Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

ブラウザのデベロッパーコンソールで use strict した場合の振る舞いについてのメモ

基本的に、1回のコマンドでスコープが区切られているので、

"use strict"

a = 3

を別々にやると特にエラーが出ずに、

"use strict"; a = 3

でエラーがでるようになります。


また、以下3つではWindowオブジェクトが返りますが

(function() { console.log(this)} )()

'use strict'; console.log(this);

console.log(this)

以下だけ undefined が返ります。

'use strict'; (function() { console.log(this)} )()

これは

(function() { console.log(this)} )()

を理解するのが肝ですね、strict じゃなければ勝手に外側の this を引き継いじゃっている。

改姓に伴う手続き、とか

とりあえず予定も含めて。現在の進捗をマーカーで記している。【入籍の名義変更リスト&所要時間】もれなく効率よく手続きできる順番・おすすめスケジュール〈完全保存版〉 | みんなのウェディングニュース みたいなのは平成時代のものなので、それとは随分違う手続きになった。

改姓前

  • 証書を紛失した定期預金とそれに紐づいた地方の銀行口座の解約。旧姓の身分証明が必要な契約の対処は改姓後なかなか面倒だと思ったので。
  • 住所変更など済ませていなかったものがあれば済ませておくとよい、複数の項目が一気に変わると手数が多いことがある。僕は携帯の副回線の契約がいろいろ古いままでサポートセンターで対応してもらう羽目になった。

改姓後

改姓手続きそのものと、身分証関係

ここ、本当は、婚姻届の提出と受理証明書の発行だけやるべきでした。世帯の合併はやってもいいけど。旧姓併記に関する正式な手続きは戸籍の変更を待たなければならないので。

僕は先に同棲してたので関係ないですが引っ越しを伴う場合はマイナンバーの更新も同時に一旦必要です。新住所に住み始めた日から14日以内かつ転出予定日から30日以内に、転入先市区町村へ転入手続きをしてください。手続きが遅れるとマイナンバーカードが失効というのがあるので

婚姻届の提出と受理証明書の発行、世帯の合併、マイナンバーの更新、の3つをやったら、市役所で2時間以上かかり、仕事に遅刻した上、タクシー代1000円余分にかかりました。しかもちゃんと旧姓併記って申請したのに住民票の旧氏の欄「空欄」にされており、それでは旧姓併記の免許が発行できないので、出し直しです。時間とお金(300円)が無駄にかかる。ちゃんと旧氏の追加したければ戸籍の到着を待たなければならない( 旧氏(旧姓)併記について|足立区 その後、旧姓を付記するための手続きが必要。その説明なく、単に「異動履歴」のところに旧姓を書かれたけどなんの役にも立ちません。たぶんここらへん窓口の人も理解が曖昧なんだろうなぁ。

(注記3)旧姓の併記を併せて希望される方は、旧姓(旧氏)が記載された住民票の写し(コピー不可)の提出又は旧姓が記載されたマイナンバーカード(通知カード不可)(いずれも区市町村に旧姓(旧氏)を併記するための請求手続を行ったもの)を提示してください。

2週間くらいで戸籍に反映されるとネット上にはあるが、3〜4週間と言われました。「現在、戸籍情報連携システムの状況が不安定です。上記に比べて戸籍の記載までにお時間をいただく場合があります。」とのこと。本当にこんなところまで、日本ではシステムを作る人材が不足しちゃってるんだなと痛感させられます。

免許の更新とパスポートの更新はそれらがないとちゃんと旧姓の併記ができないので待ち。←イマココ

パスポートを更新についてはこちら:旧姓の併記を行う(ここはそのうち自動になるんだろうけどね。動向:パスポートのオンライン申請に向けて旅券法改正。戸籍の添付省略は2024年度以降 - トラベル Watch

ここで併記の身分証が手に入るようにならないと後段のほとんどの「旧姓のまま」手続きができない。

銀行とクレカは基本旧姓のまま、でも連絡は必要

ここは立項に値するほど色々考慮点があった。内閣府男女共同参画局旧姓使用の現状等において、旧姓による預金口座開設等に係るアンケート調査を実施しており、推進しようとしていることが伺える。全国銀行協会名字は変わったけど旧姓のままにしたいという項目を設けて、銀行の窓口に相談するよう勧めている。実際、銀行口座も旧姓でいけるところが増えている。

質問1:口座を持っている個人客から、「結婚して姓が変わったが、仕事上旧姓使用を続けているので、銀行口座は旧姓のままにしたい」と相談を受けた時、どのように対応されていますか。

質問2:新規に口座を開設したい個人客から、「結婚して姓が変わったが、仕事上旧姓を使用しているので、旧姓で口座を持ちたい」と相談を受けた時、どのように対応されていますか。

これに対し、3行からの回答は、「個人客から希望があった場合、運転免許証やマイナンバーカードなど新旧の姓がわかる書類を提示または提出してもらうなどの手続きを経て口座名義を旧姓名義のままご利用いただいている」というものだった。「お客様の利便性を考えて」の措置という。新規に口座を旧姓名義で開きたいとの要望があった場合にも、同様に受け付けているという。 しかし、私が実際に手続きをした際には、本店支店の窓口がこのポリシーを知らないこともあった。また、旧姓名義を使えるのは預金口座のみで、投資信託口座はそうはいかない。同じ銀行に旧姓名義の預金口座と戸籍上の名前の投資信託口座の両方を持つことはできないと言われ、私はNISA口座を解約した。

from 「結婚で姓を変更」どれだけ面倒か知っていますか 実体験でわかった選択的夫婦別姓が望まれる事情 | 家庭 | 東洋経済オンライン

この記事がすばらしく、できるかぎりこの作業をすることにした。また、ネット銀行としては楽天銀行明示的に旧姓使用を許可してくれているのでネットのメインバンクとして使っていくことになるかも。

