(勘違いをされると困るので書いておくと、このエントリ執筆の動機は仕事関連じゃないですよ)
この1年でそれまでの15年間分くらい苛立ってるし、もう何度もそれに関するエントリも書いた。スルー力の話とか、もうちょっと定常的に人を苛立たせるのに特化したクラスタの人間を無視しようだとか、コルチゾールみたいな生理的な話とか。今日は、苛立ちの感染について少し書く。
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自分に余裕がない時に苛立ちやすいというのはどこかで書いた覚えがあるが、攻撃的なものに触れると余裕がなくなるので苛立ちやすくなる。危険に陥った時に闘争するための生理反応が起こる、アージ理論のいわゆる緊急事態アージが根本にあるのかもしれない。それが現象として苛立ちが波及したようになる。
言論攻撃に関しては、「本当に相手の攻撃が有効なのか」を考えるとマシになるかもしれない。「何を馬鹿なこと言ってるんだ!!!」と思うのならば、そんな馬鹿なことはほっとけばいい。でも、そんな馬鹿なことに傷つけられている人や、騙されている人がいるとなかなかほっておけない。でも、ほおっておかずに怒ったからと言って「それが本当に有効なのか」を問うてみるべきだ。
地球の裏側で毎日起こっている暴力に対して常に怒り続けはしない。なぜならば無駄だからだ。毎日、俺とちゃくらいで、どこのだれとも知れない匿名の相談者を招いてお悩み相談ラジオをしていたのは、その時の時間という余裕を消費して漸くできていたこと。他のコミュニティの問題とかに首を突っ込んだからって、なかなか有益な貢献はできない。
二―バーの祈りをささげよう。
O GOD, GIVE US
SERENITY TO ACCEPT WHAT CANNOT BE CHANGED,
COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED,
AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM THE OTHER
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これは、なかなか後天的には変わらない性格のようなものなんだと思っていたが、怒りに対する特性というのが人それぞれにある。パッと怒ってケロッとしている人/ジリジリと怒り続ける人、論理的に怒る人/感情的に怒る人、などなど。その中に、感染力の強い怒りをする人とか、怒りの被感染性の強い人とかがいて、被感染性が最近なぜか急上昇した気がする。
冒頭で15年に区切ったのは中学校時代は基本怒ったら即手を出していて、小学校低学年の時は怒り返しながら泣いていて(これは幼稚園まで基本穏やかな精神状態しかなかったので。親もめったに怒らない人だったし)、まあ基本的に口で怒るということはしなかったが、怒ってはいた。で、それから特に怒らなかったんだけど、最近怒ることが増えてくると、口喧嘩できるようになる。いわゆる論理能力と口喧嘩の能力ってのは関連はあるけど別で(だからこそ喧嘩めいた言論のほとんどは無駄なのだが)、「苛立たせるのに特化したクラスタの人間」というのは口喧嘩に明け暮れてきた人々なんだと最近分かってきた。
感染力の強さも、被感染性の強さも、この口喧嘩の能力と相関する。戦えるようになったら、戦うことがクセになるのだ。僕は口喧嘩なんて一生負け続けていようと決めてたのに、なんでこうなってしまったのか。
口喧嘩の能力の一つが皮肉を言うことで、最近僕の裏公開垢のツイートそればっかりですよ。そんなの要らない…。
参考:
- Facebookがユーザーに無断で情動感染の心理学実験を敢行し公式に謝罪 - GIGAZINE 普通に情動感染という有名なカテゴリがあるのね、この記事で初めて知った。
- 中国嫁日記:怒るゆえさん(2) 文化圏による怒りの表現の違い。韓国についての呉善花のワサビ vs 唐辛子論も学術的とは言えないがカジュアルな感覚としてはけっこう分かる(もちろんこの著者の立ち位置とか問題点は織り込んで言ってるよ)。その意味づけに差別的侮蔑的な問題が起こり得る危険性は考慮されるべきだが、一方で(so called)「PC」を(in "their" way)優先してこういう文化差異の記述を discourage するのは許しがたい。