Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

Mac であるホストのページを再現

手元にWebページのソース一式があるが、元のドメインの支配権を持っていない場合に、それを再現する方法 (前職の教授退官に伴って閉鎖されたサイトがあり、前職の仕事をプレゼンする時に急遽必要になったテク)

sudo nano /private/etc/hosts して(Macの場合。Windowsの場合も hosts 相当のファイルがあったと思う)

127.0.0.1       当該のドメイン

を追記し、Webページのソースのトップで

http-server -p 80

すればいい。

個人的なMacの設定一覧

人生初Mac生活を3月からやっているのだけどものすごく設定の量が多いので、まとめておくことにした、随時加筆中

覚えておくこと

特殊キー

  • \ は opt + ¥

充電コード

Macbook Air は 30W〜70W。それより低かったり高かったりするワット数でも充電できなくはない。高いワット数でも急速に充電できるわけではなさそう。opt+🍎で「システム情報」から電源の情報が見れるが実際にどのくらいのワット数で充電しているかはわからない(参考: M2 MacBook AirのMagSafe充電は最大70W程度まで。実機で検証してみた)MagSafe 3 を使った方が早いのかも不明。

Word

  • 置換のショートカットキーは Shift + Command + H

Preview

  • 画像閲覧はスペースキーで、その後矢印キーでフォルダ内の画像の配列上下左右を移動しながら見れる
  • クロップは cmd + K

RADのラップの音程について

R僕は知識があるのはクラシックが少々といったところで、今のシェアハウスにはミリオンヒットを出した音楽家とかもいる中でジャズやポップスの演奏を合わせるとなるともう絶望的に劣等生であり、ラップに至ってはたぶん似合わないと思われがち(まあ「優等生」タイプは基本そうなりがちだ)で、実際あまり歌うことは無かった。ただ、昔のRADWIMPSはけっこう好きで、最近その趣味が共通する人とカラオケすることがあるから、ちょっと復習してて、RADの曲にはそれなりにラップ的な要素が含まれることが多く、気づいたことをメモしておこうと思った。このブログで音楽ネタはそれなりに取り上げてるし、カラオケネタも初めてではない(中国語の歌を勉強する - Drafts)が、いつもにも増して、苦手なものを我流知識で力づくなんとかしてるような記事なので、ツッコミ歓迎。

ラップ一般についてググると、音程なんてないと言ってる意見とか我流でメロディー型とオクターブ上下型とか分類した記事とかいろいろ見つかるが、絶対音感持ちからすると、音程が無いってことはなくて、微分音相当の音が入り込むことや意図的に使われることはあるだろうが、とりあえず楽譜に起こすことはできる。そしてこぶしとかそういう装飾の技法での説明を付加すれば、基本の方はだいたい12音の音階に乗る。さらにいうと、1音か2音メインの音が決められていることが多く、そのどちらかは1,3,5度のどれかを選んでいることが多い、つまりあまり奇を衒っていることは多くない。そして、ボカロから来ている音の詰め込みのみに特徴をもつもの(これをラップと称するか難しいし、まあその音程的リズム的抑揚のなさをそのラップの特徴として捉えることもできる)でなければ、大抵はリズムがメインであり、リズムと限られた音程の絡みが非常に重要である。

さて、RADの場合、ライブ映像とかを見ていると音程を変えていることが多いが、まったくの不規則ではない。カラオケでメロディー音をONにして聞くとCD音源とも一致しないことも多い(参考:カラオケで、一部分を原曲と間違ったメロディで覚えてしまい、原曲を何回... - Yahoo!知恵袋 たぶん間違えているのだろう。あまりに間違えていると報告することもできる)ので、カラオケの点数やMiss判定はあまり気にしすぎてはいけない。DAMのカラオケアプリで「なんちって」のラストラップ2周目は以下のようになっている(私による採譜)