いままでメインバンクにしていた住信SBIネット銀行は窓口によって回答が異なったので、「ブログ記事にしたいから正式な回答をもう一度ください」と問い合わせている。銀行で旧姓が使えればクレカも旧姓でいけるので、クレカと紐づく数多くのウェブサービスが旧姓でいけることになる。だから、銀行が旧姓対応することはすごく大きな意味がある。クレカ側についてはメインにしているviewカードは旧姓のままでOKと言われました。紐づく銀行口座が旧姓なら大丈夫ですと(そうでなければ引き落としに問題が生じうる、そこは銀行側の問題だけど)。カードの確認をしてから返答いただいたので、ブランドによってはダメである可能性もある。ちゃんと問い合わせに関わるメモも私に紐づいて残しておいてくれるということで Good な対応だった。

ペンネームとしての英語表記

日本語名にわざわざ()で新姓を書ける機会は少ないので、基本的に旧姓で行こうと思う。しかし、論文の英語名などは自由にできるのでミドルネーム扱いでつかっておけば、パスポートとの一致の問題としても良いので、考えている。しかし、当初考えていたKAMEDA N. Akihiroは非日本語話者にはKAMEDANでひとまとまりに見えてしまい、よろしくない。KAMEDA NISHIHARA Akihiro とフルで行ける時はフルで表記するが、スペースの問題でそれが叶わないこともあるだろう。KAMEDA, N. Akihiroはなんか約物が多すぎる気はする。KAMEDA (N.) Akihiro は日本語では新姓を書いていないことにも対応するので悪くないかもとも思うが、あんまりカッコをつけるのは一般的ではない。ミドルネームを書く時点で文科省の SEI Mei 形式から離れているので、Akihiro N. KAMEDA にすることにした。

その他

戸籍の将来について

  • イエを把握するためという意味では、戸籍制度は形骸化してきている cf. 戸籍 - Wikipedia さらに前の有力百姓を単位とするものが馴染まないのは当然のことであるが、イエを単位とした1872年の(逆に言えばたかだかそれからしか歴史のない)壬申戸籍 - Wikipedia は、戦後1948年を大きな転換点として形骸化したと言える。核家族化などの社会の変化に対応する物であり、その変化は然るべきものであると考える。身分登録制度としての戸籍、 住民登録制度としての住民票、 身分登録と住民登録の連携制度としての戸籍の附票の歴史は住民票 - Wikipedia に綺麗にまとめられている。江戸の宗門人別改帳 - Wikipedia のように宗教的な把握は現代ではなされておらず、信教は自由であるとともに、公は把握しないということになっている。人別改帳に相当する税収のための登録は住民票に役割が受け継がれている。実態に追いついているというべきであり、2024年3月からマイナンバーと戸籍が紐づいたことで結婚の際の戸籍の証明は裏で自動的になされるようになった。パスポートも更新など一部業務で戸籍情報は自動連携する方向に進んでいる。
  • 本籍地は昔から竹島や皇居にする人がいるように、本来の意味の本籍とは無関係になっており、ずっとそこに住み続けてきたことは附票の集計で確認すべきことである。そもそも、土地への愛着(?)を示すという役割はこの制度に不要であり、将来的には削除されるべきと考える。一方で管理者を示すという意味では有効であり、自治体 + 戸籍番号 で戸籍にIDをつけ、管理するということは実際はすでに裏で行われていることであり、本籍自治体と本籍ID(これには自治体IDを含む)という概念に代替されるべきである。
  • アメリカではこういう制度が(おそらく意図的に)成熟しておらず、選挙について有権者登録をするなど制度が分かれているが、日本の住民票システム自体はある程度多目的に用を果たしており諸外国の制度と比べても合理的・効率的である。cf. Resident registration - Wikipedia
  • すでに述べたようにイエ制度は現代にそぐわないが、核家族を超えたまとまりを把握することで個人を知りたいという欲求は、イエ制度を元々支えていた日本的な信頼のありかた、今後ボトムアップな歴史を構築する上で家族史の記述運動を盛り上げたいという個人的目論見、双方から検討の余地がある。100万程度出して外注で家系図と記述を作成するのにも戸籍の情報が中心に使われるわけで、戸籍制度自体がなくなるというのはいささか寂しい。戸籍とその構成員の双方にIDがついていてグラフデータベースとして検索が可能になっていれば、婚姻などで新戸籍が作られることを含めて全てネットワーク的に情報を追えるので、個々の単位が核家族でも問題がない。家族史の記述について、自治体に公文書館の設置を進め、そこに戸籍IDの群と紐づいた家族史を公開・非公開(戸籍IDに直接間接に紐づく人のみ閲覧可能)で(デジタル)納本する制度があると良いのではないかと思う。そして、それは自治体史と有機的に繋がるのが理想である。日本のじいさんは自伝書くの大好きだし、それを活かせばいいさ。ニュージーランドの図書館などでは自分の出自を調べることを手助けするリサーチセンターがあったりするので参考にされたい。
  • 夫婦別姓「議論しよう」と“保守派”の稲田朋美議員が説く理由:東京新聞 TOKYO Web この記事とか読んでたら意外と稲田さんなら分かり合えそうという気がしました。家庭裁判所への届け出とか面倒じゃんとは思うし、「家族解体運動」とかに言及しているあたりは保守の陰謀論をまともにとりあげるなよという気はするが。子供の姓をデフォで戸籍筆頭者の姓にするというのは万人に強制しなくてもいいと思うが個人的には賛成できる。ちなみに「家族解体」でググって見つけた、それに一瞬だけ言及している家族主義と個人主義の歴史社会学 : 近代日本における結婚観の変遷と民主化のゆくえは面白かった。「姓の本質主義」を避けるという理路のところで出てくるのだが、これは現代社会に対して歴史学は何ができるかを批判的に考える際にも有効だと思う。
  • 壬申戸籍 - Wikipedia の実態とメリットを把握しておくことは、保守的に構想するのに重要である。そこに記されているように、妾や家来なども家の一員として公的に認めてもらえたことは当時としては意義があったと思う。差別的な記載は当時初期から問題視されていて一部でそういう運用が行われていただけという灘本氏の指摘は重要である。その一部の運用を現代でもしたいと考えている、そして自分が差別される側になる可能性を全然考えていないネトウヨどもは、そこらへん耳をかっぽじって聞いておくべきである。寺や氏神が書かれているのは前述の宗門人別改帳の系譜だし、ここらへんは家族史の記述の際に重視される必要があると思う。そして、現在の住民票にあたるものは寄留という制度であり、本籍の土地を代々守るというのが重視されてきたことの裏返しで、本籍以外は一時的に住むという扱いを受けている。現在のみの経済的合理性のインセンティブだけで地方を発展させるのは、現代のグローバルな資本主義の力学の下で困難であるので、墾田永年私財法がなしたように、ある土地を代々「活かす」ことに対して、長期的なインセンティブをつけるというのは考えても良いし、近年問題になっている外国人による土地の買い占めと雑な利用()を法的に対処するとともに、そこで「外国人だから」ではない、地域そのものおよび地域の他の人々とのかかわりを権原とした直接(近代的な意味で)所有しない物事に対する権利の染み出しを設計できる。これは住民訴訟を訴訟形態として持つ自然の権利訴訟でもその自然との関わりが住民の原告適格をささえるのと同じロジックである。

