Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

ゴミの分別をするように、粗悪品を返品する。

こたつを買ったら、粗悪品が送られてきて、返品をした。まずUV加工で傷に強いと謳っていたのに、おそらくメラミンかPVC加工で、初期から天板に欠けがあっただけでなく、その旨を申し出たら「仕様で問題ないので使ってくれ」と返信がきた。ちなみに芯材に使われているMDFは水分に弱く、欠けの部分から水分が入り込めば盛り上がって上の加工ごとそこからダメになる。さらに、足を折りたたみ構造にしていて、強度が必要なジョイント部分も同様の素材であったため、すぐに折れてしまったので返品した。返品・返金対応は丁寧であったため、まあそんなに会社に対して怒っているわけではない。むしろこれは珍しい例ではなく横行している例だと思って、その構造的な問題を憂いてこのエントリを書き始めた。

この会社はお互いにリンクを張り合っている販売会社と輸入メーカーの2社がペアになっている(2社の代表取締役社長は同じ苗字の男女なので夫婦だったりするのかもしれない)。中国から輸入しており、輸入メーカーはN2を求める採用をしており、中国人留学生などを中心にリクルートしているのではないかと伺える。楽天市場からの対応も名乗られた名前は中国人名だったが、高度な敬語を含め一切ミスが無くN1レベルはクリアしていた。別に国産がどうとか言うつもりはない。流通経路のどこにもこれを売ってヤバいと思える人間がいないことの原因を考えるヒントとして、だ。製造の知識がある人間が日本側に居ない。だから、か、意図的か、MDFを芯材としている塗装の欠けについて、「問題ないので使ってくれ」と言えてしまう。UV加工に種類があるなどの可能性があるし、私もプロではないので自信はないが、少なくとも学習机によく施されているピカピカな感じのUV加工ではなく、それがもつ強度を持っていないことは素人目にも明らかだ。

もし、製造の知識の問題ではなく意図的だとしたらどうだろう?それは法の規制か、ユーザのレビューで排除されるべきだ。

JISやJASといった規格は「わかりやすく」品質をランク分けしたり保証したりしてくれる。電化製品なら電気用品安全法によって2012年7月1日からLEDランプの「ちらつき規制」がなされるといったような規制が行われる。

ホルムアルデヒド量に関しては、規制と規格があって、たまに天板についてもそれを表記していたりするが、今回のような問題に対応できるような規制と規格はパッとみつからなかった。

あとはユーザのレビューによってとなるが、楽天市場は、今回のように返品してしまうとレビューが書けない仕様になっている。その問題を指摘したら「お客様の仰る「キャンセルに対するレビュー機能が必要」といったお声をいただくのもごもっともであるかと存じますので、いただいた内容は今後のサービス改善のため間違いなく弊社担当部署に共有し、今後の運営に際しての参考とさせていただきたく存じます。」とは返信が来た。

とても面倒臭いことを考え、している自覚はある。たぶん100人に同じものを売ったら、50人は不満を持ちつつも使ったり、捨てて買い直したりするんじゃないだろうか。ちゃんと返品までするのは10人いないと思うし、楽天市場のレビューシステムについて問い合わせるのは僕だけだと思う。それがまさにこういうビジネスを成立させてしまう。同居人にはこの面倒なやりとりをしていること自体を少し嫌がられてしまった。彼女は環境に対する意識は高いので「ゴミを売らせない」という理路もあったわけだが、それより「十分な人数がこれをやっていればよい環境が保たれるのに皆がサボることによって環境が悪化する、ゴミの分別と同様の問題だ」と構造的な説明をした。あまり納得されなかった。一方、昔、郵便局で母が粗悪な金融商品を売られ、そのキャンセルに郵便局に怒鳴り込みに父が行き、恥ずかしかったという感想を述べる母に、それに苛立って父がさらに雷を落としていた、それを見て子供心に「ひどい」と思っていたことを思い出すと、ちゃんと反面教師にせねばならぬので、「あくまで、僕の満足のためなのだ」という言い訳をしつつ、遠慮して、こういうことをしている。まあ、ゴミの分別も、多くの人はその先の実効的な環境保護への貢献ではなく、自己満足のような短いループで行動できているのが現実だろう。

政治的には僕はこういう考えに非常に共鳴する。でも、これに反対する人たちは余裕がないわけで、そして「大人の仕事」は年々複雑に、膨大になっていっているわけで、「大人の仕事」をサボってる人を叱るのも違うと思っている。大人の仕事ができるだけの能力をもった市民を育て、それが片手間でできるような環境を整える、そこからやらないといけないし、規制や規格の作成・制作における利用・購入における利用、適切なレビュー、上手なDIY、民具の理解、…etc 全部人工物工学的な知識の流通の問題があって「簡単」になっていないので、そこは私の仕事だと思っている。(なんか人工物工学研究センター (RACE)に居てた時のことを思い出しながら書いているのだけれど、15年ほど縁が切れたままだし、新装して吉川弘之先生の匂いがしない研究所になってしまっているようで今後ともあまり縁がなさそうである、残念。)

