Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

最近仕事で怒ることが多い。今日も一度キレてしまった。任せていた仕事の対処に付き合わされること自体はまあ仕方ないにせよ、そのスピードが遅くて、一分一秒を争う時にダラダラと数分取られたために「こんな対処にかかずらわっている時間が無いので任せます!」と言い捨てて去ってしまったのだ。まあ、色々積もってたのもあるけれど。別に同じことを丁寧に言えればその方が仕事はスムーズにいくので、全くキレる必要はなく、単に反省すべき事項である。

スピードが合うと心地よい。それが喧嘩であってすら、お互いに思考がリニアモーターカーのように交互に加速して口や呼吸がついていかなくなるほど加速するのは楽しいし、ゆっくり一緒に星を眺めているときに、その幸せが染み渡るようにポツポツと話すのも心地よい。その反対としてスピードが合わないことは不快だ。自分が遅い側に立つのは、研究関連だろう。本当に研究者なのか…。いわゆる頭の回転では、まあ大抵早い側に立つ。それぞれの場で苛立たせたり苛立ったりしているのだろう。

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」このフレーズの原典自体は宗教的な意味での精神的向上心を特に指しているようだが、必ずしも宗教的に限らず、このこと自体は大抵真だと思う。それは 馬鹿 / 賢さ という軸において、賢さ方向が向上であることは容易に合意の得られることであり、はじめから賢い人というのはそれなりにいるものだが、結局この世自体が変化が激しいので、全く無為にしていて賢いなどということは1万人に1人も居ないので、大抵真になるのであろう。向上心が無い人に賢さを見出して、惚れたことは数度あったけれども、それは『モモ』のような忙しさに対するアンチテーゼを見出したに過ぎない。忙しさにかまけていることも、それまた向上心の欠如である。馬鹿であることは善悪とかとは関係なく、馬鹿でありたければ馬鹿であればよい。私はそうではなく、自分が馬鹿である側に立つ姿を賢人に晒すことが甚だ悲しいだけだ。

賢人が傍にいないと、私は生きている意味を失ってしまいがちであり、自暴自棄に中途半端なパターナリズムを発揮してはその置かれた状態をたまに認識して苛立ちがちである。15年来賢人認定している人と話す機会があって、救われた。私が仕えるに値する賢人というのをいつも求めている。それは単に賢さの程度だけではなく性格の問題もあるので、なかなか得難い。何度も見立て違いをした。とりあえず「いつか王子様が」を弾いて待っている。見合いを受けて、それが結婚相手であれば言うことが無い気もしてきた。

なんで深夜にこんな中二病的な思考回路をダラダラと開陳しているかというと、すべての研究を諦めてやってきたサンクコストを回収すべくあと3日走り切らねばならないので、何が辛いのかを書きだして燃やしてやろうと思ったのである。辛さが溜まった時に、おそらく肉体的にというより精神的な理由で体が動かなくなるレベルで倒れるのだが、それが来るのが、怖い。徹底的な向上心を誓い、今は未だ見ぬ主君を夢見て、寝る。

例文:会議の特別セッションのチェアの依頼

ある程度親しい人に対して会議の特別セッションチェアをお願いしている。英語力はヤバいが、内容の例文としてご参考まで。

Dear ***,

Hi, (個人的な挨拶、こないだはありがとうとか)
I hope your preparation for the workshop is going well. 
Btw, I'm writing this message to ask you to manage
 one more special session at 会議名 :-)

セッションに関する情報、URLなど

I'll help preparation 
(making ML for sending a message to those presenters and
gathering 1 slide Power point from presenters) and the session also, 
but a session chair who can manage this fast-tempo session is needed.

Then, I have a favour to ask you.
Would you mind to chair セッション名 on 日付?

I very much hope your acceptance, many thanks in advance.

Best,
***

ポイントとしては

  • 僕が誰か思い出してもらう
  • 既にしてもらっている協力事項についての謝辞
  • 冒頭に簡潔にお願いの事項を書く
  • イメージがわくようにセッションの情報を提供
  • 自分もしくは他のメンバーが手伝えるならば何を手伝えるかを伝える
  • どういう人として、相手を指名しているのか「君が必要なんだ!」
  • お願い定型文

って感じですね。こういうやりとり上手いなって思ってる某先生に「〇〇の件はお願い、僕にCCしてください」「××は僕から依頼文送りますんで」って言って、このテンプレを盗みました☆

関連:

あるディレクトリ以下の編集権限をグループに与える

chgrp -R [group名] [ディレクトリパス]

これは分かるでしょう、

sudo find [ディレクトリパス] -type f -print | sudo xargs chmod 0664

sudo find [ディレクトリパス] -type d -print | sudo xargs chmod 2775

これはファイルを664に、ディレクトリをsetgid付きの775にしている。 (通常は読み出しだけのファイルが 644、通常のディレクトリが 755)