夫婦別姓を可能にした方がいい理由

なぜ選択的夫婦別姓制度が必要なの? 〜旧姓の通称使用で困ってます〜 | 選択的夫婦別姓・全国陳情アクション|一般社団法人あすには運営 みたいな運動のおかげでここまで進んできた、敬意を表したいし決して批判したいわけではないが、どこまで通称利用が可能になっても必要であるといえるのに、通称利用の可能性などについての理解に少し不足があるように見受けられるのでそこの部分をアップデートしておく。手短にいうと、このまま通称利用の可能性を広げれば問題はないが、対応する事業者側にコストがかかることになるので、それを把握し、適切に対処せねばならない。可能にしたらいい理由は「特に夫婦別姓を妨げる合理的な理由がない」これだけで十分じゃないかという気はする。たまに、よく、姓にアイデンティティを強く感じている人間が、権利として夫婦別姓を主張することがあるが、そういう感情的・宗教的なものだと、家族というものは皆同じ姓を名乗っていて欲しいと(個人として)感じる、という感情的・宗教的なものと平行線なので、まったく理由として機能しない。

社会保険、健康保険、年金、銀行口座、給与振込、確定申告・・・といった場面では、原則として旧姓使用ができません(一部例外あり)。

総務省が作成したポスターでも、住民票・マイナンバーカードの旧姓併記について「保険・携帯電話の契約や銀行口座が旧姓のまま引き続き使えます!」という文言を、「各種の契約や銀行口座の名義に旧姓が使われる場面で、その証明に使えます」に差し替えています

それは銀行や保険会社への強制力となりすぎないための配慮でしょう。逆にいうと、旧姓利用への対応は、そういう各種サービスへの非本質的な負担になるので、夫婦別姓は実現すべきです。携帯電話の契約は携帯電話不正利用防止法によって縛られていると思うので、訂正したのでしょう。それは、自分宛ての郵便物が届いたのに「カタカナだから渡せません」 総務省が日本郵便に見直しを要請 というニュースにあったように本人確認書類側の問題だと言えるので、改善が必要で、携帯電話の契約は旧姓でできるようになるべきです。銀行と同様、サービスへの負担という問題はありますが、携帯会社はそれくらいできる会社が多いはずなので大丈夫でしょう。

研究者向けIDによって、業績情報を管理する仕組みもありますが、論文とそれらのIDを紐づけることは普及しておらず、解決方法とはなっていません

はい、これは進めるべきです、とりあえず旧姓が使えるようにすべきというのはそうですが、すでに実現されていると思います。

旧姓使用ができない場面が多いということは、従業員に旧姓使用を認めている企業等は、戸籍姓と旧姓を使い分けて管理するということです。これにより人事関連や労務の管理等が煩雑となり、負担がかかります。

