Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

Aviutl で動画を作る

AviUtlのお部屋

随分前に結婚式の動画を作って、そのテクニックを伝授しろと言われたのだけれど、ほっとんど忘れていたので、ここにメモっておく。AviUtlの易しい使い方 | AviUtlを中心に動画全般の事を解説するサイト というサイトができていて、そのおかげでササッと復習できた。

その他参考:

おおまかな流れ

音楽 First。音楽があって、それに合わせるように動画を作っていく。写真のスライドショーなど、ムービーメーカーでできることはムービーメーカー使った方が楽。それを Avlutl に取り込んでカッコよくしていく。最後、無劣化 mp4 で書き出して、DVD Flickを使って DVD に焼き付けて終了。大抵 DVD の形で手渡せと言われるので。

Aviutl の 準備

Aviutl はいろいろ拡張などが必要。「拡張編集プラグイン」と「L-SMASH Works」と「x264guiEx」を導入しておくこと。

設定ダイアログの使い方

Lua のスタッフロールコード

一つのテキストオブジェクトに全部書き込んでおいて、

obj.oy = obj.oy - obj.time*50
if (obj.oy < -130) then
 obj.alpha = (obj.oy+230)/100
end
if (obj.oy > 130) then
 obj.alpha = (230-obj.oy)/100
end

みたいな形で流しておく、フェードの位置とかは数字を変更する。 それぞれのレイヤーにサイズがあって、それを越えると文字が途切れてしまうので、

クラスの思い出ビデオを作ることになってクラス全員の名前をエ... - Yahoo!知恵袋

おそらく、最大画像サイズの方で、切れてしまっているのではないでしょうか?
AviUtl本体の環境設定→システムの設定でも変更できますが、
こちらをあまり大きくすると、メモリをたくさん使って不安定になるので、
拡張編集の方で設定します。(Ver 0.80以降)

テキストオブジェクトの縦のサイズがいくつになるのか、すぐには分からないので
(フォントサイズ+行間)×行数 で計算します。
適当に大きな数字を入れてもいいですが、不安定になるおそれがあります。
たとえば、フォントサイズ34、行間16、行数30、なら
34+16=50、50×30=1500
1500は8で割り切れないので、一応8で割り切れる1504とか1600とします。

拡張編集のレイヤー上で右クリック→「環境設定」→「最大画像サイズ」に
横のサイズ×縦のサイズ で入力します。この時、横のサイズも入力してください。
現在作成中のプロジェクトの画面サイズで構いません。
「OK」をクリックして閉じます。しかし、最大画像サイズは、AviUtlを
再起動しないと反映されないので、「ファイル」→「編集プロジェクトの保存」で
今のプロジェクトを保存しておいて、AviUtlを一度終了します。
またAviUtlを起動したら、「ファイル」→「編集プロジェクトを開く」で
先ほど保存しておいたプロジェクトを開きます。
拡張編集の環境設定で最大画像サイズが変更されているか確認して下さい。

という情報を参考にレイヤーのサイズを変更してください。

参考:

プロジェクトの保存

これがあまりいい手がなくて、aupで保存するんだけれど、他のPCに移行したりしたらすぐにリンクが切れたりする。ちゃんと特定の名前のサブフォルダに素材をまとめるなど工夫をしておこう。

参考:

アナログな動画を使う

昔のビデオテープに収められた動画を使いたいだとかいう場合に、それをパソコンで読み込めるフォーマットにするのは骨。それをテレビで再生して、再生しているテレビをスマホのアプリでエフェクトかけてとってごまかすという手がある。

参考:

他のソフトという選択肢

Aviutl は 2013年で開発が止まっているので他を探してみた。

は開発が続けられているが字幕などを入れる機能がない。Aviutl も version 1.00 に達したところで開発が終了しているので、「完成した」と考える方が良いと思う。もちろん、バグとかはあるんだろうけれど、2007年に開発が止まっているJTrimもずっと人気で使われ続けていて、僕も最近になって Paint.net に乗り換えたが、処理の軽さは JTrim に勝てないので、まぁ開発頻度を気にしすぎるのは、github のモジュール使うときの開発頻度を重視する思考回路の行き過ぎなのかもしれない。でも、ソースコード公開されてないのはちょっと怖いなぁ。