「X教徒による宗教的迫害」とは

元ネタはノート:イスラーム教徒による宗教的迫害 - Wikipedia で、

イスラーム教徒による宗教的迫害という記事が何故問題かというと、次のように説明できます。 1. グループAが、グループBを迫害した。 2. X教徒のグループAが、グループBを迫害した。 3. X教徒が、グループBを迫害した。 このような記述を考えると、1から2への移行は、グループAがX教徒であることが検証できれば、問題ないと思えます。しかし、3への移行は、「X教徒」というものが、そもそも、グループAと同規模の均一性ある組織・団体の成員かという疑問があり、2→3は成立しないとするのが妥当と思います

という頭の悪い主張(∀と∃の区別がついていない)をみつけて、否定しておこうと思ったんだけど、まあ2007年の書き込みでほぼ無視されているのでWikipedia上で蒸し返すことはないかと思って、表題のように捉えなおして少しメモしておこうと思う(まあ、以下に書くことは概念分析あたりでは基礎事項だろうが、僕は説明が下手なので練習がてら)。

3が「すべてのX教徒」でなくてもいいのは自明だが(上の投稿者にとっては非自明だったようだが)、逆に2の「X教徒のグループAが、グループBを迫害した」事例全てにおいて「X教徒による宗教的迫害」と言えるのかどうかの criteria を考える。

一つ大きいのは、投稿者は無視しているが、タイトルが示している通り「宗教的」という文脈の存在だ。例えば、経済的締め付けを行うことはこれに該当しないのか、という問題がある。「X教徒による宗教的迫害」はX以外の宗教の教徒に行われると解されるのが日本語では普通のはず(つまり、X教X1派がX教X2派に迫害を行うことは含まれないし)。対象はY教徒だったり異教徒だったりするだろうが、経済的しめつけをY教徒にのみ行ったのなら、それは宗教的迫害になる。例えば当該稿に「ジズヤなどの税金が課せられた。」という記述がゾロアスター教徒への行為の一部として記載されている。「迫害が宗教的であること」は「迫害行為自体が被害者にとって宗教的な手段であること」を意味せず(P)「迫害の対象者のcriteriaが宗教的であること」を意味している(Q)(より正確には、Pは反例により確証され、Qは正例により支持された、だが、前述の通りこの議論はヘイトスピーチ関連等でよく見る話なので、Qも強く支持される。ジズヤは政治的経済的手段であり、少なくともゾロアスター教徒から見て手段として宗教的ではない、というのを前提しているが、イスラム側から見れば宗教的基礎づけがあるので、それでもって宗教的と考えるという手®もある。Qは必ずしも唯一性を持たない。ただし、イスラムは生活のすべてを支配する法であるので、イスラム教徒が行う行為は必然的に宗教的になるとも言え、イスラム側から宗教的基礎づけがあることを条件にするのは特にイスラムを対象にした場合はあまり良い criteria には思えない。)

難しいのは「迫害の対象者のcriteriaが宗教的であること」という概念レベルの話を、事実からどう推論するかということで、ここは前述の「よく見る話」にも多くの混乱がある。僕が何度も「そりゃ変だ」と言っているのは、「迫害の対象者のcriteriaが宗教的である」と解釈できる可能性が稀にでもあればその推論が成立するというやり方。量的推論での有意差が5%有意差はモデルとして差が無くても5%の確率で有意差が誤って出る(というか、それを差があると解釈することが誤っているのだが)という話なので、この読み解こうとしたら読み解けるということを解釈成立の条件にするのは非常に危ない。質的推論においてこれをどう説明したら納得されるのか分かってないが。あと、解釈者の多数派が…みたいに数に頼るのは、実際は色々問題を引き起こす(数の暴力とか、サイレントマジョリティ問題とかなんとか)(統計的に回数が多いこと自体は成立蓋然性を強めるので、それとの兼ね合いを考えねばならない)。あ、ミーティングの時間、とりあえずこれ以上は議論が必要なレベルなので、まあ「あたりまえだろクソが」という部分は書いた。

ひとことに国際会議といっても

国際会議って分野によって違いますよね、という話をする場合、よくあるのは、採択率の問題。情報系だと10%台だったりして、ジャーナル通すより難しい会議も少なくない。ただし、会議という期限と容量の決まったイベントのためのものなので、一字一句直すようなクオリティの高めかたはしないし、ページ数も少なめだ。ジャーナルと簡単に比較できるものでもない。

私は学術系の出版で字切り部分にお金をかける必要性はあまり無いと感じている。論文PDFでは最低限の字切り考慮(つまり、PDFの元となる Word や LaTeX が対応する範囲)しか為されていないし、それで特段の不便を感じないからだ。でも、文系の先生方はそこに拘る先生も少なくないし

以前書いた通り、個人的には学術出版物に過剰に文章の精度を求めるのは反対な立場だし、なんならある側面で役に立てば別にいいじゃんという寛容派だ。

気持ちは分かるが、例えば「使える分散表現の獲得」と「その計算機科学的原理」の対応は後付けで色々為された、と認識している。もちろん元論文にもある程度の原理の話はあるので、上の例ほど酷くはないが、原理を後付けする協働を想定した学術会議での発表というのはありうるのではということだ。そして、その後付けもまさにNIPSで行われた。