この発言の直接のきっかけは、仕事をしながらミーティングに参加していて、先日のイベントの感想を振られて、本当に拙くしか話せなかったこと、それが自分であまりに意外なほどに拙かったことだった。他にも面接やインタビュー(英語にすると同じだが)でうまく話せなかったり最近立て続けにいくつか、知性の衰えを感じたためにこういう発言をしたのだが、そういう茫漠とした問題把握そのものが、知性の衰えの一つの現象であって、精緻に記述することなしには対策できないと思ったので、たぶんうまく書けないとは思うのだけれど、ここに手がかりを書いておこうと思う。

最近ブログを更新していないことの理由と効用 - Drafts、を書いた2016年ごろから、このブログにも「意見」を書くことはかなり控えてきたし、まあ、それで良かったのではないかとも思っている。いくらブログを書いたところで、フィードバック無しに表現は上手くはならないし、このご時世、それなりに文章が上手くないとフィードバックすらもらえない。一方で、シェアハウスに住んでいて人と話す機会は多かったので、それである程度維持されてきた、人に対する言葉の表現力というものがあったのではないかと思う。

プライベートな変化で、シェアハウスを出て1ヶ月になる。これと衰えの自覚は無関係ではないと思う。週に一回、オンラインで友人と話しているし、もちろん仕事で話す機会はある程度あるのだが、それでは何かが足りていない。引っ越した先はご老人がたが多い環境で、公園でも自転車置き場でも老人と話すが、それは全く表現の練習にはならない。

本を読んでいても目が滑る、動画を見ていても2倍速でないと頭に入ってこない(標準だとそもそも遅いと感じるし、他の考え事をしてしまって集中できない)。入力の方もあまり上手くいかない。

例外的なのは、率いている翻訳のミーティングで、丁寧に読めるし、細かいところの議論を(もちろんみなさんのおかげもあって)整理して話せていると思うし、入力も出力も悪くない。

たまに、学生指導のミーティングなどで、感謝されることもある。我ながらよくそんなにポンポンとアイデアやアドバイスが出てくるなと思うこともないわけではない。

総じて見ると、そんなにいきなりダメになったわけではないのだけれど、不安を感じる現象が生じているという段階で、原因はぼやっとしか捉えられていないという状況だ。そして、ああ、次の作業に移らなければならない。この「忙しさ」は何よりも知性を奪っている。この件はちゃんと加筆して、整理していきたい。

指示の強い名詞の辞書的記述

Workshop on Digital Lexicography に参加して面白かったのだが、最後の質疑応答で、「Lex-0 は辞書を記述するのに向いていると受け取りましたが、一方でその名の通り Lexicography にフォーカスしているので、一般に less Lexicographic とみなされそうな辞書、たとえば Encyclopedic な辞書や専門用語に関する辞書などには向いていないのでしょうか?どのように扱えばよいでしょうか」という質問をToma Tasovac (DARIAH)さんにさせていただいて、それはそれで専用の記述体系を作るべきじゃないかという返答をいただいた。つまり Lex-0 はそういう目的にはあまり使えないかもしれない。

語の間の部分一致的な cognate の記述などはまさに TEI 向きだと感じたが、そもそも辞書的な知識構造に TEI を持ち込む必然性はそこまで高くはなく、Lemon - Lexicon Model for Ontologies とかもあって知識グラフ的な記述の方が向いている側面も多い。まだ今は可視化や検索のツールが整備されているわけでは無い、と言う意味でも積極的に TEI で辞書知識を書くモチベーションはあまり無いかもしれない。XMLベースなのだから XPath などXMLのレベルでできることがあるとはおっしゃっていたが、そういう標準化の恩恵を言うなら RDF には SPARQL がある。RDF の中で地理情報を扱うのに Well-known text representation of geometry を使ったりするように、部分的に TEI を使うという可能性は十分にあると思うので、私はそういう方向と、Lex-0 がもう少し成熟してからRDF からのデータ変換を通じてデータ資源として貢献するという方向で関わろうと考えた。


ところで、「Encyclopedic な辞書や専門用語に関する辞書」の役割について、もう少しちゃんと考えておこうと思う。今想定しているそういう辞書で重要になるのは、集団語や方言(広義の位相語)の名詞や固有名詞だ。これらを指すために外延が狭いという意味で「指示の強い名詞」という言葉をタイトルで造語した。固有名詞(Proper nouns)は固有表現(Named Entity)とするとより範囲が広がり、「副社長」のような役割やIDや時間などの数値表現も入ってくるが、ここでは基本的に固有名詞でいいだろう。固有名詞は言語的に特別扱いされることが多く、私も、クリプキらに似た記述説的立場を取る*1

辞書でも指示の強い名詞は扱えるし、元のデータ形式はどうでもいい

大槻文彦の『言海』(1889-91)を嚆矢とする日本の近代的な国語辞典は、当初、固有名詞や「高尚なる」専門用語は基本的に採録しない、いわゆる普通語の辞書が続きます。

from 国語辞典は百科全書の夢をみるか? :来たるべき辞書のために のようにそもそもに固有名詞は一般の辞書に載せないという場合もあるが、人名や地名を中心とした固有名詞が辞書に掲載されていることは一般的である。一つの大きな役割は曖昧性のある語の案内である。伊勢のデジタル大辞泉の項目 でも旧国名と現在の市名とに振り分けている。伊勢 - ウィクショナリー日本語版ではさらに「難波の葦は伊勢の浜荻」ということわざをある種の用例として案内している。要は概念の同一性ではなく表記の同一性によってまとめているというところに辞書の大きな特徴があり、紙ベースの場合にはカテゴリ vs 五十音順といった並べ順の違いも生じる*2。固有名詞のリストを編集する時にただその編集の仕方によって辞書にも辞典にも見せられるというわけである。言い換えると、これは本質的にデータセットとしてのデータ構造のレベルというよりは、それを処理するインタフェースとそのインタフェースが扱う中間データの構造によって辞書にも辞典にもなりえ、RDFでもTEIでも元のデータは書くことができるだろう。

