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Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

法学に興味を持てるか

学部時代、全学部の授業を数個ずつ取っているはずだが、法学部では会計学しかとらず、あとは経済学部で民法を取ったくらいなので、実質、法には十分興味を持てなかったといってもいい。別途、生物多様性に関する国際法から条例までに関してとか、トピックごとには法を学ぶ機会はあるけれど、法学自体に興味を持てないのは何故かというのはひっかかり続けていた。

一つは、法が日常生活において自由という価値と衝突しがちであり、僕は自由のほうを人生を通して愛しすぎているために、法や規範といったものが感情的に嫌いだということがある。もちろん、必要性は十二分に理解しているが、僕にとって多くの場合は過剰だ。興味を持てない大きな原因が学術的なロジックではなく、そういう感情的なものであると理解したら、途端に、学術的に興味を持つための方途が見えた。

僕がトピックごとに法を学ぶ場合は必ず公共政策の一部としての効果を考えることになる。多様な人間が社会生活を営むためになんらかの法を共有し、実践することが有効であることは疑わないし、そういう効果に着目する限りにおいては大いに興味があるが、法学における法の取り扱いはそれを中心課題にしない。

法的安定性のために、法は法源から一意の認識を得ることを良しとし、その活動は法解釈学という枠組みで行われる。その時に、法的安定性と判断のスピードのために犠牲にされるのは、立法の根拠となった社会の(顕在・潜在問わずの)問題との関係である。憲法は一般の法よりも重要視され、なおかつ習熟した民主主義社会では一般的により硬性である。本来は憲法から慣習に至るまで、その硬性さや一意性というメリットの強さと、社会の問題との対応の悪さというデメリットの強さはグラデーションを描き、役割分担をしているはずだが、法が合法/不法かということをコードにするシステムであって、学問としての法学がその法システムの区別するもののモデル化に関する真/偽コードを法哲学や倫理規範に拠って立てる限り、社会の問題との対応に重点が置かれることはない*1。つまり、僕が興味を持っている全体像から分化した結果、興味のないものになっている。

そういう意味で、実定法学の中でも法解釈学は最も興味が薄いので、「悪法もまた法なり」に肯定的な立場からならまずは立法学を覗いてみること、(色んな意味で*2)否定的な立場からなら実質的法源等の生成過程を覗いてみることで興味を持てる気がした(実際既に後者に関してはイスラムの経典や法の解釈を民衆の興味にそって紹介する学者によるQAコーナーの分析をしている)。また、このように「悪法もまた法なり」というテーゼへの立場から体系化するような法学的観点でのメタな興味として法解釈学を見ることで、法学的観点自体が嫌いでも対象とするものにほぼ網羅的に興味を持つことができるな、と思った。

*1:最も社会の問題との対応に近いものを扱う営みに判例研究はあるけれど、そこでの問題性は法の枠組みにおいて不法であることが問題なのであって、対象内部の構造まで踏み込まない。それを丁寧にやってしまうとおそらく社会学だと見做されてしまうだろう。アマミノクロウサギ訴訟においてはそれを環境社会学が担っており、「原告らの提起した『自然の権利』という観念は、人(自然人)及び法人の個人的利益の救済を念頭に置いた従来の現行法の枠組みのままで今後もよいのかどうかという極めて困難で、かつ、避けては通れない問題を我々に提起したということができる」という裁判所の言い分は真摯だと評されるが、「そこ、前提なんで、簡単に揺るがせないんで、議論は他所でやって」っていう意味でもあるし、法哲学や倫理規範に拠ってしか議論できないので自然の「権利」という形でしか問題化できていないことも示している。そこで、生態系サービスとしての問題化、つまり調停のための権利の有無判断は留保した上で、本当に種が脅かされるか、緑の回廊などを設計することによってそれが回避できるか、といった問題化はなされないし、南九州開発株式会社がその奄美の豊かな自然を用いてサービスをしているのだから、奄美市が付加的に税を徴収して自然保護にそれを用いるといったような模索は法の扱うところではない。その模索が係争となったときに合法か不法かということを権利などの概念を用いて判断することにしか興味がない体系なのだ。

*2:イスラムの場合、善悪の根拠がクルアーンにあるので、それを悪かどうかを決める外部視点の持ち込みようがない。そういう意味で、その立場は否定される。