しかし、以下の音源ではこの初めの一小節の上がり方が異なるのは自明だろう

そして以下のライブバージョンではそもそも2周目で音を徐々に上げるという演出をしていない

ここ以外の個所も、カラオケアプリの音程はかなりめちゃくちゃに聞こえるし、そこは自分の耳を信じるしかないだろう。ちょっと批判的言及と捉えられかねないのでリンクを控えるが、YouTubeでピアノで弾いている2つも捨象してるか自分なりのアレンジとして作っているかであって正確な音程ではない。でも、本人たちがライブで異なった演出をしているように「正確さ」は本質ではないのだ。じゃあ、音程を捉えるのに何が必要なんだろうか?ラップの音程のゲシュタルトはどこにあるのか。

まず、先ほどの音程を徐々にあげていくみたいな演出はこぶしと同様、演出の型として捉える。その演出の中でも何拍目で音を上げるかということは重要で、一小節目は(8ビートで捉えて)2,4,6,8拍目であげるところが強調されているのだから、カラオケ譜で特に4拍目で上げていないのはやはり違和感である。でも、1,3,5,7で上げずに8で上げたのは偉い(何様)。拍が偶数にくるか奇数にくるかは重要な要素である。<音程を徐々にあげていくという演出>(基本的に半音ずつ, 裏拍で上げる)というざっくり2つの引数をもつ関数として捉える。

このパートの前半の方はD♭とE♭の行き来で構成されていて、それも重要な特徴であり、そこはさすがにカラオケ譜も守っている。しかし1拍目をどちらにするかはCDとライブで異なっていて、どちらでも違和感がなく、6拍目でE♭からD♭に落とすというのが重要だ。2音だけで構成されていることはラップで多いが、どの2音か、{絶対に/任意で}{落とす/上げる}部分はどこかという形で捉える。

あと、バックの音楽との兼ね合いで難しくなる部分はあって、音楽は hip hop hop pa la la のうち hop hop を強調するように鳴っているが、声はその前の一拍で hip を言わなければいけない。こういう音はカラオケ音源で無視されがち。メロディー音源を作るプロセスやソフトウェアに由来したミスなのかな?このレベルのコトはCDとライブでブレたりしないので、やはりどの拍でどの言葉を言うかというのは細やかな音程以上に重要で規定的な要素だ。(or)を拍として発音していない、みたいなのも声の強弱や音韻の曖昧さで把握すべきことだ。前回のカラオケ記事では楽譜にすべて起こすのはコスパが悪いと言ったが、ラップ部分は短く繰り返しが多く、音のバリエーションが少ないので、ctrl+l で歌詞をつけながら書き起こすのはそれなりにコスパに見合っていたと思う。一拍の中にスペースはなるべく入れない(大抵、拍の把握間違いであることを疑ったほうがいい、入れるなら ctrl+spaceで入れられる)末尾につけた hyphen は del とかで消せず、末尾で space を入力することで消えるとかそこらへんの musescore のクセがあるが、慣れれば数分で入力できる。

強欲について

今年の書初めは「強欲」にした。友人に報告したら「なぜそれを選んだのか...笑」と聞かれて「いつも、控えめ、お淑やかだからさ、ギャップ出していこうかと😉笑」と冗談めかして答えたが、真の意図をここに書いておく。

欲のバランスに欠けるがいいんじゃないか、シェアハウスの友人と3人で書初め

貪欲と強欲のどちらかで悩んで、漢字のかっこよさと、「貪欲」と「強欲」の違いとは?意味から使い分けまでわかりやすく解説 – スッキリ とか 「欲張り」「貪欲」「強欲」 - 違いがわかる事典 とかに示されている「悪い意味であること」の背景を積極的に評価しようという2点で選んだ。

強欲が悪いこととされているのは Greed - Wikipedia にもあるように、"it creates behavior-conflict between personal and social goals" ということなのだが、僕の欲というのは、世界のどこかでひもじい思いをしている人に食が与えられてほしいだとか、誰かの家の蔵にある文化財の価値が失われないでほしいだとか、離島の絶滅危惧種が消えないでほしいだとか、SGDsを声高に叫ぶお偉いさんたちのことは脇においても(国連のSGDsの会議にも出ていたことあるから別に脇に置く必要はないのだが、あまりそれをめぐる政治的状況は好きではないので)、めっちゃ social goals が内発的に含まれていて、一方それは根本自分のエゴだと思っている。つまり、共感してくれる人も、潜在的に共感できる人もいるが、多くの人は共感せず、強欲が前提としている conflict の中に居て、よくて偶然その人の身の回りの規範を鵜呑みにして従ってくれているといったところだ。