指示の強い名詞の用例記述

ウィクショナリーに言及したが、デジタルのそれらの良いところは典拠を詳細に示す余裕があるところだと思っている。上記の会の雑談の時にも話したが、ウィキペディアと異なり用例を集めてそこから辞書の説明を作る部分の創作性については独自研究に近いくらいの創作性が許容されており、用例を集めるプラットフォームとしての良さがある。それを上げるためにテンプレート:用例出典 - ウィクショナリー日本語版を作ったりもした(が誰も使ってくれない涙)。一般名詞について考えると、用例の良いところは小鯛はごちそうでありかざぐるまはエモく筵織のズボンは一張羅になるということが分かることである。固有名詞についても同様なことを期待する、つまり辞書に「夏目漱石」の用例を載せることの意義というのは言語学的ではなく社会学的になりえる。しかし、小鯛はごちそうであることが用例でわかるような効果はいつも期待できるわけではない。「その様子を目にした俳人で知られる高浜虚子夏目漱石に小説を書くことを勧めたことで、処女作『吾輩は猫である』が誕生するに至ります」:この文章は文学史としての価値は非常に高いが、辞書の用例としての意義を認めることは難しい。「文豪・夏目漱石の妻、鏡子は、ソクラテスの妻に並ぶほどの悪妻だったと言われています」:こちらに至っては指示対象が彼に関連あるとはいえ彼自身ではないのでより一層辞書の用例としての意義を認めることは難しい気がする。一方で、詳しくは後述するが、これは Factoid とでも言うべきものであって、また RDFとも親和的だ。

固有名詞の用例に、小鯛はごちそうであるような意味の付加を認めるものにはどのようなものがあるか?「緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ」のような表現は、用例としての意義はありそうだが、これはこの文脈ではポルシェは多くのポルシェの任意の一つでよいなど固有性を幾分か喪失していることによると考えている*3。逆にいうと、一般の名詞よりは、意味を捉える際に外延の事実に負う部分が多くなる分、普通名詞に比べて文脈から読み取れることは少なくなる、つまり事前にポルシェがどんな車であるか知ってないとこの文は期待された効果を発さない。「現代のシド・ヴィシャスに手錠かけられるのはただあたしだけ」というのも用例として意味があるが、それはこここではシド・ヴィシャスと彼の恋人ナンシーに関する Factoid を暗黙に参照しつつも、明白に彼を提喩(シネクドキ)として用いることですでに固有性をかなり失っている。このように文脈によって固有名詞は固有性を剥奪されることがあり、それによって名詞の用例と同様の用例の意義が出るというだけなのかもしれない。さきほど提喩としたが、より正確にはantonomasia(代称)と呼ばれるらしく、https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/194/194-2.pdf がこの話におけるすばらしい参考文献(辞書?)になっている。

指示の強い名詞のうち固有名詞ではないものとして、「とおし」という民具のカテゴリーについて述べる時は、固有名詞とは違い「何が「とおし」という言葉で指されるか」「コロケーションとしてどんな語があるか cf. とおしで選別する」を用例から探ることができるという点で、一般の名詞と同様の用例の意義はあるが、後者は「篩の一種である」とだけ分かれば意味がなくなることもしばしばである。古い用例だと、それがその時代に存在してどういう書物でどう記述されているかということ自体は興味深く、そういう Factoid 的な意味はある。また、どれがとおしと呼ばれ、どれが呼ばれないかという前者を考えるならば、一般的な辞書と異なり「呼ばないもの」の記述が重要になってきそうなど、これもまた外延が果たす役割が大きくなる。こういう名詞の用例は、内包を言語的に補足するものではなく、内包の根拠を示す、もしくは社会的・歴史的な意味を補足するものになる。民具のカテゴリも調査も永遠に不十分であるように、こういうものは辞書の生成過程に相当するものを、適切にグロテスクに(整理されずに生々しく)見せるようにすることが用例の採集と記述において重要だと考えている。

あと、そうなってくると、用例ではなく既存の説明というのが意味を持ってくるようになる。このカードでは「とおし」を「大形のふるい。ぬかをふるうもの。」と書いている、このカードでは「臼で挽き割ったとうもろこし、そばなどの粉をおろすのに使用。」と書いている、といったような例を比較検討して語釈を書く。固有名詞についても「⚪︎⚪︎は」から始まる文を多数あつめる。これは Factoid に意義配置でも用いられる頻度概念を持ち込むためにも使える(後述の意義配置の話参照)。

