まっていて、そこからその場の判断や相手に合わせて調整の余地があるという形をとる。相手に求めるスペックを固定しすぎているというその思い込みなどは、「正解」が強くある社会で育ってきたからであり、その正解とは、2007年にKYが流行語になったように、空気なり規範なりはこの20年加速的に強くなってきていて、それへの反動と共犯関係で逆に社会を壊してもいる。
「ソーシャルメディアを見ている人とマスメディアを見ている人でわかりあえない。分断の時代だ」という人には、ぜひ、昭和の政治学者・丸山眞男の言葉を思い出してほしいです。 「俺はコーヒーがすきだという主張と俺は紅茶がすきだという主張との間にはコーヒーと紅茶の優劣についてのディスカッションが成立する余地はない。論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである。自己内対話は、自分のきらいなものを自分の精神のなかに位置づけ、あたかもそれがすきであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然的自我と対話することである。他在において認識するとはそういうことだ」-自己内対話 これ、僕の1000個ぐらいある座右の銘のひとつなんですよね。まずは、自分と違う人がなぜ、そういう風に考えているのかを想像し、聞いてみる。 座右の銘多すぎて、記憶力の大半を使い切ってるのが悩み。
— 古田大輔 / Daisuke Furuta (@masurakusuo) November 19, 2024
61分のところで、ハルニャンが言われたことが嫌だったと伝えるシーン、その前のアドバイスのシーンではちゃんとそもそも容姿への言及自体が肯定的であっても失礼になりうるから基本的には避けるべきという現代的規範を確認しつつ、男性側のキャプションに「デリカシーに欠ける」と書き、女性側の捉え方の問題にせず、それでも、もし一筋の光があるならば、シャッターをせず、嫌だったと伝えてみて反応を見てみては、という流れになっていて、丁寧。これがまさに、「幅」の中での時間方向での調整の実践様式になっている。
2点ほど褒めたので、あとは批判的なことを少し書いて、寝る。「推しの子」で描かれたことでリアリティショーのリアリティさに関する世の中のリテラシーは飛躍的に高まったと思っているけれど、「(演技が強く)どんだけコミュ障やねんって感じ」がメインストーリーには強すぎた。話せなくなってセコンド呼ぶところとか、いつも笑顔で姉さんポジにシフトとか言いながらクヨクヨ泣いてばかりいるの映されるの「何なの?」としか思わなかった。これは、女優さんの問題ではなく、演出の問題で、でもTwitterではそこは完全肯定的な人が多かったので、ちゃんと刺したい人を刺していたことになる。じゃあ、僕の批判はそれも踏まえると何を言ってることになるかというと、みんな、健気に素直に自分からのアプローチをしっかりすればいいというストーリーを信じたがっていて、その背中を押していて、根本強い女性になろうという覚悟がない。そりゃ男性もそれを求めるのは少数派だろうから、何も間違ってはいないのだけれど、結局「守ってあげたくなる女」とそれを「守る男」、それと両立した表の言葉上の「私が強く年上として支える」という構図、「関白宣言」を逆にしただけの男女共に人間としての強さが無さすぎる。だから、選ばれた相手も、それにピッタリな役になっている。
仲人の人が「絶対に柔軟性は必要だし、絶対何を言われても我が道を行く方はうまくいかない」というツイートをしていて、それは正しいんだけれど、あのセコンドを呼ぶ演出やラストのあまり紹介されなかった女優が、セコンドの必要性を川柳で詠んだところだけ出演させてもらえているところとか、これがアドバイス付きのコースを用意している婚活プラットフォーム Pairs でメンバー募集かかってた案件であるところとか、マッチングアプリはゴールさせずにマッチングさせ続けることが利益最大化になるという構造的問題と同様、婚活アドバイス産業はアドバイスの意義を見せつけないと儲からず、これは自分たちで結婚生活を試行錯誤していける強さとは相反する側面がある。
カップルセラピーはこの10年(特にアメリカで)伸びた https://t.co/yJlWTv9mbG けれど、そういうプライベートな問題を話せる場として程よくheterogeneousな飲み会や井戸端やタバコ部屋が消えていったのは一つメタな問題なんだろうなと思った。
— KAMEDA, N. Akihiro (@cm3) October 18, 2024
もちろん、付き合ったり結婚したりしていても、友人やセラピーに相談するという選択肢があるべきだけれど、それがうまく機能するような環境にはまだまだなっていない。基本、自分たちでやっていく強さが必要で、その現代の(特に欧州的な)規範と整合的に、つまり自立した個人という理想が行き着いた先を前提とした強さを持った関係を示すには、あまりに日本の男女の現状やとりまく産業の都合がかけ離れすぎていて、結果的にちょっと毒も含んだものを示してしまっているというのがよくなかったところ。
じゃあ日本で可能な代替像といえば、アスペっぽい二人がなんとか噛み合わさるというのがアニメとかでよく提示されていて、でもそれは「若いから可能」という側面があるために30代後半には提示できない。逃げ恥とか原作がしっかりしていると、特殊例一個一個は示せる。でもあんな出会いはまずない。だから、愛や恋愛や結婚については別のメディアで学んで、マッチングアプリや結婚相談所の使い方としてあの番組を見るのはアリだったんじゃないかな。リアリティーショーとしては何が面白いのか僕はわからないし、あの中で愛や恋愛や結婚について学ぶのは超初心者かメタに見れる傍観者でしかないと思う。学べておもしろーいと思っちゃったら、当分結婚は遠いかもね。