そういう意味では、論語:為政の「七十にして己の欲する所に従えども矩を踰えず」に由来する「従心」というのも一つの候補なのかもしれないが、そのエゴの危険性をどう評価しうるのかに意識を払わず自身の「従心」を自覚するのは、まさに七十くらいにしてなりがちな老害仕草だと思ったのでやめた。確かに内発的な social goal は古典的な behavior-conflict くらいは回避するかもしれないが、矛盾すら含むであろう多様な個々による social goal の和集合とは必ずズレをきたすし、もちろん積集合でもない。それを宗教的などっかの善から演繹するのでなければ(そうしたところでその宗教の内部にしか通じないのだが)、一から自分の責任で説明し、ズレの引き起こす結果については自分で引き受けなければならない。強欲な行動の結果、世間からどう見られて、その結果を欲するかどうか、それも欲のスコープとして考えなければならないし、そこででてくる「世間」というのは自分にとってままならない他者の集合体であるというのは重々承知してなければならない。Self-righteousness(独善)や Elitism (エリート主義)に陥らぬよう、それはエゴと世間の認識で支えていかなければいけない。世間はどうあるべきだ、というのは二重で否定しなければならないと思っている。一つは、そんな理想を掲げたところで(理想を分かりやすく提示するのはそれはそれで価値のあることだけれども)それが現実になるのに時間がかかったり現実にならないのでは行動に織り込むことはできないし、もう一つは太宰の言う「世間というのは、君じゃないか」問題であり、つまり根本個々人のエゴの社会的投影でしかないということだ。

そして、理想をどう織り込むべきかについても強欲は教えてくれる。『呪術廻戦』で五条悟が伏黒恵にお説教を垂れるシーン:

「君は自他を過小評価した材料でしか組み立てができない。少し未来の強くなった自分を想像できない。君の奥の手のせいかな?最悪自分が死ねば全て解決できると思ってる。それじゃ僕どころか、七海にもなれないよ。死んで勝つと、死んでも勝つは、全然違うよ。恵。本気でやれ。もっと欲張れ。」

ここで「自分を」ではなく「自他を」となっている。世間というのは平板ではなく、(友人関係のネットワークではなく、その欲における整合度での地平で)エゴセントリックに、信頼のおける友人とか理想を同じくする同志とかが、「その先」を手にしてくれることは信頼してみればいい、そしてもちろん、自分については自分の責任の範囲で自由に賭けられる。周りの人間に賭けてもらっていると感じるならば、「自分は評価されず放逐されてもよいので、価値のあることをしよう…」などと思わず「価値も、評価も、すべて強欲に取りに行け」ということになる。そこで時間が足らず健康が犠牲になると思うなら、バランスさせようと思わず、「健康も取りに行け」ということになる。バランスさせようというのは非常に困難なのだ。時間も金銭的だったり精神的だったりする様々な資源も有限なので、結果的にはバランスをとっていることになるだろう、でも、はじめからバランスを取りに行くのならば、予測と把握に意識はもっていかれる。個人的に、全部本気でやるというのはどうやら得意なようで、エーリッヒ・フロムが "a bottomless pit which exhausts the person in an endless effort to satisfy the need without ever reaching satisfaction" と強欲を評するときの疲れ(exhausts)はあまり生じない(ということを冒頭の友人に指摘された)し、どちらかというと「あの世でもらう批評が本当なのさ」(椎名林檎『目抜き通り』)と思いがち(それは先の評価の話で否定している)で自身の満足についてもその評価を無限延期し続けていて嫌にならないので、バランスをとろうというよりは強欲であることに向いているのだと思う。