  • 固有名詞については antonomasia のように固有性を剥奪された文脈だけが用例として再録するに値する
  • 専門用語の名詞については一般名詞と同様だが、内包の根拠を示す、もしくは社会的・歴史的な意味を補足するものになる
  • 根拠を示すのが多数の既存の説明という世界

Factoid と用例記述

ここでの Factoid とは "Factoidモデルはその名の通り, Factoidを中心概念とするモデルである. Factoidとは, 一次史料中における人物への言及を意味し, それは出来事の文脈であったり, 何らかの社会的関係の文脈であったりしうる. それゆえ基本的には, そうした出来事や社会的関係を中心として, それに時間情報や場所情報, そして関係する人物についての情報を紐づけていくという記述法を採ることになる." (小川 et al. "歴史一次料の 知識構造化ためFactoid モデルの拡張")というものだが、これはプロソポグラフィの文脈なので「一次史料」「人物」に限定されているだけであって、必ずしもそれに縛られることはなく Named Entity 一般に言えることである*4。だから Factoid-based な固有名詞の辞書的記述というのはあってもいい。それは用例の記述になり、幅広い時代の用例が有効だということになるが、特に意義配置の順序が歴史的順序の場合(しばしば歴史主義と呼ばれる)にその観点は重要になる*5。ちなみに、RDFそれ自身は順序を表現するのが苦手(cf. rdf:List の複雑性)だが、順序に相当するプロパティを持たせるなどいくらでもやりようがあるので、そこはTEIが必須になる理由にまではならない。しかし、自然な辞書的記述にXML+XSLTは便利だろうから、RDFでの辞書がそれで可視化される未来がくるならばTEIに変換するのは良い手である。

*1:固有名の意味論 あんまり直接的に同じ議論をしているものが見つからなかったけど、内包と外延と固有名詞の話をしているのってこういうのとか?(この論文には賛同しないけど。AはAという事実ではなく、Aと呼ばれるものを意味する、ってのはクリプキウィトゲンシュタインパラドックスにおける懐疑的解決(真実は言明できないが、正当に言明できる)と同じで、結局記述説的立場で説明し切れるじゃんって思うし。)

*2:Wikipedia:ウィキペディアは辞書ではありません - Wikipedia 辞書と百科事典の違いの基本的な認識として。どっちもスタブだと似たような感じになるとか、まとめ方が違うとかという話。

*3:この例は https://www.jstage.jst.go.jp/article/atem/20/0/20_95/_pdf から取った

*4:Michele Pasin et al. "Factoid-based Prosopography and Computer Ontologies: towards an integrated approach" で"The somehow ironic flavor of the name factoid is intentional, and reflects a concern that historian often have towards the veracity of sources, since the action of taking materials out of context has to be done with care. "という注釈とともにノーマン・メイラーの造語であるファクトイドにインスパイアされていると書いている。

*5:辞書の意義配置の順序に関して、高増 名代「OED における意義配列 ―James Murray はなぜ論理的順序を採用したのか?―」で「頻度、意味的つながり、年代」の3つが紹介され、OEDが純粋に「年代」ではないことが解説されている。

いつもなら、QTの中で大体似た立場なのに⭐️つけて終わらすのに、ダメなのしか見つからなかったので、

きゃとらん𝕏 on X: "成年した女性が9歳の女児になりきっていわゆるメスガキ構文を使ったネタ曲を公表して、それがTiktokで流行って男女問わず女児を性的消費するのがアリな雰囲気になってるのキツすぎる VTuber最速で1000万再生 しぐれういの楽曲「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」 #Yahooニュース https://t.co/jGixCjFXbw https://t.co/5TJKlNf1v3" / X

について私の見解をメモしておくと、

  • 最も relevant な文脈からの事実認識23/10/3 『粛聖!!ロリ神レクイエム☆』はロリコンソングではありません - LWのサイゼリヤ
  • 一方で、少女が性的に搾取されることが世の中で実際に生じている以上、それに関わる表象をネタとして消費するコンテンツとしてゾーニング無しでは不適切である
  • TikToker はそれらの文脈を認識しようとしないし、キャッチーかどうかでしか物事をみていない、それはそういうモノだし、その良し悪しは持ち込まれる価値判断でしかない(そういう人間が大量にいる社会が好きかどうかは畢竟好みの問題。「社会」をやっていきたい僕は嫌いだが、その「社会」観はアナクロモダニズムだとか言われたら平行線な反論しかできないと思う。)「社会」をやっていきたければ、TikToker の「文脈を無きものとして扱う」文化自体に、外から relevance の判定基準を持ち込んで「文脈はどうやったってなかったことにはならない」と言うしかないと思うし、それはとりあえず価値観の力関係的に強いとは思うが、そういうことをしてるって認識は必要。TikTok の運営会社がそういう「社会」観を共有できないような国の会社なので、そういう意見がSNSで優勢になったとしても実効性は謎。
  • Twitter の企業アカウントなどはそういう Tiktoker と同様の存在として見られるところまで「公的さ」を失っていない。
  • そこらへんを踏まえて、「男女問わず女児を性的消費するのがアリな雰囲気」になってはいないし、そんな雑な捉え方をするのはむしろ害を重ねている。

