Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

メルロポンティ再挑戦してみた

「挑戦」って言葉を使っているのは、

とか書いてた通り、鷲田 清一: メルロ=ポンティ (現代思想の冒険者たちSelect) を読んでマジでわからんかったという印象があったからで、友人に「メルロポンティがわからんなんてショック…」とか言われてある程度解説してくれることも約束してくれたので、再挑戦してみようと思ったのだ。加賀野井 秀一: メルロ=ポンティ 触発する思想 (哲学の現代を読む) を読んで、この本はシリーズとして 、

哲学者の些末な障害など、きれいサッパリ切り捨てて、直接、テクストの「読み」から出発する

というポリシーがあるにも関わらず、次のメルロポンティ自身の言葉を引きながら、彼の思想を生涯から切り離すのは難しいとして彼自身にもフォーカスしながら書かれている。

この場合、〔歴史なら〕歴史というものを、イデオロギーから出発して了解すべきであろうか。それとも政治から、それとも宗教から、それとも経済から出発して了解すべきであろうか。また〔一つの学説なら〕学説というものを、その表明された内容から了解すべきであろうか。それとも著者の心理や彼の生活上の出来事から了解すべきであろうか。ほんとうは、同時にあらゆる仕方で了解せねばなあらぬのであって、すべてが一つの意味をもっており、われわれはすべての諸関係のもとに同一の存在構造を見出すのである。以上に挙げたどの見方も、それらをバラバラにしてしまうのでなければ、また、歴史の根柢まで降り下って各展望の中に顕在化されている実存的意味の独自の核に到りつきさえすれば、すべてが真実なのである。

from p.24 、元は『知覚の現象学』1ー1967年翻訳本ⅩⅣページ。このことには半分同意するが半分同意しない。つまり、メルロポンティ研究をするのならばこの態度は正しいだろう。しかし、僕はその成果からくる、「ある程度彼を理解した」と思っている人たちの理解の平均が得たい、今回においては少しわかったら良いのであって、さして彼に興味があるわけではない。一方で、それぞれの著作の成立背景ぐらいは読み解きに役立つ。『見えるものと見えないもの』はもともと遺稿であって、グザヴィエ・ティリエット(Xavier Tilliette) が「メルロ=ポンティが教育と研究とを厳密に区別していたという事実、彼が確実な成果を提示しようとし、自分のひそかな準備作業に他人を巻き込むのを好まなかったという事実」から、これが出版されたものと文体を大きく異にすることになったと解しているように、それまでの著作とは違い、説明がまとまっておらず、独自用語だらけで、よりポエティックらしい(p.266)。僕が理解できないとツイートしていた炸裂や肉の話などはこの作品にでてくるので、そもそも理解は後回しで良いと思える。「裏返しになった手袋の指」などという僕をメルロポンティアレルギーにした手袋メタファーもここに出てくるのだ。

以下、いくつかメモを小項目に分けて書く。

キリスト教ルサンチマン」の話は無視でいい気がする。

初めの論文「キリスト教ルサンチマン」において、ニーチェの『道徳の系譜』の話をマクス・シェーラーを援用して、「意識に現れるすべてのものが生理的かつ生命的な因果性の直接的あるいは間接的な産物であると認めることは、根拠のない公準に過ぎない」(p.56)と言っているが、これ自体はそもそも「『道徳の系譜』はそんな話だったっけ?」とも思うしピンとこないということに友人も同意してくれ、この本では、『行動の構造』の解説のところで

革命の減少や自殺行為が、人類にしかないものだということは、しばしば指摘されてきた。それは、両方とも、与えられた環境を拒否し、環境全体を越えたところに平衡を求めようとする能力を前提とするからである。かの周知の保存本能という概念は、これまでかなり濫用されてきたけれども、そういう本能は、人間においては、おそらく病気とか疲労の場合にしか出現しないものであろう。健康な人間は、生きることを求め、世界における、また世界の彼岸の或る対象に到達することを求めるのであって、自己の保存を望むものではない。

という1964年翻訳本262ページを引いてきて、

本来、健康な人間は、高い統合度を実現しており、自己保存のみに汲々とすることはなく、時には自己犠牲すら厭わず、彼岸的価値を求めることもある…。いかがだろう。これはまさに、あの「キリスト教ルサンチマン」で展開されていたニーチェ批判を髣髴とさせるものではあるまいか。

(p.99)と言っているけれど、ニーチェの術語としての健康概念と、メルロポンティの一般的な健康概念を混同して考えてるように見えてしまう。私なりに整理しておくと、ニーチェルサンチマンにとらわれたような病的な状態がキリスト教道徳のもとになっているのではと言っていて、メルロポンティは、健康な人間ほどキリスト教道徳のような道徳を持ちうると言っているから反対だと考えられるという話のようだが、ここの健康/病の区分けが異なっているので批判になっていないというわけだ。

道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的となり、価値を生み出すことから始まる。[...]あらゆる貴族道徳は自己自身への勝ち誇れる肯定(Ja-sagen)から生まれ出るのに対して、奴隷道徳は始めから〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉に向かって否(Nein)と言う。この否こそが、その[奴隷道徳の]創造的行為なのだ。(KSA, 5, S. 270f.)

