Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

炎上してたこの件、はじめは財務省の役人たちは省庁の中でも偏差値的には優秀なはずであって、だいたいの反応は想定の範囲内なのだろうから、ハンロンの剃刀の「無能さ」の説明が不可能な状況であって、「邪悪」なんだろうなと思った。言い換えれば、「下層」を切り捨てて社会の奴隷にすることは日本の経済的繁栄と天秤にかけて許されるという倫理観を持ち合わせている、もしくはそういう倫理の観測気球をあげてよいと考えていると推測するのが妥当なんじゃないかな、と思った。でも、財政制度分科会(令和7年4月15日開催)資料一覧 : 財務省 を見ると本当に頭が悪いだけに見える。

例えば、Twitterで切り取られていた左の方ではなく右下をみて、「情報系業種におけるミスマッチ」「文系出身者も多く、必要とされる能力とのギャップが生じている可能性。」とか、大学の情報系の出身じゃないと、会社での情報系の業務ができない・難しい前提に立っているが、むしろ「ちゃんとした」大学の情報系の出身など、ほとんどの日本の会社ではその専門性を使いこなせない。約10年前に政府界隈で見られた大学を労働訓練校化したいという欲望はとうとう、大学を労働訓練校としてしか見れない無知蒙昧に堕落してしまった。

これは財務省が自分たちの話にノッてくれるお偉いさん(教授やシニアな経営陣)ばかり集めた(財政制度分科会(令和7年4月9日開催)資料一覧 : 財務省 に名簿がある)のでそうなってしまっているのではないか。「情報系」の解像度が「我が社もAIを!」と言いながら的外れなことをする経営層のそれで、自分自身が使えてないタイプの人間が集まってそう。直前のスライドでは

急激な少子化とそれによって生じている必然的な変化について書かれている。ここから、もともと大学に行けなかった層が大学に行っているのだけれど、それを「教育の質の確保・向上が必要」と結論づけるのは、ちょっとその結論を書いた人の頭の質の確保・向上が必要であると言わざるを得ない。それとも、「誰でも質の高い教育をすれば十分に優秀になれる」というタテマエとともに心中したいのか?そうじゃなきゃ、「「下層」を切り捨てて社会の奴隷にすること」を目指すことで長期的な繁栄を諦めて短期的に逃げたいという魂胆で、こういうナラティブによって彼らを搾取し使い潰すことは、邪悪だけれどもある種の合理性を見出せる。しかし、それも長期的な観点から反対である。評価に関する諸々については、こういう話をするからには 測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか? 日本の政策はなぜ機能しないのか? EBPMの導入と課題 とかは当然読んでるんですよね?

「社会で必要とされる分野」というものがどういうように語られ、それは真に「社会で必要とされる分野」とどういう関係にあるか考えるだけの人文社会学的な能力が、この委員にも足らなさすぎてわかっていないのだと思う。この国の将来にとって害悪でしかないので、教養教育などで最低限の人文社会的な素養を持っているなら理系も含めて、理詰めでこの委員会はバッシングすべきだと思います。私は、シニアになってこのようなレベルの知性の人間を専用の施設に閉じ込めて10年間再教育を施したとしてもまともな知性を持てるというタテマエには賛同しかねるし、代替案がというより存在が害しかなしていないともうので、ぶっ潰す以外に策はないと思います。


とこんなところで言っていてもしょうがないともうのですが、財務省に限らず「自分たちの話にノッてくれるお偉いさん(教授やシニアな経営陣)ばかり集め」ることが常態化してしまって、それに自縄自縛されている官僚組織の問題というところもあり、もう既存の政治組織と大衆に政治は任せておけないと考えるしかない。学問自身が積極的に政治に関与することを学問的にまっとうにやるのは、最近の学術会議がらみの動向を見ていても無理でしょう。幸い、人工知能のレベルが、使い方次第では財政制度分科会よりはマシな知性を発揮できるレベルになってきたので、私はその方向に賭けます。


頭の悪い財務官僚と哀れにもその操り人形としてしか動けないエセ学者や経営者のために、何点か(←そのうち追加する)解説をしておきましょう。

「社会で必要とされる分野と大学で学んだ分野のギャップ」は報告書にある経済産業省「平成29年度産業技術調査事業(産業振興に寄与する理工系人材の需給実態等調査)報告書」のp.17 図表2-8 ですね。そこには「社会科学系・人文科学系の人材は供給過多の傾向」などとは書かれておりません。そもそも「過多」という表現はこの報告書を通して「東京での需要過多」という一箇所しか登場しません。不足というのは66回も登場するのに対してこの状況です。そして、不足に関しては以下のように書かれているのに、あなたたちが「土木や建築分野」についての言及を省いた理由に自覚はありますでしょうか?