あずまんと福島みずほの件

ツイッター(跡地)でこういうこと言及するのが嫌なのでこっちに書いておくけど、

という話とそれに同意するツイートがちょいちょい流れてきて、真相が気になってしまったので少し見た。結論を先取りしておくと、デマというほど単純な話では無いし、でも、あずまんの福島発言解釈はよろしくないので「現在の立場から」訂正したほうがよいとは思う。

live.nicovideo.jp

ここからの高々5分ちょっと見ればわかる。福島さんは今から見るとかなり抑制的なものいいをしていて、一方で統一教会自民党との関係についてはちゃんと切り込むべきと主張し、自身もまだ不確定な中で言及することによって切り込んでいる。

東浩紀が統一教会を擁護しているというデマにつきまして|東浩紀

統一教会を擁護しているというのはデマだというのは同意するしそういうデマもツイッター上にあるのはあるだろうが、「「彼は統一教会と結びついていたのだから襲撃されるのもやむをえなかった」と解釈できるような発言」であったとは言い難いというのが私の個人的な感想であり、一方であずまんがそう捉えたのがこのニコニコの場のコメント欄の雰囲気、当時の雰囲気もあってのことである、つまりあずまん側も本気でその解釈をしていてもおかしくないと感じた。

結果的にその後の調査とかから統一教会自民党とズブズブであったことは問題とされたわけで、4つのレベルのうち3つまでは言えてしまう状況にあると思う。つまり、

  • レベル1: 犯人の動機として統一教会自民党との関係があった
  • レベル2: その動機は事実に基づくものである
  • レベル3: その動機からして襲撃は有効な手段である
  • レベル4: 襲撃されるのもやむをえなかった

レベル1で止まるものとしては京アニの件など、犯人が事実認識を正しくできない状況にある場合が相当する。もし、襲撃自体が許されないことであるから犯人に正当性を与えないために、自民党への追及も一切無しにしましょうという合意が与野党やメディアも含めてなされたという結果になっていたらレベル2で止まっていたが、実際は多く報じられ、多くの影響があったので、レベル3までも言えるだろう。そして、レベル3とレベル4の間に多くの人は線を引いていて、福島さんもすくなくともレベル4よりは手前に線を引いたように発言されている。

今「すくなくともレベル4よりは手前に」と言ったように不確定な状況下ではレベル3についての判断はできなかっただろうし、個々ではなく大衆という集合的に考えた場合に、レベル3まで認めたら、そこからレベル4を「演繹」する人たちもいるので、このレベル階層は階段というより坂になっている。世の中の空気次第では、レベル3を認めたらそれがレベル4を認めることにつながるという関係はあるということだ。その影響関係をもって「解釈できるような発言」と、たぶん、あずまんは本気で思っているのだろう。実際解釈が100%不可能かと言われれば可能なわけなので、「解釈できるような発言」ではある。でも、それはあの場であずまんがそういう言い方をしたことが、福島さんの発言の解釈をそのように、つまりレベル4まで引き上げる方向に効果を発揮してしまっているのも誹られて然るべきだと思うし、メタな言及ができる状況下で「その解釈を許さない」と言えばいいわけなのだ。

彼は賢いのだからこんなことは分かっていて言っていると好意的に解釈すると、「そうやって言ったところで、そう解釈して統一教会やその関連の人間に危害を加えようとする人間は発生するのだから、紐付け自体も許さない」というのがあずまんの立場だということになってしまうと思うが、その立場にはここで個人的に明白に反対しておきたい。まず、世の中にはレベル3や4の問題で紐付けすら控えた方がよい問題は存在する。バックラッシュがあまりに激しい問題などはそうだし、マイノリティに本当に力が無い問題などはそちら寄りになる。日本が犯罪多発の不安定な社会だったらそれもその判断に影響するだろう。「大衆はさておき、私は正しいことを言う」というのは力を持った発言者には許されない。大衆はそこにいる。あなた(この文脈では福島さん)はマスコミュニケーションをしている。そこまでは、おそらくリベラルな人間の中ではかなり僕はあずまん寄りに物事を考えている方だと思う。

でも、現状、2世の苦しみなども話題に上り、統一教会関係者を単なる加害者として叩く方向にはいっていない以上、ことこの問題に関しては紐付けはある程度うまく機能したと言えるだろうし、そこで発生した無辜の被害があるならばそれを個別に指摘するのが倫理的なネット民がやるべきことであり、個別の指摘をまとめあげて端的なモデルを提示して見せるのが賢い人間のやるべきことである。大衆不信からあの紐付け自体を否定してしまったら、ここに辿り着いていない。そして、どれだけ、結果的に良い変化が、あの銃撃のあとに起ころうとも、銃撃自体は許されないことである。良い変化は、事件を良い変化に結びつけた人々の努力の結果であるし、その一つに、あの不確定な状況下で抑制的に、でも適切に追及を行った人々はいるわけで、私は福島さんの発言はそこに属すると思う。また、私たちは銃撃を介さずにその変化を起こせたように努力をすべきだし、それを可能にする社会を築かねばならない。