―私は一つの原理を定式で表わす。道徳におけるあらゆる自然主義、言いかえれば、あらゆる健康な道徳は、生の本能によって統治されている[...]。反自然的道徳、言いかえれば、これまで教えられ、敬われ、説かれてきたほとんどあらゆる道徳は、逆にまさしく生の本能に背いている、―それはこの本能をときにはひそかに、ときには厚かましく断罪している。(KSA, 6, S. 85.)

ニーチェにおける道徳批判:欲望と理性の関係 から孫引きしておくとこんな感じなんだから。

双方向性および図-地構造

『行動の構造』から『見えるものと見えないもの』に至るまで頻出の概念は知覚が双方向的に生じるものであるというコトである。

たとえば私の右手が私の左手に触れるとき、私は左手を「物理的な物」として感ずるが、しかし同時に、私がその気になれば、まさしく、私の左手もまた私の右手を感じはじめる

from p.273 『シーニュ』2ー1970翻訳本14-15ページ

青色は、私に或るまなざし方を求めるところのものであり、私のまなざしを一定の運動によって触れてみることのきるものである。それは私の眼と能力、そして私の前身の能力に差し出される或る領野もしくは或る雰囲気なのである。

from p.277 『知覚の現象学』2ー1974翻訳本13ページ

たとえば、あの有名な「ルービンの盃」を考えてみよう。古典的反射学説からすれば、対象から与えられる刺激は同じはずなのに、私たちはそこに「盃」を見ることもできれば、「向かい合った二つの顔」を見ることもできる。つまり主観は対象によって一義的に決定されてはいないのだ。けれども、そうかと言って私たちは、この図の中に馬や羊の姿を勝手に見て取ることはできない。つまり、主観が対象によって制約されていることもまた真実なのである。

from p.82-83

すでにルービンの盃の話で一部みてとれるが、これらの双方向性にはいくつかのやりかたで説明できる「構造」が介在している。手と机の方向性について、

もちろんここで論じられているのはアナクロニックな物活論ではあり得ない。

p.276 といっているが、メルロポンティは物活論っぽさがそこかしこにあるんだよなぁ。それが嫌い。

ゲシュタルト

私たちは点的な刺激をバラバラに受け取るのではなく、刺激はすでに、ある一つの「形態(ゲシュタルト)」として私たちに働きかけてくるのではないか。そしてこのゲシュタルトこそが、ベルクソン流に言えば、「意識への直接与件」なのではあるまいか…資料を参照すればするほど、メルロ=ポンティにはそう思われてきたのである。

たとえば、ある唄を耳にするような時、私たちは、高度に訓練された音楽家でもないかぎり、決してそれを正確な音階として記憶するわけではないだろう。個々の音よりも前に、まずは、全体的なゲシュタルトがある。だからこそ私たちは、たとえ正確な音程はとれずとも、おおよそのメロディーを再現することができるのではないか。

p.78-79

このゲシュタルトの統合度について 物理的秩序/生命的秩序/人間的秩序、癒合的形態/可換的形態/象徴的形態といった区分けを用いて『行動の構造』の中で体系化しているがあまり参照するに値する概念ではないと思ったので割愛する。それらの説明は上記からp.96くらいにかけて説明されている。

<内部地平と外部地平>

こうした「地平」は、『経験と判断』あたりになれば、フッサールによってさらにはっきりと「内部地平」と「外部地平」として表現されるようになるが、いずれ基本的な発想は変わらない。難破船を規準とすれば、その「帆柱」、「帆柱に刻まれた文様」、「文様に彩色された塗料」…といった系列が内部地平、難破船を取り囲む「砂丘」や「森」、そのすべてを含む「渚」、渚を含む「海岸」、さらには、その海岸をも含む「ランド地方」…といった系列が外部地平となるだろう。つまりここでは、ある知覚対象を出発点として、その内部にも外部にも無限に探索の目を向けることができるという地平構造が語られているのであり、究極のところ、あらゆる地平を包括する地平は、この世界の全体、フッサール言うところの「生世界 Lebenswelt」となるわけである。

p.124-125

この2つの構造は黒板にチョークで書いた〇が〇としてどう認識されるかとか考えるとシンプルで分かりやすいと、僕は思っている。

<図ー地 構造>

それはちょうど、カメラのファインダーを覗きながら、あちらこちらに焦点を合わせるようなもので、「図」と「地」は互いに移行し合いながら、浮かび上がったり沈み込んだりするのである。

知覚とは、このように「図」と「地」の双面をともなう行為なのであって、「図」のみに直接対応するものではあり得ない。「図」が「図」として存在するのは「地」あればこそ。「図」も、その「図」の「意味」も、ひいてはそれらがこぞって指し示す「事物」の存在も、すべては「地」という他なるものを経由して初めて到達されることになるわけだ。これを「差異化作用」と呼んでみてもよろしかろうし、そこに「間接的存在論」の萌芽を感じ取るのもよろしかろう。

p.120

自己の身体とは、図と地という構造にいつも暗々裡に想定されている第三の項なのだ。

p.130 『知覚の現象学』1ー1967翻訳本176ページ。

手袋再訪

可逆性(reversibilite)