Aviutl で画面サイズの大きな動画を作る

1280x720を超える画像サイズのファイルは編集できません。

最大画像サイズはシステムの設定で変更出来ます。

映像なんて画質が命的なとこあるから、ムービーメーカーで「高解像度ディスプレイ用」で1440×1080で出力してそれに合わせて読み込んだ方がいい。ファイル>システムの設定 で読み込める。もちろん再生機器にもよるんだけどねぇ。ちなみにこの設定変更は Aviutl の再起動が必要

mp4 で圧縮が必須な理由

画像でいう bmp と同じ無圧縮の動画形式って avi なんですけど(avi でも圧縮形式もあるので「無圧縮」avi という限定が必要だが)、それで上記の高解像度画像を出力すると 6分で 40GB 越えという恐ろしいことになります。まあ、今の PC だと入らなくはないですが…。

低解像度で無圧縮 vs 高解像度で圧縮 を比較すると後者の方が絶対いいです。だって、前者を大画面に映したらただボケますけど、後者はアルゴリズミックに人間が見てそれとわかりにくいように圧縮するわけですから。

Atom markdown preview で footnote を表示する要望

Footnote Support · Issue #153 · atom/markdown-preview にすでにあって、GitHub製エディタAtomのMarkdownリアルタイムプレビューの仕様 - memorandum で紹介されているようにMarked に依存しているのだが、そちらの方でFootnotes add patch by paolocasarini · Pull Request #431 · chjj/markedというパッチがすでにあって、Commits · chjj/markedに取り込まれていないだけで、よって Atom の方にも取り込まれていない。

それだけの問題なので、管理者がアップデートしろで終わるのだけれど、根本的な解決策として、

:+1: to @jbrains 's idea making the Markdown processor configurable

Issue #153にコメントしておいた。

シンポジウムを面白くするテーマの設定

想定しているのは、文系でよくある、数人の講演者がいて、コメンテーターのコメントと総合討論がついているようなシンポジウムです。

絞る

研究上のトレンド、現代社会で盛り上がっている問題、何かにフォーカスして絞るというのは大事だ。テーマを設定しないシンポジウムより不適切な絞り方をしたシンポジウムの方がずっとマシだ。この問題は特に毎年やっているシンポジウムだとか、シンポジウムの目的がぼやけがちな場合に生じやすい。

講演者の「線」を企画者がガイドする

趣旨説明をする人が述べるのが望ましいが、せっかくテーマを設定しても、各講演とそのテーマとの関連が分かりにくいとテーマの意味がない。それは講演者の選定も重要だが、講演者への要求は最低限にする必要がある。「この点に触れてくださいという」指示も良いが、私が好きなのは大きなお題目のもとに、関連する3つくらいのQに関するAを講演に含めてもらうことだ。そうすることによって、総合討論を含めその場でデルファイ法(専門家グループなどが持つ直観的意見や経験的判断を反復型アンケートを使って、組織的に集約・洗練する意見収束技法。技術革新や社会変動などに関する未来予測を行う定性調査によく用いられる)をするような効果が期待できる。

事前に意見交換をする

講演者には、500字くらいでいいのでレジュメを提出してもらう。講演者への要求を最低限にする理由は、自由闊達に話してもらうことで本人の専門性と興味を十分に生かした講演をしてもらうためだが、その分、オーガナイザーが全体像を描くためにはノイズが多いわけだ。そのノイズをどうシンポジウムの味にしていくかが大事だ。調理するためには食材の特性を事前に知る必要がある。また、これは広報のネタにもなる。

また、シンポジウムというのは一般聴衆に開いたものになる。先ほどデルファイ法の話を挙げたが、事前に少なくともメールベースで少し話をするのは重要だ。特に、トピックが絞り切れてない、全体の意見がバラバラであるという状態ならば、特に、いきなりシンポジウムをやるよりも、研究会をした方がいい。とはいっても、研究者が集まるのはそれなりに大変なので、講演者と企画2人くらいで100分程度のオンライン研究会で良い。

番外: おやじギャグ禁止?

これは、聴衆に受けてたので、必ずしも悪くない難しい問題なのだけど、文系の方々は同じ発音で別の意味の言葉を並べたり掛詞したりするの好きですよねぇ。でも、あれ学問的に本当に意味があると思います?「まなぶ=まねぶ」くらいがギリギリのラインだと思うんです。つまり、概念的関連性を語源の共通性が示している場合ね。まぁ、掛詞って日本的でいいかもしれない、これは本当に好みの分かれるところです、別にそのギャグに時間を取るわけでもないのだから、目くじらを立てることは無いのです。でも、相当しっくりくる場合じゃないと、無理して入れないでほしいです…個人的には。今回、質疑応答でも使いまわされていたので、本当に受けてたんですよね、だからこれは好みの問題だと思うんですけど。