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ディープラーニングチュートリアル 応用編

[1706.03762] Attention Is All You Needなんかも、そういう原理を探る系論文で話題になったし、混沌とはしているが、そのあたりの営みを無駄だとは思わない。(この文脈で、同じ著者が [1706.05137] One Model To Learn Them All を書いたことも触れたいがこちらは読んでいないのであまりよく知らない)


そんな、 Anything goes って話をしたかったのではなくて、書き始めたきっかけは、国際会議の運営で非常にもやもやしているからだ。

ある国際会議の Organizing (co-)Chair 相当をしていて、他の Chair (特に片方A)とすごく価値観が違う。

僕は参加者が聞きたいものを、その分野で最先端のものを、公募投稿で評価されたものを、元々のテーマに沿ったものを、最優先にプログラムを組もうとする。一方で、Aの価値優先順位に、紹介すべき優れた研究者(身内)というのが、強いように感じる、これは皮肉めいた捉え方かもしれないが。例えば、僕は極端なので、キーノートですら、一人で話す必要も無く、テーマと先進性と面白さがあれば、2人で片方が若手でも良いと考えた。これはさすがに他 Chair 2人双方の反対に遭った。そもそも僕は誰かを招待して会議を成り立たせるというのは非常に苦手で、国内研究会で失敗して他の幹事に尻拭いしてもらったことも、インタビュー企画でまったく返信がもらえないレベルの人ばかりに突撃して締め切りがヤバくなったことも、失敗の山ばかりで、そこから「なんでも頼めるくらいの気軽な身内に頼むことの重要性」は認識したつもりだ。でも、例えば、協賛してもらった組織の招待セッションだからそこをシングルトラック貫いて、公募を勝ち抜いてきたチュートリアルを5パラレルのところに置くというのは、僕からするとあり得ないし、チュートリアルワークショップチェアも「え、あのシングルセッションの裏空いてるやん、入れてくれないの??」とメールしてきた。ワークショップチュートリアルのところをパラレルにしすぎるのに反対すること自体はBも僕と同じ立場に立ってくれて、これは何の違いだろうと考えると、普段の研究会や、一緒に参加した学会の違いを考えるに、知った顔で会議を作り上げて阿吽の呼吸で議論するのと、知らない人を集めて比較的客観的な土台を積み上げて議論することと、どちらでやってきたかの差なのかもしれないと感じている。

Anything goes, どちらが悪いという話ではない。今回の会議は性質的に中間(ただし、少し後者寄り)に立っていると思うので、会議の性質にはある程度合わせるべきだとは思うが。必ずしも前者のレベルが低く、後者のレベルが高いわけではない、後者でレベルが低い会議も僕は知っているし、その会議に価値を認めている。広い分野での議論を支援する、新しい学術的出会いを支援する、若手のデビューを支援するといったことにオーガナイザーが注力していて、学際的研究の萌芽期に、ゆっくり考えたいときに出したりする。人文社会系だと前者のタイプの会議が多く、レベルの高い会議でさえもそういう雰囲気を持つと聞いたこともある。

ただし、自分の立場や性向がどういうところにあって、会議がどういうタイプのものであって、それが学術知識創成の総体の中でどういう役割を担うもので、といった文脈を捉えなければ、ひとことに国際会議といっても、国際会議に関する語りが、それに対する評価をする自分自身の狭い価値観の反映でしかないようなものになりがちなのではないか、と思った。

Apache アップグレード後に再起動失敗して時間食った

sudo service httpd24-httpd restart

の結果に

Starting httpd: AH00526: Syntax error on line 16 of /opt/rh/httpd24/root/etc/httpd/conf.d/autoindex.conf:
Invalid command 'IndexOptions', perhaps misspelled or defined by a module not included in the server configuration
                                                           [FAILED]

って出てくれると、

/etc/httpd/conf.modules.d/00-base.conf の中の autoindex を有効にすればいいんだなと分かるが、単に

Starting httpd:                                            [FAILED]

されてしまうと戸惑う。そういう時は

sudo tail /var/log/httpd24/error_log

すると、

[Wed Jun 14 16:01:03.605522 2017] [proxy_hcheck:crit] [pid 3667] AH03262: mod_watchdog is required
AH00016: Configuration Failed

みたいな情報があって、ああ watchdog も有効にしなきゃいけないのか、と分かって成功した。また /opt/rh/httpd24/root/etc/httpd/conf.d/autoindex.conf の冒頭に

# Required modules: mod_authz_core, mod_authz_host,
#                   mod_autoindex, mod_alias

とコメントで書いてあるので、そういうのも参考になるかも。

環境

RedHat 6

IME入力モード切替の通知を無効にする(Windows 10)

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Windows 10 Creators Update をしたら、画面の中央にIME入力モード切替の通知が出て煩わしい。

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右下の言語メニューからプロパティをクリックして

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この「画面中央に表示する」のチェックボックスを外したら無効にできた。