手袋を裏返すと、指先の何もなかった空間に裏返された手袋が存在する。つまり手袋の意味は、手袋の表裏が密着した折り返し点に生成している。あらゆる物事は、内と外が接し織りなす、リヴァーシブルな「襞」にしか存在しないのだ――。これがメルロ=ポンティの「可逆性」である。意識でも物体でもない存在として人間をとらえる「両義性」の思考を、両者の相互交流という視点から深めることで到達したこの考え方により、存在論のあらたな地平は切り拓かれた。そして哲学的反省は閉じた系として完結することを禁じられ、現象学のアクチュアリティは無限に拡大する。

手袋の話はルービンの盃と同じだ、と友人が言ってくれたので、そこは分かった。内と外が云々というのはメルロ=ポンティではなくフッサールの方で<内部地平と外部地平>の話で僕は理解できた。意識でも物体でもない存在として人間をとらえる「両義性」については、あまり深く言及しなかったゲシュタルトの統合度の話で理解できた。まあ、なんとなく再挑戦に値するだけの成果が得られたのではないだろうか。


ここまで触れた章で全体の1/2で、『ヒューマニズムとテロル』から『弁証法の冒険』へ、『シーニュ』、『眼と精神』については図書館で借りた本の返却期限にて時間切れで読んでいない。ところどころフランス語カタカナ読みでルビがふってあって、たとえば「一歩一歩(パザパ)」といった具合で、それを pas à pas と変換し「駆け足――ジャック・デリダにおける脱構築と政治の速度 」みたいな文書にたどり着いて文脈を知るといった感じで、元々デリダを知っていたら分かるとかはあるんだろう。僕はデリダも避け気味。p.120 の「差異化作用」の言及とかはソシュールかとか、そういうのも知ってればわかるね。

ゲシュタルト心理学については 57歳で博士号を取得して、日本語学界に多大な影響を与えた男【三上章2】#100 - YouTube で、エドワード・サピア(Edward Sapir, 1884年1月26日 - 1939年2月4日)や三上 章(みかみ あきら、1903年1月26日 - 1971年9月16日)も触れていたという話が挙げられているが、20世紀初頭、本当に多大な影響力を持っていたことが分かる。


遺稿以外を理解したと思ったら、欲が出て、遺稿についても再挑戦してしまった。<肉>の存在について : メルロ=ポンティ後期哲学における「可逆性」の意味 : HUSCAP後期メルロ=ポンティ哲学における可逆性と他性を通読した。

まず初めに思ったことは、やはり遺稿は遺稿以外をベースに理解されなければならないということだった。つまり、前者の論文で再検討されている他者やコップの両義性は、上の双方向性の話から、ほぼ一歩も出ていないとさえいえる。コップはゲシュタルト統合度においても、他者は少なくともその他者性によって、ある種のたどりつけなさがある。その「たどりつけなさ」をこの論文では「同一ではない」と表現している(p.209 「私の手が他者に触れられると他者が私に触れるとは、可逆的だとしても、同一のことではないのである。」)が、ならば可逆(réversibilité)なんて言葉がそもそもミスリーディングだし、右手と左手という直観的にも可逆な例を代表にしているのもミスリーディングだ。

後者の論文では「メルロ=ポンティの哲学には他者の他性の観点が欠けているとは、多くの論者の指摘するところである。」(p.276)なんて言われてるし、 真に何を意味しようとしていたかはさておき、少なくとも適切な言葉選びではない。 「常に切迫 (imminente ) してはいるが、事実上決して実現されない可逆性が重要なのである。」 (p.277からの孫引き)と言っているが、その実現されなさに関する説明はほとんど完成されていなかったそうだ。冒頭私のツイートで図示したように、双方向の図と地が生まれる前の状態として<肉>(chair)が想定され、それが裂けて(éclatement)図と地が生まれる。「他性は二項関係の外部に、「第三項」として出現しするのではない。むしろ他性とは、可逆性の切迫によって、まさに二項関係そのものを炸裂させ、瓦解させるものである。」(p.285)とあるのは半分同意する。同意しない半分を説明すると、他性が<肉>を裂くのではなく、それが無意識であるにせよ、認識が<肉>を裂き、他性を生むのではないかと思う。それでは、デカルトに逆戻りじゃないかという言われそうな気もするが、認識に存在が必要であることはその通りで、その主体-認識-対象は atomic*1であって、主体は主体と呼ぶに値せず、対象は対象と呼ぶに値しない。それが atomic であるからこそ、対象を対象として取り出そうとするときには三角測量のようなテクニックが必要なのである。

*1:それ以上分割できない最小の単位、という意味で使っているが、あまり一般的な英語の用法じゃないらしい…。individual も違うし、indecomposable も直既約としてよく使うし、…日本語で最小単位とでもしておけばよかったか。