少なくとも主催者側がテーマにするときには語呂が良いからとあまりギャグにこだわるのは危険だと思います。

この記事の背景

今日のあるシンポジウムがきっかけ。

「面白い」ってのは主観的な問題なので、そもそも「面白さ」を量るのが難しい。でも、参加者から一部ネガティブな反応をもらえたというのはありがたいことである。もちろん、絶賛が来れば言うことないのだが、運営側である僕自身、彼に「今日、どうだった?」と問われて、その切り出し方や目線から彼がネガティブな感想を抱いていることが分かったものの、特にネガティブな部分を指摘して先読み同調することも、逆にここはというポジティブな部分を先手主張することもかなわなかった。ピンと来ていない、とでもいうのだろうか。僕は運営側だというだけでなく、例年どおりでいけば僕が取りまとめる必要があったシンポジウムだったので、立場的に運営を批判できる立場にない。そこで自分なりに咀嚼した問題点を書いておこうと思っただけ。今回は「絞る」と「線のガイド」の問題が大きかったと思う。事前の意見交換についてはしていたようだが、テーマが個々の個性の中に埋没してしまった。

forget me not

語順おかしいじゃないですか?

很久没见からきた Long time no see*1みたいなピジン英語なのかと思って知ってる各国語を考えてみたけど、この語順は思いつかない。そもそも最後に否定の語句が来るのって日本語以外知らないので。調べてると古い英語からきたという説を発見、なるほどね。

そこで書かれている説はForget-me-not - Wikipedia, the free encyclopedia

In 15th-century Germany, it was supposed that the wearers of the flower would not be forgotten by their lovers. Legend has it that in medieval times, a knight and his lady were walking along the side of a river. He picked a posy of flowers, but because of the weight of his armour he fell into the river. As he was drowning he threw the posy to his loved one and shouted "forget me not". It was often worn by ladies as a sign of faithfulness and enduring love.

というロマンスなんだか、コメディなんだかわからないエピソードと符合している。古英語の語彙くらいはいくつか学んだことあるが、文法は全く知らないのでこれまた Wikipedia に頼ってみると、

英語版には動詞の否定についての記述がみあたらず、ドイツ語版にも

Negation: Im Mittelenglischen waren doppelte Negationen (I will not give him no meat) völlig üblich; dies wurde aber in der Renaissance als „unlogisch“ erachtet und aufgegeben. Auch Verbindungen wie not…never/nobody änderten sich zu not…ever/anybody.

という記述がある程度(つまりルネッサンスまでは「I will not give him no meat」で「俺はあいつに肉をやるつもりはない」という意味を表す重複否定文法が使われていたという話、たぶん)。なぜか日本語の初期近代英語 - Wikipedia

否定文を作る場合は、現代英語ではdo not go/don't goのようにdo+not+動詞の形を取るが、初期近代英語ではgo notのようにdoを使わず、動詞の後ろにnotをつけることも多かった。

という記述があり、なるほど感があるが出典がない!!!だーれーかー加筆してー(お前がやれという話)加筆しました(2016/4/25)。

<ref>{{cite book |last=Denison|first=David|date=1993/7/5|title=English Historical Syntax|language=English|publisher=Routledge|isbn=978-0582291393}}のp.450 15.2.2.3項 "Finite lexical verb + NOT" 参照。{{cite journal |last=Ramón Varela Pérez |first=José |year=1997|title=The use of periphrastic do in Early Modern English negative declaratives: evidence from the Helsinki Corpus |url=http://sederi.org/docs/yearbooks/08/8_4_varela.pdf |journal=SEDERI (Sociedad Espanola de Estudios Renascentistas Ingleses) |volume=8 |pages=35-43|accessdate=2016-04-24}}にはヘルシンキコーパス内でのdoの使用率の変化が表にまとめられている。</ref>

余談だけど、"forget me not" の由来としては以下の方が個人的に好きです。

In a Greek legend, God named all the plants when a tiny unnamed one cried out, "Forget-me-not, O Lord!" God replied, "That shall be your name."

from Forget-me-not - Wikipedia, the free encyclopedia from Sanders, Jack. The Secrets of Wildflowers: A Delightful Feast of Little-Known Facts, Folklore, and History. Globe Pequot, 2003. ISBN 1-58574-668-1. ISBN 978-1-58574-668-2.