強欲を積極的に評価すること自体は真新しいことではないし、特に経済的なものが多い。アダム・スミスが個人のそういう行動を肯定しただろうことは想像に難くない(し enwp にも軽く触れられている)し、アイヴァン・ボウスキーが”“I think greed is healthy. You can be greedy and still feel good about yourself.(強欲は健全だと思っています。皆さんも強欲になるべきだし快く感じられるはず)なんて言ってそれが映画で"Greed, for lack of a better word, is good. Greed is right, greed works. Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit. Greed, in all of its forms; greed for life, for money, for love, knowledge has marked the upward surge of mankind."って変奏して使われたりもしている。特に変奏の方は文字通りの意味だとさして遠くないように見えるが、映画の文脈を踏まえるとそれすらも経済的な欲の肯定でしかなく現代では害悪でしかないという見解もあるので、基本、この別段の肯定文を掲げない限りは、強欲の肯定なんてろくでもないと世間から見られがちであろう。そして、この別段の肯定文は長すぎるので、わからなければ「いつも、控えめ、お淑やかだからさ、ギャップ出していこうかと😉笑」ということだと思っていてくれればいい。

悪魔の証明から確証バイアスまで

ひろゆき的なものを蹴り飛ばす方法が流行りそうだし、詭弁 - Wikipedia は当然頭に入れておくとして、他によくネット上で見る詭弁っぽい話を撃退するのに使える概念を並べておこうと思った。

  • 悪魔の証明 - Wikipedia 土地の所有権を証明することが根本的には前の持主から前の持主へと、最初の占有者まで遡ることを必要とすることなど、(特に法的な)証明の手続きについてその困難さを指摘する用語。最近のネットでは消極的事実の証明の困難さと同義で使われることが多い。
  • 消極的事実の証明 - Wikipedia「証明は肯定する者にあり、否定する者になし」「証拠が無いことは、無いことの証明にならない」といった格言と共に消極的事実の証明の困難さとその取扱いについてよく指摘される。ただし、在れば知りうるはずだという蓋然性があるのに無い、在るという証明ではなくとも十分に疑わしさを得る手掛かりがある、といった場合に消極的事実の証明は現実的で為すべきことになることも多く、ネット上の議論で「悪魔の証明」の不可能性をこの意味で金科玉条のように使ってくる相手には、「消極的事実の証明のことですよね?存在を十分に示唆する事柄がある際にそれについての合理的な説明を求めることは、論理的に不可能な消極的事実の証明と呼ぶに相当しない、つまり悪魔の証明ではありませんが?」と言っておけば良いですよ。これにまともに応答できる人間は、カラスの中での白い個体くらいの確率でしか存在しませんので。
  • ヘンペルのカラス - Wikipedia は 全てのカラスは黒い ことを示すのに、全ての黒くないものはカラスでないことを調べればよい(対偶)ので、カラスを調べずにその事実が言える。もともと帰納法の問題を指摘するためにヘンペルが考案した問題である。黒くないカラスが居ないのを示すのが困難であることと一致するため、「消極的事実の証明」の困難さの一例にもなっている。次のウェイソン選択課題と絡めて、この手の問題に関して「全調査の可能性」が証明可能性に関わっていることを意識するのに役立つ命題であり、帰納を論理的に意味があると認められればサンプルでも意味があることになるということを意識するのにも役立つ命題である。
  • ウェイソン選択課題 - Wikipedia 「4枚のカードがテーブルに置かれている。それぞれのカードは片面には数字が書かれ、もう片面には色が塗られているものであり、3・8・赤色・茶色が見えている状態である。このとき「カードの片面に偶数が書かれているならば、その裏面は赤い」という仮説を確かめるためにひっくり返す必要があるカードはどれか?」という課題で、間違えて赤いカードをひっくり返す被験者が多いというバイアスの話である。ロジックというより人間の思考についての実験であるという点に注意。「アルコール飲料を飲んでいるならば18歳以上である」という社会的に具体的な課題に置き換えると正答率が増す。多くの人間は抽象的な思考ができないものである。有限、しかも4枚しかない状況では、ヘンペルのカラスと同じロジックが「間違いやすいが当然のコト」になるという点を説明するのに、この課題設定は便利である。
  • 確証バイアス - Wikipedia 仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない心理傾向のこと。ウェイソン選択課題で赤を選んじゃうような傾向ってことね。XがAであることを言うのに、not A なものに正しい手続きで着目した議論を「関係ない」と言われてしまったときなど「確証バイアスの囚人だね」と揶揄してやりましょう。