これはサービスへの負担と同様一理あります。でも、自前で管理ソフトを開発するのでなければ別に負担になるとは思えないですけれど。

(リンク先)夫婦別姓が制度として確立している国際学会などでは、事情が理解されにくく説明が大変なんですよ。しかもこの説明は、手続きを担当する職務の方々に強いられることもあるので、私の姓名が多くの人々に迷惑をかけているという気がしてなりません

戸籍の姓と通称を分けるという選択を認めないという思想でなければ、上の理由は瑣末に聞こえます。新しいパスポートで出張したときに苦労があるか確認してみましょう(これに関しては無い気がする)。

ゴミの分別をするように、粗悪品を返品する。

こたつを買ったら、粗悪品が送られてきて、返品をした。まずUV加工で傷に強いと謳っていたのに、おそらくメラミンかPVC加工で、初期から天板に欠けがあっただけでなく、その旨を申し出たら「仕様で問題ないので使ってくれ」と返信がきた。ちなみに芯材に使われているMDFは水分に弱く、欠けの部分から水分が入り込めば盛り上がって上の加工ごとそこからダメになる。さらに、足を折りたたみ構造にしていて、強度が必要なジョイント部分も同様の素材であったため、すぐに折れてしまったので返品した。返品・返金対応は丁寧であったため、まあそんなに会社に対して怒っているわけではない。むしろこれは珍しい例ではなく横行している例だと思って、その構造的な問題を憂いてこのエントリを書き始めた。

この会社はお互いにリンクを張り合っている販売会社と輸入メーカーの2社がペアになっている(2社の代表取締役社長は同じ苗字の男女なので夫婦だったりするのかもしれない)。中国から輸入しており、輸入メーカーはN2を求める採用をしており、中国人留学生などを中心にリクルートしているのではないかと伺える。楽天市場からの対応も名乗られた名前は中国人名だったが、高度な敬語を含め一切ミスが無くN1レベルはクリアしていた。別に国産がどうとか言うつもりはない。流通経路のどこにもこれを売ってヤバいと思える人間がいないことの原因を考えるヒントとして、だ。製造の知識がある人間が日本側に居ない。だから、か、意図的か、MDFを芯材としている塗装の欠けについて、「問題ないので使ってくれ」と言えてしまう。UV加工に種類があるなどの可能性があるし、私もプロではないので自信はないが、少なくとも学習机によく施されているピカピカな感じのUV加工ではなく、それがもつ強度を持っていないことは素人目にも明らかだ。

もし、製造の知識の問題ではなく意図的だとしたらどうだろう?それは法の規制か、ユーザのレビューで排除されるべきだ。

JISやJASといった規格は「わかりやすく」品質をランク分けしたり保証したりしてくれる。電化製品なら電気用品安全法によって2012年7月1日からLEDランプの「ちらつき規制」がなされるといったような規制が行われる。

ホルムアルデヒド量に関しては、規制と規格があって、たまに天板についてもそれを表記していたりするが、今回のような問題に対応できるような規制と規格はパッとみつからなかった。

あとはユーザのレビューによってとなるが、楽天市場は、今回のように返品してしまうとレビューが書けない仕様になっている。その問題を指摘したら「お客様の仰る「キャンセルに対するレビュー機能が必要」といったお声をいただくのもごもっともであるかと存じますので、いただいた内容は今後のサービス改善のため間違いなく弊社担当部署に共有し、今後の運営に際しての参考とさせていただきたく存じます。」とは返信が来た。

とても面倒臭いことを考え、している自覚はある。たぶん100人に同じものを売ったら、50人は不満を持ちつつも使ったり、捨てて買い直したりするんじゃないだろうか。ちゃんと返品までするのは10人いないと思うし、楽天市場のレビューシステムについて問い合わせるのは僕だけだと思う。それがまさにこういうビジネスを成立させてしまう。同居人にはこの面倒なやりとりをしていること自体を少し嫌がられてしまった。彼女は環境に対する意識は高いので「ゴミを売らせない」という理路もあったわけだが、それより「十分な人数がこれをやっていればよい環境が保たれるのに皆がサボることによって環境が悪化する、ゴミの分別と同様の問題だ」と構造的な説明をした。あまり納得されなかった。一方、昔、郵便局で母が粗悪な金融商品を売られ、そのキャンセルに郵便局に怒鳴り込みに父が行き、恥ずかしかったという感想を述べる母に、それに苛立って父がさらに雷を落としていた、それを見て子供心に「ひどい」と思っていたことを思い出すと、ちゃんと反面教師にせねばならぬので、「あくまで、僕の満足のためなのだ」という言い訳をしつつ、遠慮して、こういうことをしている。まあ、ゴミの分別も、多くの人はその先の実効的な環境保護への貢献ではなく、自己満足のような短いループで行動できているのが現実だろう。