文化嫌悪の問題

これについたQTコメントは、「マジで誰も何も理解してないのに何かをありがたがってるの、もはや宗教よな。」「こんなもんやろ」「いかに世の中の「識者連中」の感性がアレだって皮肉だなw」「めっちゃソーカル事件ぽくて素敵(笑)」「現代アート美術館の床に誰かがメガネを置いたら、皆んなアートだと思って写真撮りだしたってやつと似た話だ。アートとか最先端ファッションってなんなんすかね?っていう皮肉ききまくってて好き。」みたいなのが多くて *1 気持ち悪いと思った。そもそも、「客は全く気付かず」なんてことはなくて、もっとちゃんと何か仕組まれた批判としてプロのモデルをつかって適切な時間枠でやるとなれば、気づかないこともソーカル事件っぽさもあるだろうが、ウォーキングや後ろを気にしているさまから普通でないことはすぐにわかる様子である。

まあ、そんなことはどうでもよくて、特に事実に基づかずネタがあればハイカルチャーを馬鹿にしたい人々が多いのはいまに始まったことではない。酒場談義ではしばしば「維新的なるもの」とも称され、すごく一般的に力を持つようになってきた価値観だ。

伝統芸能クラシック音楽などの、いわゆるハイカルチャーに否定的な見解を示す一方、お笑い、ギャンブルやストリップなどの大衆文化を肯定的に評価する発言が多い。

橋下徹 - Wikipediaが言っていることは前にもこのブログで言及したし、それへの処方箋は「考え続けること」や「議論し続けること」に触れる機会を用意して、やさしくおしえてあげること、だとした。QTで多く言及されてたソムリエに「最もまずい」と評価された400円の激安ワインが国際コンクールで金賞を受賞してしまう - ライブドアニュース←この件も、ハイカルチャーの問題ではなく、ハゲタカジャーナルと似たような問題だ。つまりお金を払えば賞を授与するようなビジネスが成立してしまう。そう、もし経済価値だけが価値なのならばこの問題は生じず、それとは別に価値の体系があるから問題になるのだ。そして、それをハイカルチャーのハイさに求めることはむしろルサンチマン的な感情を引き起こして筋が悪いことは前の記事で言及した通りだ。ここまで答えがでていても、直接この事案について解説をリプするなんて、愚かさの極みなのでほおっておくしかない。


なのにわざわざまた記事を書く気になったのは、(1)ソーカル事件との関連で査読とオープンサイエンスについて触れておきたかったのと(2)前の記事にぼやっと述べていた楽しむ教養についてを補強しておきたいのと、(3)学術的な文脈を取り込んでおこうと思ったけどググった程度ではうまく見つからなかった話と。

(1) ワインについては賞なのでこの話には当てはまらないがそもそも前述の通り構造は異なり、ファッションウィークのそれぞれの作品、多くの芸術作品の展示、論文の出版については、それは「評価に晒す」フェーズであり評価されていることを意味しない。査読や審査ではいろいろな選抜がなされるが、ファッションウィークの審査やレポートなどで高評価を得る、それが数年にわたって言及される、そういう何段階にも積み重ねられた評価の場、というものを市井が理解できるようにならなければインテグリティを保持したオープンサイエンスなんてものは不可能であり(だって、より一層中途半端なものを成果として共有しないと非専門家による寄与は難しいわけで、その取り扱いを適切にするためには一連の評価と価値づけの流れ、そこにあるデフォルトとしての信頼がそのオープンさを享受する人たちの間で共有されなければならない)、戯れにそれを壊してはならない。

ソーカルたちも

しかしはっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要と感じており、明らかに事実無根のフィクションと分かるものについて、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。

とちゃんとエクスキューズをしているし、それですら批判もされたのだけれど、先ほどの当該の乱入者もQTに関わっている人たちもそのような動機にすら基づいているようには見えないし、結果としてまったくソーカル事件と比べられるものではない。むしろ、あなたたちのファッションの感性をファッション業界のヒエラルキーに反映させる可能性を自ら潰すような行為だと言える。こんなやつらに邪魔されずに象牙の塔の中でしっかりやっていきましょう、という反応を引き出すことによって。

(2) 特別展「古代メキシコ」 を見に行った友人(イギリス人)が「展示は素晴らしかったのだが、観客が写真ばっかりとっててウザかった。僕がモノを見てる時に手をニュッと伸ばして写真撮ってどこかいくんだよ?何を見にきてるのっていう。写真くらいオンラインで見ろよっていう。特に日本人は、そういう傾向強いと思うんだけどなんで??」と言っていた。何かを楽しむのって能力が要る。カラオケを楽しむのもカラオケがそこそこ上手くないと楽しめないってのは僕がよくだす喩え(これにも文化バイアスがあって、海外の人は「下手でもみんなで歌えば楽しいじゃん」派が多いのでグローバルに使える喩えではないけれど)。街を見る力と長距離歩くのが苦にならない体力がないと街歩きはそんなに楽しくない。なので楽しむ能力をつけなきゃいけなくて、「それがないのに見にいく」というのは起こりにくい、つまり楽しくなさそうなら行かない、楽しそうなら行く、はずなのに、「大して楽しくないのに行く」が生じやすいのが日本人の特性の一つで、話題になってるから行く、そしてそのことをシェアする、さまざまな対象が人間関係のためのメディア化する、というのがある。僕は韓国人の方がこれが激しいと思っていて、年単位どころか数ヶ月単位で話題になる観光地が変わりそこにドッと人が押し寄せるということを、去年の秋に韓国に行ったときに実感しそういう話を聞いたので、別に「日本だけ」ということはないが、なんにせよ負の側面も強い特性である。それでも何度か行っていたら楽しむ能力がつくのならば良いのだけれど、あんまりそうでもないようなので、楽しみ方まで教科書にしてあげないといけないのかもしれない。まさに西洋絵画についてそういう意図で書かれた本にまなざしのレッスンという本があり、暗い部屋でひたすら絵を紹介し続けるという著者の授業で教科書に指定されていた