電子メールアーカイブ(工事中)

Gmail の takeout 機能で自分の email を mbox 形式でダウンロードできる。適宜検索して昔のメールを見れる状況にはしておきたいし、定期的に takeout した場合に、統合した mbox を作ったりできるようにしておきたいが、どういう環境を整えればいいか…の過程メモ。ちゃんとまとまったら(工事中)外すけど、meliのインストールと意味なかったあたりの情報はさっさと共有しておこうと思って。

普通には Thunderbird を使えばいいと思うけれど、Thunderbird への移行 | Thunderbird ヘルプ のところに、

Windows Mail (.eml ファイル) から Thunderbird へのインポートは、サードパーティ製のアドオンである ImportExport Tools を使用し、メッセージ形式を変換してインポートします。ImportExportTools アドオン をダウンロードし、Thunderbird にインストールしてください。

として貼られている、ImportExport Tools は Thunderbird の最新版(本記事執筆時点で Version 102.1.2)には対応しておらず( Version 60.* まで!)ImportExportTools NG というアドオンで対応している。でも少し前はこちらも最新版に全然追いついていなかった、みたいな状況がある。ImportExport をメインの機能に位置づけていない時点で、アーカイブツールとしては使い物にならない。

アーカイブという言葉を出すならば BitCurator が最適なんだろう。名前の通り Bit レベルのデジタル保存から NLP を用いた分析まで用意されているツールだ。しかし、今の目的の下ではオンラインに公開することを想定していないし、そんなに分析したいわけでもないし、手軽さの面で今回の目的には適していない。

mbox が扱えるメールツールがあればいいので、linux 上のメールツールならけっこうできるんじゃないかと思い、meliを試そうとしたが、結論、Windows WSL の Ubuntu では、うまく動かなかった。meli を実行しても何も表示されない。以下寄り道的なメモ:


meli は Rust で作られていて、rust のパッケージ管理?cargo というのを Ubuntu に apt でインストールして…とやっていっても、一部のライブラリについて Rust のバージョンが低すぎるというエラーでインストールできなかった。そこで apt の方で Rust を remove し、Install Rust - Rust Programming Language に従って rustup を使えるようにした。この過程でも、勧められている curl --proto '=https' --tlsv1.2 -sSf https://sh.rustup.rs | sh could not download file from … と言われて、うまくいかなかったので、Rustupをインストールするときに発生したエラーの回避方法 | ひがし研究所 を参考にインストーラを直接探してダウンロードしてきて、chmod +x rustup-init sudo ./rustup-init するという方法でようやく成功した。そうすると、rust も最新版が使えるようになって問題解決、cargo install meli … と思いきや、meli の方はまだまだエラーに悩まされる。failed to run custom build command for openssl-sys v0.9.75 とか言われる件については、rust で failed to run custom build command for `openssl-sys` が出るときにすること - Qiita を参考に、export OPENSSL_LIB_DIR=/usr/lib/x86_64-linux-gnu/ export OPENSSL_INCLUDE_DIR=/usr/include/openssl/ が必要だった、error: linking with cc failed: exit code: 1 /usr/bin/ld: cannot find -lsqlite3 って言われる件については、sudo apt-get install libsqlite3-dev が必要だった。そこまでやって、やっとインストールして、何も動かない。インストールが失敗しているのかもしれないし、何もわからない。初の Rust 製品体験は散々だった。