政治的には僕はこういう考えに非常に共鳴する。でも、これに反対する人たちは余裕がないわけで、そして「大人の仕事」は年々複雑に、膨大になっていっているわけで、「大人の仕事」をサボってる人を叱るのも違うと思っている。大人の仕事ができるだけの能力をもった市民を育て、それが片手間でできるような環境を整える、そこからやらないといけないし、規制や規格の作成・制作における利用・購入における利用、適切なレビュー、上手なDIY、民具の理解、…etc 全部人工物工学的な知識の流通の問題があって「簡単」になっていないので、そこは私の仕事だと思っている。(なんか人工物工学研究センター (RACE)に居てた時のことを思い出しながら書いているのだけれど、15年ほど縁が切れたままだし、新装して吉川弘之先生の匂いがしない研究所になってしまっているようで今後ともあまり縁がなさそうである、残念。)

この発言の直接のきっかけは、仕事をしながらミーティングに参加していて、先日のイベントの感想を振られて、本当に拙くしか話せなかったこと、それが自分であまりに意外なほどに拙かったことだった。他にも面接やインタビュー(英語にすると同じだが)でうまく話せなかったり最近立て続けにいくつか、知性の衰えを感じたためにこういう発言をしたのだが、そういう茫漠とした問題把握そのものが、知性の衰えの一つの現象であって、精緻に記述することなしには対策できないと思ったので、たぶんうまく書けないとは思うのだけれど、ここに手がかりを書いておこうと思う。

最近ブログを更新していないことの理由と効用 - Drafts、を書いた2016年ごろから、このブログにも「意見」を書くことはかなり控えてきたし、まあ、それで良かったのではないかとも思っている。いくらブログを書いたところで、フィードバック無しに表現は上手くはならないし、このご時世、それなりに文章が上手くないとフィードバックすらもらえない。一方で、シェアハウスに住んでいて人と話す機会は多かったので、それである程度維持されてきた、人に対する言葉の表現力というものがあったのではないかと思う。

プライベートな変化で、シェアハウスを出て1ヶ月になる。これと衰えの自覚は無関係ではないと思う。週に一回、オンラインで友人と話しているし、もちろん仕事で話す機会はある程度あるのだが、それでは何かが足りていない。引っ越した先はご老人がたが多い環境で、公園でも自転車置き場でも老人と話すが、それは全く表現の練習にはならない。

本を読んでいても目が滑る、動画を見ていても2倍速でないと頭に入ってこない(標準だとそもそも遅いと感じるし、他の考え事をしてしまって集中できない)。入力の方もあまり上手くいかない。

例外的なのは、率いている翻訳のミーティングで、丁寧に読めるし、細かいところの議論を(もちろんみなさんのおかげもあって)整理して話せていると思うし、入力も出力も悪くない。

たまに、学生指導のミーティングなどで、感謝されることもある。我ながらよくそんなにポンポンとアイデアやアドバイスが出てくるなと思うこともないわけではない。

総じて見ると、そんなにいきなりダメになったわけではないのだけれど、不安を感じる現象が生じているという段階で、原因はぼやっとしか捉えられていないという状況だ。そして、ああ、次の作業に移らなければならない。この「忙しさ」は何よりも知性を奪っている。この件はちゃんと加筆して、整理していきたい。

指示の強い名詞の辞書的記述

Workshop on Digital Lexicography に参加して面白かったのだが、最後の質疑応答で、「Lex-0 は辞書を記述するのに向いていると受け取りましたが、一方でその名の通り Lexicography にフォーカスしているので、一般に less Lexicographic とみなされそうな辞書、たとえば Encyclopedic な辞書や専門用語に関する辞書などには向いていないのでしょうか?どのように扱えばよいでしょうか」という質問をToma Tasovac (DARIAH)さんにさせていただいて、それはそれで専用の記述体系を作るべきじゃないかという返答をいただいた。つまり Lex-0 はそういう目的にはあまり使えないかもしれない。

語の間の部分一致的な cognate の記述などはまさに TEI 向きだと感じたが、そもそも辞書的な知識構造に TEI を持ち込む必然性はそこまで高くはなく、Lemon - Lexicon Model for Ontologies とかもあって知識グラフ的な記述の方が向いている側面も多い。まだ今は可視化や検索のツールが整備されているわけでは無い、と言う意味でも積極的に TEI で辞書知識を書くモチベーションはあまり無いかもしれない。XMLベースなのだから XPath などXMLのレベルでできることがあるとはおっしゃっていたが、そういう標準化の恩恵を言うなら RDF には SPARQL がある。RDF の中で地理情報を扱うのに Well-known text representation of geometry を使ったりするように、部分的に TEI を使うという可能性は十分にあると思うので、私はそういう方向と、Lex-0 がもう少し成熟してからRDF からのデータ変換を通じてデータ資源として貢献するという方向で関わろうと考えた。


ところで、「Encyclopedic な辞書や専門用語に関する辞書」の役割について、もう少しちゃんと考えておこうと思う。今想定しているそういう辞書で重要になるのは、集団語や方言(広義の位相語)の名詞や固有名詞だ。これらを指すために外延が狭いという意味で「指示の強い名詞」という言葉をタイトルで造語した。固有名詞(Proper nouns)は固有表現(Named Entity)とするとより範囲が広がり、「副社長」のような役割やIDや時間などの数値表現も入ってくるが、ここでは基本的に固有名詞でいいだろう。固有名詞は言語的に特別扱いされることが多く、私も、クリプキらに似た記述説的立場を取る*1