*1:ブログでは「很久不見」と書かれているが「很久没见」だと思う。

(勘違いをされると困るので書いておくと、このエントリ執筆の動機は仕事関連じゃないですよ)

この1年でそれまでの15年間分くらい苛立ってるし、もう何度もそれに関するエントリも書いた。スルー力の話とか、もうちょっと定常的に人を苛立たせるのに特化したクラスタの人間を無視しようだとか、コルチゾールみたいな生理的な話とか。今日は、苛立ちの感染について少し書く。

自分に余裕がない時に苛立ちやすいというのはどこかで書いた覚えがあるが、攻撃的なものに触れると余裕がなくなるので苛立ちやすくなる。危険に陥った時に闘争するための生理反応が起こる、アージ理論のいわゆる緊急事態アージが根本にあるのかもしれない。それが現象として苛立ちが波及したようになる。

言論攻撃に関しては、「本当に相手の攻撃が有効なのか」を考えるとマシになるかもしれない。「何を馬鹿なこと言ってるんだ!!!」と思うのならば、そんな馬鹿なことはほっとけばいい。でも、そんな馬鹿なことに傷つけられている人や、騙されている人がいるとなかなかほっておけない。でも、ほおっておかずに怒ったからと言って「それが本当に有効なのか」を問うてみるべきだ。

地球の裏側で毎日起こっている暴力に対して常に怒り続けはしない。なぜならば無駄だからだ。毎日、俺とちゃくらいで、どこのだれとも知れない匿名の相談者を招いてお悩み相談ラジオをしていたのは、その時の時間という余裕を消費して漸くできていたこと。他のコミュニティの問題とかに首を突っ込んだからって、なかなか有益な貢献はできない。

二―バーの祈りをささげよう。

O GOD, GIVE US

SERENITY TO ACCEPT WHAT CANNOT BE CHANGED,

COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED,

AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM THE OTHER

これは、なかなか後天的には変わらない性格のようなものなんだと思っていたが、怒りに対する特性というのが人それぞれにある。パッと怒ってケロッとしている人/ジリジリと怒り続ける人、論理的に怒る人/感情的に怒る人、などなど。その中に、感染力の強い怒りをする人とか、怒りの被感染性の強い人とかがいて、被感染性が最近なぜか急上昇した気がする。

冒頭で15年に区切ったのは中学校時代は基本怒ったら即手を出していて、小学校低学年の時は怒り返しながら泣いていて(これは幼稚園まで基本穏やかな精神状態しかなかったので。親もめったに怒らない人だったし)、まあ基本的に口で怒るということはしなかったが、怒ってはいた。で、それから特に怒らなかったんだけど、最近怒ることが増えてくると、口喧嘩できるようになる。いわゆる論理能力と口喧嘩の能力ってのは関連はあるけど別で(だからこそ喧嘩めいた言論のほとんどは無駄なのだが)、「苛立たせるのに特化したクラスタの人間」というのは口喧嘩に明け暮れてきた人々なんだと最近分かってきた。

感染力の強さも、被感染性の強さも、この口喧嘩の能力と相関する。戦えるようになったら、戦うことがクセになるのだ。僕は口喧嘩なんて一生負け続けていようと決めてたのに、なんでこうなってしまったのか。

口喧嘩の能力の一つが皮肉を言うことで、最近僕の裏公開垢のツイートそればっかりですよ。そんなの要らない…。

参考:

サブドメインとった

ドメインの維持管理費ってちゃんとしたのだと年2000円弱くらいかかる。情報系の研究者の多くがドメインとってて、そこでプロフィールとか書いたりしている。一生で10万程度を安いと思うか高いと思うか。

最近はresearchmapがあるんだから、そんなことしなくていいじゃないかと思うかもしれないが、サービスを動かしたり、ちょっと工夫したプロジェクト紹介とかするために自分のサーバをもつ需要はある。サーバを設置するのは大学のドメインだから、所属が変わるとドメインを変えざるを得ない。結局、researchmapから異動のたびに自分のサイトにリンクを張りなおすくらいのことをするけれど、それサービスのドメインが変わるので、利用者にとってはあまり好ましくない。

で、タダでドメインが取れるかというとFreenom.comというサイトがあるのだが、verification メールは送られてこないし、昔 ICANN と揉めたりしてたりなんだか危うい感じがする。上記のモチベーションなので、その危うさは別に構わないのだが、まあ verification できないと使えないわけで。

どうせ、少々のリスクを抱えるならば、FreeDNS Subdomainsという手がある。サブドメインを取るということは、元のドメインの管理者に首元をつかまれるということで、高信頼が必要なサービスにはお勧めしないが、ころころ異動する若手の研究者が若手で安定的な資金のない時に、ドメイン取りたいというのには適しているのではないか。