全体的に、機械工学、ソフトウェアとともに、インフラ整備の人材不足のためか、土木や建築分野が不足していることがうかがえる。

私には3つほど仮説があります(経済規模、人の規模、外貨)が、胸に手をあてて考えてください。そして、「本当にその理由は妥当か」を国の将来に何が必要かという観点から検討してみてください。

さて、「過多」という表現の話に戻ります。あなたたちには「過多」に見えたそれを、経済産業省はどう扱ったでしょうか?

人文科学系においては、大学で学んだスキルが企業が必要とするスキルを大きく上回っているところが特徴的であり、例えば人文科学系の学生においても、情報系のスキルを学ぶことで、このギャップを緩和できると考えられる。

「大きく上回っている」ことと「過多」であることの違いは何であるか、小学生の国語の問題にちょうど良さそうなレベル感ですが、ちょっと財務官僚には難しすぎたようですね。ChatGPTさんに聞いてみてはいかがでしょうか、以下のように答えてくれます。「その違いは、この文章が政策や世論に与える影響にどのような差異をもたらしますか?」という質問もしてみています。

ChatGPT - スキルと供給過多

付記の部分なんてわかりやすいですね。

この違いは、「誰が変わるべきか」という方向性を決定します。

  • 「上回っている」:社会・企業が変わるべき
  • 「供給過多」:学生・大学が変わるべき

つまり、同じ統計でも、語られ方が当事者の尊厳、進路、予算配分に直結するのです。

ちょっと私のChatGPTは私に教育されているかもしれませんが、みなさんの手元でもそんなに大きな差異はなくちゃんと小学生並みの知性を発揮してくれるのではないでしょうか?

あと、本当は、元の資料がどういう目的と文脈で書かれたものかを把握して、それを読み解きに反映するというのも大事なのですね、それは歴史学の資料の扱いなどで実践的に叩き込まれますし、知識としては第一回目の授業で話されるほど基礎中の基礎ですが、残念ながら、人文科学系のスキルが小学生に期待される程度以下の皆さんにはここに書いても理解してもらえるとは思えません。なので、あなたたちはそれを恥じる以外にどうしようもないと思います。「理工系人材育成に関する産学官円卓会議」などが背景にあって、どうやって理工系人材を育成・確保するかということなので、あなたたちに不足しているような国語力の底上げが、他の国民にも必要ではないということを言うために使えるような資料ではないのです。

あと、経済学でもアンケートを行うこともあるはずですが、どうやらそういう授業はおとりにならなかったようで。アンケートはその対象や項目を注意深く設計しないと測りたいものが測れないですし、注意深く設計したところで推測可能なものから不可能なものまで実態とのズレが生じるもので、目的外使用の場合にはなおのこと注意を要するということくらい、理解していなければアンケートを扱うような授業の単位をあげられないです。アンケートが「 経営・管理工学、事業創造系(工学)」が情報系に分類されたような定義であることはご存知ですか?そういう細かいことに気を配ることができないのならば、少なくとも元の資料の主張をちゃんと読みましょう。

「需給分析の考え方」のところでこのデータを扱い際の注意を書いてくれています。あなたたちが興味を持っているのは「社会人アンケート」のところですね。

例えば、文型の選択科目で履修した情報系のスキルと、情報系学部・学科の必須科目で学んだものを同じとみてよいか、疑問が残る。(中略)現状の人材需給を考えるにあたり、高い専門スキルを有するスペシャリストだけでなく、自身の専門以外の専門分野を有するゼネラリストが求められていることがわかる。このため、回答者が学んだ学部学科において主に学ばれる専門分野以外の履修状況を把握することは重要であると考える。

すでに引いた「人文科学系の学生においても、情報系のスキルを」論と一貫した内容ですね。ちなみに、その主張自体、人文科学系の学生の情報系のスキルを教えることのある私の立場からすると「総論賛成、各論は実態に問題あり」なのですが、まあそこは置いておきましょう。上で私は「むしろ「ちゃんとした」大学の情報系の出身など、ほとんどの日本の会社ではその専門性を使いこなせない」という指摘をしていますが、そんなことはこの資料を読むだけでも気づけたはずなのです。また、