本書がよくあるタイプの概説書や啓蒙書と決定的に違うのは、単に西洋絵画に関する知識を植え付けようとしていない点にある。むしろ、西洋絵画を見るために必要な個々人の「まなざし」を作ること、鑑賞に有効な構え、コツ、ポイントなどを肉体化することに集中している点が特徴なのである。比喩的に言えば、絵との対話の仕方を伝授しているのだが、それを身につけるのは決して難しいことではない。

メタに楽しむという様式や個人レベルでの批評の方法などを体系化する必要があるのかもしれない。

ちなみにこうやって教養をつけろという方向に行くと、絶対に多くの人々を置き去りにしてしまうので気をつけなきゃいけないし、朝ドラのらんまんで要潤演じる田邊彰久が西洋かぶれして西洋文化を日本文化の上位に置いて尊ぶ振る舞いをしていた(これはフィクションだが明治の文明開化にそういう側面があったのは事実)のも、(【世界で戦う教育法】日本の「学歴」「偏差値」はもはや無価値。我が子をグローバル社会でキャリア形成させるには?【東京大学教授・鈴木寛×元ハーバード大学准教授・柳沢幸雄】 - YouTube のような動画(11:45付近)で「オペラ、ヨット、乗馬」をグローバルな教養として挙げる浅はかさも、関連して気をつけなければいけないコトではある。

(3) この問題自体、僕が見つけた視点でもなんでもなくすごく幅広く認知されている問題で、学問的に扱われていないわけがない。

ググって吹上 裕樹〈書評論文〉文化区分の形成とその変容 : ハイカルチャー研究における新たな課題を問うために とか、そこで出てくる「文化本質主義」というタームから長谷川 典子 「文化本質主義」をめぐる一考察をざっと読んでみたのだけど、

前者時代的にもまだまだ橋下の扱いが曖昧だったのかも知れないが「クラシック音楽が「ハイカルチャー」だからといって、これを慣例や文化的権威に基づいて支援することは困難になっているということ」と言及していて「ハイカルチャー"だからこそ"の扱いだったわけで的外れだろう」と思うし、のだめについて「ハイカルチャーとしてのクラシック音楽が、商品として広く行きわたることによって、自らその権威を切り崩している姿」と描写しているが、別にクラシック側がポップスを取り入れるのはともかく、ポップス側がクラシックを取り入れるのは権威の強化にもなりうる行為でなんか的外れだし、『のだめ』も『ブルーピリオド』も私たちとは違う世界の闘いを描いていて、だから冒頭の問題でも『ランウェイで笑って』に言及しているコメントはむしろ場を荒らされたイベント側に寄り添っていた。そういう意味で各論はほとんど納得感がなく、末尾で挙げられてた

今日の文化状況を「礼節としての文化(卓越・エクセレンス)」、「アイデンティティとしての文化(エートス)」、「商業的・ポストモダニズム的なものとしての文化」の間で三方面にわたって展開される闘争と捉える(イーグルトン 2006:154)。またこの中でも、グローバルなスケールでの重要な闘争として、「商品(コモディティ)としての文化」と「アイデンティティとしての文化」との闘争をあげている

といった文化のタイプの解像度をあげる議論は少し面白そうと思い、解像度をあげようという総論はまあそうだよねとは思った。後者は「文化本質主義」という概念自体が構築主義者の藁人形論法じゃんと言ってて、まあそうだろうねと思いました、くらいで、あまりだった。今の立場を利用して誰か詳しそうな先生を飲みに誘ってみよう。

*1:文脈的にユーザ名を名指ししない方がいいと思って付していませんが、ご希望でしたらコメントくださればユーザ名などを付します

スハルトの cerpen anekdot

cerpen というのはインドネシアの短い小説のことで、長くても大抵1万語には収まり、大抵は1千語に収まる程度の物語である。cerita は物語のこと、pendek は短い、略して cerpen。かなり幅広いものを指すが、その中に anekdot つまり英語で anecdote (逸話) に相当する cerpen もある→5 Jenis Cerpen Beserta Struktur Penyusunannya | kumparan.com。逆に逸話の一種として cerpen があると表現されることもある → 3 Jenis Teks Anekdot: Artikel, Cerpen, Dialog (Penjelasan)。こういうものを調べる時は "jenis jenis ⚪︎⚪︎" で調べると、そのものの分類を記したものが見つかる。しかし、"cerpen anekdot" と括って検索すると、そんな表現はあまり使われておらず、初めのブログ独特の分類名であることがわかる。インドネシアについて調べ物をしているときにはそういうことはよくある。perbedaan anekdot dan cerpen (逸話と短編小説の違い) という記事もあるくらいなので、必ずしも逸話は cerpen に含まれない。なんなら、実話である逸話と、創作であるcerpen は対立しそうなものである。そんななかで「これは cerpen anekdot と呼べるなぁ」と思ったものを見つけたので、紹介する。7 Contoh Teks Anekdot Singkat dan Lucu, Lengkap Semua Tema より。

Pada suatu hari, Tutut, anaknya Soeharto lewat jalan tol di Jakarta. Penjaga tol menyebutkan tarif sebesar Rp3.000,-. Tutut yang tidak punya uang receh akhirnya mengeluarkan pecahan uang Rp50.000,-

Penjaga Tol :”Ini Bu, Kembaliannya.”