辞書でも指示の強い名詞は扱えるし、元のデータ形式はどうでもいい

大槻文彦の『言海』(1889-91)を嚆矢とする日本の近代的な国語辞典は、当初、固有名詞や「高尚なる」専門用語は基本的に採録しない、いわゆる普通語の辞書が続きます。

from 国語辞典は百科全書の夢をみるか? :来たるべき辞書のために のようにそもそもに固有名詞は一般の辞書に載せないという場合もあるが、人名や地名を中心とした固有名詞が辞書に掲載されていることは一般的である。一つの大きな役割は曖昧性のある語の案内である。伊勢のデジタル大辞泉の項目 でも旧国名と現在の市名とに振り分けている。伊勢 - ウィクショナリー日本語版ではさらに「難波の葦は伊勢の浜荻」ということわざをある種の用例として案内している。要は概念の同一性ではなく表記の同一性によってまとめているというところに辞書の大きな特徴があり、紙ベースの場合にはカテゴリ vs 五十音順といった並べ順の違いも生じる*2。固有名詞のリストを編集する時にただその編集の仕方によって辞書にも辞典にも見せられるというわけである。言い換えると、これは本質的にデータセットとしてのデータ構造のレベルというよりは、それを処理するインタフェースとそのインタフェースが扱う中間データの構造によって辞書にも辞典にもなりえ、RDFでもTEIでも元のデータは書くことができるだろう。

指示の強い名詞の用例記述

ウィクショナリーに言及したが、デジタルのそれらの良いところは典拠を詳細に示す余裕があるところだと思っている。上記の会の雑談の時にも話したが、ウィキペディアと異なり用例を集めてそこから辞書の説明を作る部分の創作性については独自研究に近いくらいの創作性が許容されており、用例を集めるプラットフォームとしての良さがある。それを上げるためにテンプレート:用例出典 - ウィクショナリー日本語版を作ったりもした(が誰も使ってくれない涙)。一般名詞について考えると、用例の良いところは小鯛はごちそうでありかざぐるまはエモく筵織のズボンは一張羅になるということが分かることである。固有名詞についても同様なことを期待する、つまり辞書に「夏目漱石」の用例を載せることの意義というのは言語学的ではなく社会学的になりえる。しかし、小鯛はごちそうであることが用例でわかるような効果はいつも期待できるわけではない。「その様子を目にした俳人で知られる高浜虚子夏目漱石に小説を書くことを勧めたことで、処女作『吾輩は猫である』が誕生するに至ります」:この文章は文学史としての価値は非常に高いが、辞書の用例としての意義を認めることは難しい。「文豪・夏目漱石の妻、鏡子は、ソクラテスの妻に並ぶほどの悪妻だったと言われています」:こちらに至っては指示対象が彼に関連あるとはいえ彼自身ではないのでより一層辞書の用例としての意義を認めることは難しい気がする。一方で、詳しくは後述するが、これは Factoid とでも言うべきものであって、また RDFとも親和的だ。

固有名詞の用例に、小鯛はごちそうであるような意味の付加を認めるものにはどのようなものがあるか?「緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ」のような表現は、用例としての意義はありそうだが、これはこの文脈ではポルシェは多くのポルシェの任意の一つでよいなど固有性を幾分か喪失していることによると考えている*3。逆にいうと、一般の名詞よりは、意味を捉える際に外延の事実に負う部分が多くなる分、普通名詞に比べて文脈から読み取れることは少なくなる、つまり事前にポルシェがどんな車であるか知ってないとこの文は期待された効果を発さない。「現代のシド・ヴィシャスに手錠かけられるのはただあたしだけ」というのも用例として意味があるが、それはこここではシド・ヴィシャスと彼の恋人ナンシーに関する Factoid を暗黙に参照しつつも、明白に彼を提喩(シネクドキ)として用いることですでに固有性をかなり失っている。このように文脈によって固有名詞は固有性を剥奪されることがあり、それによって名詞の用例と同様の用例の意義が出るというだけなのかもしれない。さきほど提喩としたが、より正確にはantonomasia(代称)と呼ばれるらしく、https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/194/194-2.pdf がこの話におけるすばらしい参考文献(辞書?)になっている。

指示の強い名詞のうち固有名詞ではないものとして、「とおし」という民具のカテゴリーについて述べる時は、固有名詞とは違い「何が「とおし」という言葉で指されるか」「コロケーションとしてどんな語があるか cf. とおしで選別する」を用例から探ることができるという点で、一般の名詞と同様の用例の意義はあるが、後者は「篩の一種である」とだけ分かれば意味がなくなることもしばしばである。古い用例だと、それがその時代に存在してどういう書物でどう記述されているかということ自体は興味深く、そういう Factoid 的な意味はある。また、どれがとおしと呼ばれ、どれが呼ばれないかという前者を考えるならば、一般的な辞書と異なり「呼ばないもの」の記述が重要になってきそうなど、これもまた外延が果たす役割が大きくなる。こういう名詞の用例は、内包を言語的に補足するものではなく、内包の根拠を示す、もしくは社会的・歴史的な意味を補足するものになる。民具のカテゴリも調査も永遠に不十分であるように、こういうものは辞書の生成過程に相当するものを、適切にグロテスクに(整理されずに生々しく)見せるようにすることが用例の採集と記述において重要だと考えている。