特定の学部学科のみに限定して需給を比較すると、情報系といった文系学部を卒業した学生も多数就職している業種において、実態と乖離する。

みたいな話も書かれており、もう一つの内閣府の資料についての読み解きについても示唆があるわけです。

そもそも人文社会系の教育の必要性は、経済産業の側面だけから測れないのは当然なので、そこは経済産業を専門に扱う省から幅広い国家財政の価値を見渡す省へ文脈が移る時に補わなければならないのですが、補うどころかより積極的に無視しているのはどういうことなのでしょうか。

「定員割れしていたり、基礎的な学びを採り入れたりしている大学の教育の質が一概に低いとは言い切れず、一面的で粗い考え方だ」と指摘。「学力の成長度や進路実績なども含めた評価が必要だ」と反論した。

文部科学省が担当のメディアを介してお叱りを入れてくれたようですが、そこまで踏み込んでおらず甘いですね。そこは大きな話なので『測りすぎ』の本の解説を含めてあとで書くことにしましょう。


ちょっと本題を外れるのですが、ざざっと過去の文教関連の発言を見ていてやたら害悪の大きい人がいる気がする。たとえば、NHK解説委員の神子田章博という人物。

歳出改革部会(令和3年11月1日開催)議事録 : 財務省

〔神子田委員〕5ページの2,000人の定員増を見た瞬間、これは幾らかかるのだろうという思いがして、確かに、霞が関もそうですが、あまり忙しいと良い人材が採れないということが起こって、そうした意味では増やしたいのですが、一方で、例えば、介護人材はどうだ、足りないと言われていますが、全体の中でどうするかというと、やはり増やさないという前提でどうするかを、まず考えてほしいと思います。

これは労働人口が減っている中で大事だとは思います。

それと、忙しいから授業を減らす、こまを減らすということはどうかと思いまして、やはり私も拙い教育実習の経験があるのですが、1か月ですから、やはり生徒に何か規則を守らせるとかすごい大変ですし、実習生にさえ悩みを打ち明けてくれる生徒もいて、やはり先生は生徒と触れ合うことで、人を教育できるのではないか。悩みを聞いたりしながら育てたり、若い先生だったら自分が育ったりもするということで、何でこの教育授業の時間を減らすという話に発想がなっていくのかなと。

資料の方は、以下の通り、教科担任制によって、学級担任の持ちコマ数を減らすという話である。

教科担任制の趣旨・⽬的は、専⾨性の⾼い授業の実施による教育の質の向上のほか、教員の授業持ちコマ数軽減による教員の負担軽減とされる。

なのに、そのような調整をお気持ち論で否定した上に以下の発言である。

担任の話も、授業交換のイメージ、6ページにあるのですが、これをもっと現場で知恵を出してやったらどうなのか。文科省も、金を要求する前に、もっと脳みそから汗が出るほど知恵を出したらどうなのかと思います。

現場と文科省に知恵が足らないから、授業交換などが進まないとお考えで、そのせいで、新規の教員獲得を伴う教科担任制の話がでる、それが予算と人のリソースを圧迫すると考えているのですね。授業交換も含めて、なんなら家庭にアウトソースするなども含めて、色々手を打っている中での、教科担任の話ですよ。それぞれのやり方のメリットデメリットなどはもっと分かりやすく資料にまとめておけばこういう発言にはつながらなかったかも知れませんが、

いろいろな事務作業とか親との対応とかあるのですが、この部分を専門にやってくれる人か何かを雇うと、要はカスタマーサービスでも、電話に出てきて、らちが明かないと、何かすごい人が出てきて処理したりするではないですか。何かそうした人が出てきて、親の対応だけでも全部やってくれると、先生は教育という本業にもっと集中できるのではないかと思いました。

結局、人増やしていて、それはカスタマーサービス人材を増やせと言っている。派遣でできる、派遣は安いからOKと思っているんですかね、そんなものはあなたが知恵が足りないと言った文科省が10年以上も前に考えててやってたことなんですよね→外部委託始めます―モンスターペアレントへの対応 - きょういくじん会議 - 明治図書オンライン「教育zine」 そんな認識でよく臆面もなく委員やってるな。その取り組みの現状を聞くのならアリなのだけれど。まあ、結局、モンペは先生を出せっていうから難しいんだというのは想像つきますけどね。

そして、この議事録を議事要旨にまとめるのは財務省の職員がやってると思うが、

先生が忙しいから授業時間数を減らすという考え方はどうかと思う。実際、先生は生徒と触れ合うことで人を教育できる。

と要約している。もうこれ、誤読させて、発言引き出して、お墨付きを得た意見として掲載するというかなり悪質な所業ですよね。だから、委員が不勉強なのはもう仕方ないとして、そういう委員をこのように「使って」いや「操って」いる財務省は確実に糾弾されるべきなんですよ。