そして、eneam/mboxviewer: A small but powerfull app for viewing MBOX files というのにたどり着いたが、日本語のメールで使われる ISO-2022-JP がうまく扱えておらず、issue 上げたらめっちゃ活発に対応してくれていて、現在進行形で対応中。ISO-2022-JPのISO/IEC 2022適合性 とか読んでても思うけれど、マジで日本のガラパゴスな仕様で、こんなのがまだ使われているの、メール関連の色んなツールにとってすごく負担だ。一説にはガラケーがまだ生きてるから生きてる、みたいな説明もあるけれど、文字コードのレベルでは本当に UTF-8 に統一されてほしいわ。あとで、年ごとの文字コード利用統計とかとってみるし、分析とか含めて個人メールデータでできることや、その本格的なアーカイブとの比較と要件、「「個人メールアーカイブと公的なメールアーカイブとの関係」と「個人史と全体史との関係」との関係」、某個人追悼の際に考えたこと、をまとめて研究会論文くらいにはするかもだけど、アーカイブとして文字コードを気にする&強い真正性を気にするのは技術史観点か公的な権力性がある場合であって、個人メールアーカイブはとりあえず、文字コード UTF-8 に統一した mbox や eml ってのが扱いやすそうだよなー。Eml形式 - Wikipedia の中身全無視全消去でリダイレクトされちゃった(ノートのところに米国議会図書館のデジタル保存に関するページを張って、その方向での加筆の必要性をコメントしつつ統合提案して2年も放置してたわたしゃが悪いんですが)のも対応しなきゃだし、やりたいことが多すぎる。

ブリジット論争に関する個人的なメモ

別に論争に参戦するつもりはない。なぜ個人的なメモが必要かというと、「可愛いもの好き、についてえらいミソジニーな界隈から発信されてるの、気持ち悪い、一緒にされたくない」というのがあったので。いざという時(?)にちゃんと説明できるようにしておくために。

背景は 【LGBT】ブリジットが最新作で男の娘→トランスジェンダー設定になり議論を呼ぶ【ギルティギア】 - Togetter で、「男の娘」の40年史 またはブリジットをトランス女性にすることがなぜ反動的なのかの歴史的説明|狂人note|note とかにその歴史背景が「男の娘をトランスと一緒にするな」側から描かれてる。

私の理解は、マツコの「コスプレと似てる」発言で考えた"女装"をめぐる根深い問題 女装はLGBTに含まれますか? (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) にあるように、男の娘は出生時の性別(というのは社会的要素を含みすぎるので生物学的性別と以降はしておく。もちろん「生物学的性別」を定めるのが難しいから「出生時の性別」としているのだけれど、後述のように「何を重視しているか」という問題においては「生物学的性別」と等価なので)も性自認も男で、性表現が女であるものが「男の娘」だという理解。

森山至貴氏による分類分析

で、性自認が女であるトランスとは別だし、ブリジットが性自認を「変えた」のだから、単純にトランスではないでしょ、そこ一緒にすんなってのが界隈の認識。一方、欧米LGBTQI+側(雑なまとめ方だけど、今回の文脈で「男の娘」発信界隈に対置されるものとして)からは「性自認は変えられるでしょ」という圧力が社会に存在し、それに対して対抗するために

いいえ。人の性的指向性自認は変えられるものではありません。性的指向を変えようとする試みは、しばしば人権侵害を伴い、深刻なトラウマを引き起こす可能性もあります。

from LGBTQI+コミュニティについてよくある質問 | OIST Groups

のような考えが強いこと、また、日本のアニメ設定などは生物学的性別が強調されやすいこと(僕は狂人noteは購入しておらず、おそらくそこも多様化していることが2010年代について描かれているが、傾向としてはそう)が、LGBTQI+側への無理解として捉えられている。不変な性自認が重要視されていると言える。性自認(ちなみに英語ではgender identity)の近接概念として「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」というのがあり、これが上の表にある衣装などによる「性表現」ともズレることがある。この3つが区別されていないことが今回の問題を引き起こしている。

「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」は「選択」なのだから、変えることもできる。「あなたの性自認は男なの?」と聞かれてどう答えることにしているのか、は「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」だ。そういう意味で、性自認は本来不可観測なもので、それを観測可能で変えられるものではないと固定しているという点で、性自認のありかたというのが「性自認は変えられるでしょ」という圧力への対抗の副作用として不自由に歪んでしまっている。様々ありすぎて区別が難しいと言われているような多様なジェンダーについて、どれを口にし、どれを否定し、どれを許容するかといったことも、「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」だ。当然、それは概念がどのくらい普及するか、それを自分が知っているかなどなどによって変わるわけであり、いわゆる不変な性自認とは別のレイヤーにあることは自明だ。で、今回の件は、「今作で女の子として生きる決断しおった。」という「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」の変更がある。