あと、そうなってくると、用例ではなく既存の説明というのが意味を持ってくるようになる。このカードでは「とおし」を「大形のふるい。ぬかをふるうもの。」と書いている、このカードでは「臼で挽き割ったとうもろこし、そばなどの粉をおろすのに使用。」と書いている、といったような例を比較検討して語釈を書く。固有名詞についても「⚪︎⚪︎は」から始まる文を多数あつめる。これは Factoid に意義配置でも用いられる頻度概念を持ち込むためにも使える(後述の意義配置の話参照)。

  • 固有名詞については antonomasia のように固有性を剥奪された文脈だけが用例として再録するに値する
  • 専門用語の名詞については一般名詞と同様だが、内包の根拠を示す、もしくは社会的・歴史的な意味を補足するものになる
  • 根拠を示すのが多数の既存の説明という世界

Factoid と用例記述

ここでの Factoid とは "Factoidモデルはその名の通り, Factoidを中心概念とするモデルである. Factoidとは, 一次史料中における人物への言及を意味し, それは出来事の文脈であったり, 何らかの社会的関係の文脈であったりしうる. それゆえ基本的には, そうした出来事や社会的関係を中心として, それに時間情報や場所情報, そして関係する人物についての情報を紐づけていくという記述法を採ることになる." (小川 et al. "歴史一次料の 知識構造化ためFactoid モデルの拡張")というものだが、これはプロソポグラフィの文脈なので「一次史料」「人物」に限定されているだけであって、必ずしもそれに縛られることはなく Named Entity 一般に言えることである*4。だから Factoid-based な固有名詞の辞書的記述というのはあってもいい。それは用例の記述になり、幅広い時代の用例が有効だということになるが、特に意義配置の順序が歴史的順序の場合(しばしば歴史主義と呼ばれる)にその観点は重要になる*5。ちなみに、RDFそれ自身は順序を表現するのが苦手(cf. rdf:List の複雑性)だが、順序に相当するプロパティを持たせるなどいくらでもやりようがあるので、そこはTEIが必須になる理由にまではならない。しかし、自然な辞書的記述にXML+XSLTは便利だろうから、RDFでの辞書がそれで可視化される未来がくるならばTEIに変換するのは良い手である。

*1:固有名の意味論 あんまり直接的に同じ議論をしているものが見つからなかったけど、内包と外延と固有名詞の話をしているのってこういうのとか?(この論文には賛同しないけど。AはAという事実ではなく、Aと呼ばれるものを意味する、ってのはクリプキウィトゲンシュタインパラドックスにおける懐疑的解決(真実は言明できないが、正当に言明できる)と同じで、結局記述説的立場で説明し切れるじゃんって思うし。)

*2:Wikipedia:ウィキペディアは辞書ではありません - Wikipedia 辞書と百科事典の違いの基本的な認識として。どっちもスタブだと似たような感じになるとか、まとめ方が違うとかという話。

*3:この例は https://www.jstage.jst.go.jp/article/atem/20/0/20_95/_pdf から取った

*4:Michele Pasin et al. "Factoid-based Prosopography and Computer Ontologies: towards an integrated approach" で"The somehow ironic flavor of the name factoid is intentional, and reflects a concern that historian often have towards the veracity of sources, since the action of taking materials out of context has to be done with care. "という注釈とともにノーマン・メイラーの造語であるファクトイドにインスパイアされていると書いている。

*5:辞書の意義配置の順序に関して、高増 名代「OED における意義配列 ―James Murray はなぜ論理的順序を採用したのか?―」で「頻度、意味的つながり、年代」の3つが紹介され、OEDが純粋に「年代」ではないことが解説されている。

いつもなら、QTの中で大体似た立場なのに⭐️つけて終わらすのに、ダメなのしか見つからなかったので、

きゃとらん𝕏 on X: "成年した女性が9歳の女児になりきっていわゆるメスガキ構文を使ったネタ曲を公表して、それがTiktokで流行って男女問わず女児を性的消費するのがアリな雰囲気になってるのキツすぎる VTuber最速で1000万再生 しぐれういの楽曲「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」 #Yahooニュース https://t.co/jGixCjFXbw https://t.co/5TJKlNf1v3" / X

について私の見解をメモしておくと、

  • 最も relevant な文脈からの事実認識23/10/3 『粛聖!!ロリ神レクイエム☆』はロリコンソングではありません - LWのサイゼリヤ
  • 一方で、少女が性的に搾取されることが世の中で実際に生じている以上、それに関わる表象をネタとして消費するコンテンツとしてゾーニング無しでは不適切である
  • TikToker はそれらの文脈を認識しようとしないし、キャッチーかどうかでしか物事をみていない、それはそういうモノだし、その良し悪しは持ち込まれる価値判断でしかない(そういう人間が大量にいる社会が好きかどうかは畢竟好みの問題。「社会」をやっていきたい僕は嫌いだが、その「社会」観はアナクロモダニズムだとか言われたら平行線な反論しかできないと思う。)「社会」をやっていきたければ、TikToker の「文脈を無きものとして扱う」文化自体に、外から relevance の判定基準を持ち込んで「文脈はどうやったってなかったことにはならない」と言うしかないと思うし、それはとりあえず価値観の力関係的に強いとは思うが、そういうことをしてるって認識は必要。TikTok の運営会社がそういう「社会」観を共有できないような国の会社なので、そういう意見がSNSで優勢になったとしても実効性は謎。
  • Twitter の企業アカウントなどはそういう Tiktoker と同様の存在として見られるところまで「公的さ」を失っていない。
  • そこらへんを踏まえて、「男女問わず女児を性的消費するのがアリな雰囲気」になってはいないし、そんな雑な捉え方をするのはむしろ害を重ねている。