僕はinet2.org上にとった。管理者がギークで、安心したから。他に山ほどドメインがあって中には、http://www.s.alemazon.com/(あえてリンクにはしない)みたいなところにリダイレクトされてしまうのもある。少々のリスクは織り込み済みといえども、なるべくマシなところを使うのがイイだろう。この仕組みの性質上1つのドメインに大量のサブドメインが作られるので、DNSの処理効率を考えるとあまり新規流入が多いサービスはお勧めしない。inet2.orgにも

great for low traffic sites

と書いてある。

ところで、各国のLOD推進団体はこのサービスをやるべきではないか。大量のサブドメインと大量のトラフィックを捌くシステムが必要だけど。

その他参考:

What exists is REPRESENTATION

差延とSW

URI が一意にリソースを指すという語義と一貫した性質を持つ限り、URI の A に関して、A owl:sameAs A. というのは trivial で、全く論理的情報量を持たないが、一方でそれは valid である。

A owl:sameAs B は唯一名仮説でも非唯一名仮説でも常に情報量を持つ。それは、世界のすべてのモノが単一であるという仮説を取らない限り、A と B には異なる可能性があるから、その可能性を消すという意味で必ず情報量を持つからだ。そして、世界のすべてのモノが単一であるという仮説はすべての論理操作を無に帰すため使いどころがない。

「世界のすべてのモノが単一であるという仮説」を否定している点が差異の痕跡だというのはあまりに哲学的に構成された偽りの痕跡であり、「URI が一意にリソースを指す」という世界観こそがこの原・痕跡が示す痕跡だろう。

そもそもネットワークによって知識を表現するという考え方自体が差延の前史ともされるソシュールの世界観と符合する。

差延」の差延

なぜこのような至極当然のことが、高名な哲学者の発明した概念であるかのように喧伝されているかというと、それまでは構成的な認知の方が主流だったからだ。羽を持って、鳴き、飛び、たまに地面を歩く、それが「鳥」だとか;四足で、ワンワン吠えるのが犬だとか。そしてそういう認知は、飛ばない鳥ペンギンのような例外を以て崩され、それが推論側にデフォルト推論などの非単調論理の持ち込みを促す。そこらへんまでは、「うんうん、人間ってこういう知的処理をしているよねー」と内省的に納得できるものだったが、それでガンガンと知識を書いていくとふと立ち止まる。「…こんな複雑な事、考えてねーよ。犬は犬だ。俺には分かるんだ。」

そして言語論的転回をトレースする。「差延」がさも、いままで気づかなかったありがたい概念であるかのように思う。

再転回とモデリングの重要性

まぁ、まってくれ。それで構成的認知を無かったことにするのはただの宗教的転向だ。「「うんうん、人間ってこういう知的処理をしているよねー」と内省的に納得できるものだった」んじゃないか。学問のほとんどは現象を構成的にモデル化する。その活動を全部否定するおつもりですか。

というわけで概念を構成的に記述することも大事です。それでやっと人間が理解して、他のデザインに生かしたりすることができます。パースが指摘した帰納・演繹・アブダクションみたいな循環はそのための方法論なわけで、人工物のデザインにそれを応用したのが一般設計学なわけです。

実は人工知能にも2種類あって、機械学習のほとんどは、構成的にモデル化するより差異をモデル化します。それが機械学習ブラックボックスになるとよく言われる本当の意味です。だってパラメータとか全部わかるんだよ?何もブラックボックスじゃない。人間の理解様式はそれじゃない、それは人間の認知様式であって、機械は認知で理解してしまうから、そこに人間とのズレが生じる。理解できないから「ブラックボックス」とか言っちゃう。で、論理推論したりする人工知能見て、「本当の知能だ」とかよくわからない発言が出るのです。どっちも様式が違うだけで知能ですから。

という前提

これが、ユニバーサルな存在論記述(オントロジー)からあらゆる表現が導き出せるというナイーブな人たちに対する僕の「んなわけないでしょ」発言の背景の一つであり、逆にオントロジー不要論的な人に対する「ちょっとまってよ」発言の背景の一つです。僕は東さんの本は読んだけど直接デリダは一冊も読んでないし、別にこの説明に差延から入る必要性は0なんだけど、まあ思いついたまま説明を書いておく。

こんなもの論文には書けやしないし、でも誰かから批判される状態にはしておきたいのでブログに書くのが適切だろうと。