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Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

Transdisciplinary

プロジェクトの英名にひとつ意見をつけたいと思ってのメモ。

何事においても知的解釈においてはコンテクスチュアリティへの敏感さが必要だということ。ヨーロピアン的発想ではこの敏感さを万人が共有できません。むしろ、敏感さの度合いを高めるためには、ある種の閉鎖性も必要だ、というのがヨーロッパ的な前提だ、ということをお話ししました。その意味でクロージャ(閉じ)は大切です。

それとの兼ね合いで、専門性を横断することがインターなのかトランスなのかということが重要になるのです。僕が師事したのは小室直樹という極右と廣松渉という極左です。異常にトランスディシプリナリーなお二人でした。小室先生がおっしゃったのは「学際という分野があると思うな」と。「経済学を徹底的に学習して経済学者と互角に議論できるようになり、法学も徹底的に学習して法学者と互角に議論できるようになり、社会学も徹底的に学習して社会学者と互角に議論できるようになり、様々な実務も徹底的に学んで実務家とも対等に渡り合えるようになれ。それが真のエリートだ」と言われました。

「学際的に勉強する」というとき、専門教育を軽視するようなあり方は出鱈目です。その意味で、インター・ディシプリナリーではなく、トランス・ディシプリナリーしかあり得ない。「学際的に勉強する」とは「政治学も法学も経済学も社会学も実務も専門的に勉強する」以外ではあり得ない。そんなことは自明でしょう。まず、徹底した学問的な専門性を追求してほしい。歴史的な知恵の蓄積だからです。次に、全体性という指導概念に従うために、できるだけ多くの分野の専門性にも通暁し、各分野の人たちとコミュニケーションを絶やさないようにしてほしい。

from 慶応SFCの井庭先生とのトークイベントの、テープ起しがあがりました(3) - MIYADAI.com Blog

学際という視座は無いという宮台さんの主張はかなり深く刺さっている。一方で、以前さかいさんが口にされていた「無関心と尊重」の話、つまり学問の実際の活動の中には閉じの中に触れない形でサポートされることが有益になり得る類のものがあるという主張も印象に残っている。ライブラリアンもたぶんそういう立場だろう。そして、「役に立つ」とか「問題を解決する」という形の知の在り方に関心を寄せている僕は、それは必ず transdisciplinary なものになると思っている。transdisciplinarity にも大きくわけて2つの意味があって、学問の枠組みを保ったままではなく既存の学問の枠組みを解体するような形で学問を横断することを指したり、市民科学の文脈で社会にひらかれた学問としての学問のありかたを指したりする。上の宮台さんのはちょっとそれとは違うし、最近の定義に基づけば、それはむしろインターの範疇なんじゃないかと思うが、学際研究の実際を見ていると、その指摘は色褪せることは無い。日本顔学会の原島先生が最終講義の時に指摘されていた「方法論でまとまる学問 vs 対象でまとまる学問」という学問の分け方があるという話はそれらとはまた直交する。学問の閉じというのは方法論と対象がセットになることで生じるのが一般的で、むしろ彼の試みを見ても、それらを対象側でまとめ直してみることが学問的に新しい価値を生みうると読み直した方が意義深い発言になる。

今回やるのは、非技術的な言い方をすれば、元の視座を再構成できる形で情報を保存するが、全部バラバラに解体した上でいかようにも再構築できるようにゆるくネットワーク状に編み上げる、という知の共有の試み。元の視座だけでなく、役に立ったり問題の解決につながったりする知をも再構成できるようにするというのが重要な点。視座の無い記述はそれ自身がまとまりとして理解不可能なので人間にとって直接意味を持たせるのは難しい(せいぜい生物や美術品、統計データをカタログを見るようにして楽しむ程度)が、computational に記述可能だというのは実践も積み上げられている。問題は解体と再構築の実践と方法論が整っていないところにあるので、それをやるのが本プロジェクト。だから、Transdisciplinary って言葉は入れたいんだよね。