今週のお題「バレンタインデー」
永遠の厨二病を名乗っているのだから、心置きなくポエムを垂れ流せばよいのだが、齢30を越してなかなか恥ずかしいと思ってしまうあたり悟りが足らないのだと思う。何かといえば、Twitter では飽き足らず、長文のポエムを数ヵ月に一度ここに吐き出さないと、心が落ち着かないということだ。ここひと月は、翻訳という趣味を見つけて抑えていたが、いよいよ我慢ならなくなった。
我慢ならなくなった、と書けば、何かそれだけ溜め込んでいることがあるのであろうと思われるかもしれないが、書きたいことがあればなるべく端的に書きたいと思う質である。それでも冗長になったりするが、少なくともこの記事のような冗長な出だしはとらない。たぶん、「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり」とでも Twitter で呟けばそれで十分な話なので、以下に続く文章は、それ以上の内容にはならない。そもそも、今、人に読まれる文章を書く気はない。
さて、バレンタインデー、である。
一週間前から fondant au chocolat にハマり、つい先ほども、弟が彼女に持っていく分を作るということで、レシピを教えたばかりだ。少しチョコ感に拘りすぎて、小麦粉不足だった気がする。大学に入って一年目に、Gâteau au chocolat を作って配って以来、バレンタインデーというものはチョコと愛の祭典の一つとして楽しんでいたが、義理チョコ文化も特に否定はしない。義理チョコは虚礼に相当するから受け渡されたチョコはすべて本命とみなす、というアイデアが賞賛されているのをネット上で見たが、そうお達しが出たところで僕ならば喜んで会った人達に配るだろう。
お土産などもそうだ。研究会にお土産を持っていくことや、他人の家にお土産を持っていくことも、「そういうものだから」しているのではない。みんなが各地から持って集まるお土産を食べることが好きでありその同好の志としてやっているだとか、その家にお邪魔する理由を間違えて捉えられたくないからとか、なんらか内発的な動機があってしている。京都という郷に従うことを意識している最近は、「そういうものだから」する、ということも多分に身についた気がするが、ある人に配るけれどある人に配らないというのが差異としてメッセージになるだとか、そんなものはもともとクソくらえと思っている。だが、それで済む人というのは多くなくて、大抵は世の中に雁字搦めにされていて、義理チョコ本命ルールのようなものをみんなに押し付けることで、自分も逃れようとするのか、と邪推している。
分からなくはない。今この文章を書いている動機の多くは、その雁字搦めにある。好きなことを好きなようにやっていたはずが、いつか、雁字搦めの網の中にいて、ただすべての仕事が雑用に思え、すべての人に対して恐怖し、すべての時間について節約のみを考えている。こんな馬鹿げた状況はとっとと抜け出たい。余裕がなくなった、確かにそうだ。じゃあその余裕の出どころはと問われれば、結局こころもちが大半なのである。どこかで道を間違えたのではないか、とも思う。もう邪推する立場ではなく、そう推し量られる側に立っているんだと思う。過去の自分の視線が痛い。永遠の厨二病ってのも単なる認識だったのが、「腹にくくった一本の槍」みたいな扱いになってしまうと、ただ辛くなる。
今年の書初めは「泰然」と書いた。もう、この傾向は1年ほど続いているのだから、さすがにどうにかしようと思ったわけである。20年ぶりくらいの類似抱負だ。1995年の抱負は、「心のコントロール」だった。きっかけは、怒られたり怒ったりした時に、感情が無用に昂ってしまうために適切な対処が取れないことに苛立ちを感じた事だけれど、なんで覚えているかと言えば、その年には阪神大震災があり、夢から揺り起こされて得も言われぬ恐怖に陥り、枕元に落ちて割れたウサギの置物に心を痛めながら、その危ない状況で「動かない」という間違った指示を妹に出してしまったのは心のコントロールができていなかったからだと新年早々に反省したからだ。まあ、この大層な描写に反してたかが震度5だったので結果は大丈夫だったのだが。
なんでこんな基本的なことを再訪しなければならなくなったかというと、他者や環境に潰されるというより、自滅する部分が大きくなったからだと思う。
…とりあえず寝る。