外に「男」だって言ってるのに、衣装などの性表現で「女」を纏っている、ということが欧米のLGBTQI+界隈で理解されにくいというのはそれはそう。だから、

というのがバズってて、

こういう欧米のLGBTQI+界隈に対して攻撃的な物言いまでもが増えてきて、冒頭の違和感に至る>「可愛いもの好き、についてえらいミソジニーな界隈から発信されてるの、気持ち悪い、一緒にされたくない」

狂人noteの人も色々ミソジニー拗らせてるし(というのは、どれと特定はできないが、なんどか目にしたTweetで私はそう感じている。当該note記事が英語圏に発信された際にも「こんなやつの言うこと…」って感じの反応が出ていたりする)が、まあ、こういう対抗意識を含んだ土壌がちゃんと独自の性表現の文化を生んだという意味では「こいつらミソジニーだよね」で片付けてしまうのはそれはそれでよくないとは思っている。一方で、性的消費の都合から生物学的性別(やそれと見た目のギャップ)が強調されやすいとか、まさに欧米のLGBTQI+界隈が直球で批判しているような側面があることも否めない。

僕はちょいちょい話していますが、3歳くらいから塗り絵とかいろんなものの選択が女の子用のもので、母に揶揄されたため、染色職人だった叔父に色と性別に関するインタビューをすることを経て色々考えて「性別に関する観念は社会的に作られている、それに自分が従う必要はない、自分の表現をデザインすることが大事だ」という考えに至り、4歳の時に「外に表明するジェンダーアイデンティティの選択」としては男を選択し、衣装とかの性表現としては「男も女も選択しない」(粗雑さよりも繊細さを称揚するとか、個別に他の軸があることを重視する)ことを選択しています。「男ならこう感じる」的な言説の大半に当てはまらないので、おそらく、不変的な性自認のレイヤーをprobeすると、不定性とかの判定になるとは思いますが(その時点で不変ではないよねw)、「男ならこう感じる」的な言説が批判されるようになるだろうという30年前の読みがちゃんと当たっているので、「男だがそうは感じない」と言えばいいだけなので、特にこの選択を変えずに生きてこられている。そこに関しては、欧米のLGBTQI+界隈の恩恵をかなり受けてるんですよ。そもそもオタクの地位向上だって海外の目線の影響が少なくない。そこに無自覚でありたくはない。

党派性でドンパチやりたい人は、盛り上がってる間は何言っても聞く耳持たないので、「別に論争に参戦するつもりはない」です。もう8年くらい前に某表紙問題について欧米のLGBTQI+界隈側の党派性に物申さねばとなった時には、日本のコンテンツ文化史「も」ちゃんと認識しろって立場を取った。その時は当事者性があったし丁寧に議論に付き合ってくれる賢い人がいた。今は、単にミソジニーに染まった人間が日本のコンテンツ文化史「を」理解しろって立場をとることが多くなってきて、一緒にされたくないから、どちらにも与したくない。そもそも、あくまでファンタジーに留めおいて消費する日本のコンテンツ界隈と、すぐにリアルに持ち込もうとする欧米のLGBTQI+界隈のズレというのもあるのだ。僕は今回の件については、自分のリアルな問題として入ってこの記事を書いてるから、コンテンツ文化史の細分としてはあまり興味のない系統であり(今回までブリジットは知らなかった)、男の娘になれる若さも美貌も持ち合わせていないから、生物性も性自認も年齢も「オジサン」でしかないけれど可愛いもの好きでたまにそれを身にまとったりしてしまう(職場のスリッパにはクロミちゃんのバッジがついているし、SNSのアイコンはずっとピーターラビットだし、夏でもちょっとオーバーサイズめのポップな感じのフードとか着ちゃうし)人間としてどういう良い表現ができるか(「ありのままでよい」と押し付けるのも一つの暴力だよ、僕が僕が理想とする形を探したい(先回り))という目下の問題の方が重要であり、コンテンツ文化史としての側面があることは思想的に重要だとはおもっているものの、その内実に踏み込む動機が無い。

というわけでだいたい整理できた。