あずまんと福島みずほの件

ツイッター(跡地)でこういうこと言及するのが嫌なのでこっちに書いておくけど、

という話とそれに同意するツイートがちょいちょい流れてきて、真相が気になってしまったので少し見た。結論を先取りしておくと、デマというほど単純な話では無いし、でも、あずまんの福島発言解釈はよろしくないので「現在の立場から」訂正したほうがよいとは思う。

live.nicovideo.jp

ここからの高々5分ちょっと見ればわかる。福島さんは今から見るとかなり抑制的なものいいをしていて、一方で統一教会自民党との関係についてはちゃんと切り込むべきと主張し、自身もまだ不確定な中で言及することによって切り込んでいる。

東浩紀が統一教会を擁護しているというデマにつきまして|東浩紀

統一教会を擁護しているというのはデマだというのは同意するしそういうデマもツイッター上にあるのはあるだろうが、「「彼は統一教会と結びついていたのだから襲撃されるのもやむをえなかった」と解釈できるような発言」であったとは言い難いというのが私の個人的な感想であり、一方であずまんがそう捉えたのがこのニコニコの場のコメント欄の雰囲気、当時の雰囲気もあってのことである、つまりあずまん側も本気でその解釈をしていてもおかしくないと感じた。

結果的にその後の調査とかから統一教会自民党とズブズブであったことは問題とされたわけで、4つのレベルのうち3つまでは言えてしまう状況にあると思う。つまり、

  • レベル1: 犯人の動機として統一教会自民党との関係があった
  • レベル2: その動機は事実に基づくものである
  • レベル3: その動機からして襲撃は有効な手段である
  • レベル4: 襲撃されるのもやむをえなかった

レベル1で止まるものとしては京アニの件など、犯人が事実認識を正しくできない状況にある場合が相当する。もし、襲撃自体が許されないことであるから犯人に正当性を与えないために、自民党への追及も一切無しにしましょうという合意が与野党やメディアも含めてなされたという結果になっていたらレベル2で止まっていたが、実際は多く報じられ、多くの影響があったので、レベル3までも言えるだろう。そして、レベル3とレベル4の間に多くの人は線を引いていて、福島さんもすくなくともレベル4よりは手前に線を引いたように発言されている。

今「すくなくともレベル4よりは手前に」と言ったように不確定な状況下ではレベル3についての判断はできなかっただろうし、個々ではなく大衆という集合的に考えた場合に、レベル3まで認めたら、そこからレベル4を「演繹」する人たちもいるので、このレベル階層は階段というより坂になっている。世の中の空気次第では、レベル3を認めたらそれがレベル4を認めることにつながるという関係はあるということだ。その影響関係をもって「解釈できるような発言」と、たぶん、あずまんは本気で思っているのだろう。実際解釈が100%不可能かと言われれば可能なわけなので、「解釈できるような発言」ではある。でも、それはあの場であずまんがそういう言い方をしたことが、福島さんの発言の解釈をそのように、つまりレベル4まで引き上げる方向に効果を発揮してしまっているのも誹られて然るべきだと思うし、メタな言及ができる状況下で「その解釈を許さない」と言えばいいわけなのだ。

彼は賢いのだからこんなことは分かっていて言っていると好意的に解釈すると、「そうやって言ったところで、そう解釈して統一教会やその関連の人間に危害を加えようとする人間は発生するのだから、紐付け自体も許さない」というのがあずまんの立場だということになってしまうと思うが、その立場にはここで個人的に明白に反対しておきたい。まず、世の中にはレベル3や4の問題で紐付けすら控えた方がよい問題は存在する。バックラッシュがあまりに激しい問題などはそうだし、マイノリティに本当に力が無い問題などはそちら寄りになる。日本が犯罪多発の不安定な社会だったらそれもその判断に影響するだろう。「大衆はさておき、私は正しいことを言う」というのは力を持った発言者には許されない。大衆はそこにいる。あなた(この文脈では福島さん)はマスコミュニケーションをしている。そこまでは、おそらくリベラルな人間の中ではかなり僕はあずまん寄りに物事を考えている方だと思う。

でも、現状、2世の苦しみなども話題に上り、統一教会関係者を単なる加害者として叩く方向にはいっていない以上、ことこの問題に関しては紐付けはある程度うまく機能したと言えるだろうし、そこで発生した無辜の被害があるならばそれを個別に指摘するのが倫理的なネット民がやるべきことであり、個別の指摘をまとめあげて端的なモデルを提示して見せるのが賢い人間のやるべきことである。大衆不信からあの紐付け自体を否定してしまったら、ここに辿り着いていない。そして、どれだけ、結果的に良い変化が、あの銃撃のあとに起ころうとも、銃撃自体は許されないことである。良い変化は、事件を良い変化に結びつけた人々の努力の結果であるし、その一つに、あの不確定な状況下で抑制的に、でも適切に追及を行った人々はいるわけで、私は福島さんの発言はそこに属すると思う。また、私たちは銃撃を介さずにその変化を起こせたように努力をすべきだし、それを可能にする社会を築かねばならない。