Bu Tutut : “Sudah…. Simpan saja buat keluarganya Anda.”

Penjaga tol merasa senang karena menerima Rp47.000,- dan langsung berterima kasih kepada Tutut. Setelah beberapa jam Tommy datang melewati tol tersebut. Kali ini tommy mengeluarkan uang 20 ribuan.

Penjaga tol: “Ini Pak, kembaliannya 17 ribu”

Tommy: “Sudahlah, simpan saja buat sekolah anak anda”. Penjagaan langsung memasukkan kembalian itu ke kantongnya dan berterima kasih banyak ke Tommy.

Setelah beberapa jam, datang soeharto dengan mobilnya lewat jalan tol. Soeharto mengeluarkan uang Rp5.000,- dan disodorkan ke penjaga tol. Soeharto menunggu lima menit berlalu. Lalu bertanya kepada penjaga tol.

Soeharto: “loh, mana uang kembalian saya?”

Penjaga tol: “Ah bapak, masa uang Rp2.000 saja dibalikin. Tadi Bu Tutut dan Pak Tommy lewat kembaliannya Rp47.000 dan Rp17.000 aja diberikan ke saya, masa Bapak yang Rp2.000 saja meminta kembali?

Soeharto : “Anda tahu, Tutut dan Tommy itu anak siapa?”

Penjaga Tol: “Ya tahu, Pak! Kan anaknya bapak presiden.”

Soeharto: “Nah, mereka kan anak presiden sedangkan saya anak petani! Sekarang, mana kembalian saya.”

スハルトの2人の子達が料金所を通過する時に「おつりはいらないぜ」ってやったのに、スハルト本人が来た時はほんの少しのお釣りも「お釣り出せよ」と言ってきて、曰く「Tutut と Tommy は誰の子だ?」「もちろん大統領の子です」「な、彼らは大統領の子で、私は農民の子なんだよ。で、おつりは?」とのこと。正直、私はこの cerpen を十全に理解している自信はない(あとで時間を取って、インドネシアの人に聞いてみようと思うがそのための草稿としてこれを書いている)。

だが、読み解きの仮説はある。まず、スハルトは田舎者だという印象を大事にしていたというエピソードがインドネシア語版Wikipediaのスハルトの項に ある。

Dengan separuh murka, Soeharto mengadakan konferensi pers di Bina Graha bahwa liputan mengenai asal usul dirinya yang anak bangsawan bisa saja merupakan tunggangan untuk melakukan subversif. Soeharto dengan caranya sendiri ingin mengesankan bahwa dia adalah anak desa.

出自の明白でないスハルト大統領について実は高貴な出自なのじゃないかという噂が出た時に怒って否定したというものである。そして、また、上の anekdot はある程度文章的変奏があって、ANAK PETANI — Nurudin Jauhariというサイトでは、

Di zaman orde baru, Doyok seorang penjaga pintu tol yang selalu berjaga di malam hari. Suatu malam sebuah mobil Timor yang dikendarai Tommy berhenti di depannya dan menyerahkan uang Rp 50 ribu.

Ketika akan memberi uang kembalian, Tommy menolak dan berkata dengan angkuh, “Saya tidak butuh kembalian… Kamu tahu, saya anak Presiden. Ambil saja sisanya!” Doyok sangat senang mendapatkan uang Rp 47 ribu.

Tak lama kemudian Tutut lewat dengan mobil Mercedez Benz dan menyerahkan uang Rp 50 ribu.

Ketika akan memberi uang kembalian, Tutut menolak dan berkata dengan angkuh juga, “Saya tidak butuh kembalian… Saya anak Presiden. Ambil saja sisanya!” Doyok sangat senang mendapatkan uang Rp 47 ribu lagi

Selang beberapa saat Soeharto pun lewat dengan mobil BMW terbaru dan menyerahkan Rp 5 ribu. Doyok sengaja tidak memberikan kembaliannya. “Hei, mana uang kembalianku Rp 2 ribu!!” bentak Soeharto “Pak, baru saja kedua anak bapak, Tutut dan Tommy, lewat ke sini namun mereka tidak meminta uang kembalian,” kata Doyok.

Soeharto dengan ketus menjawab, “KAMU TAHU, TUTUT DAN TOMMY ITU ANAK SIAPA?? MEREKA ANAK PRESIDEN!!! SEDANGKAN SAYA INI KAN CUMA ANAK PETANI!!” Doyok : ?????????????

主な流れは同じなのだが、Orde Baru (新秩序)の時代に言及され、高級車に乗って料金所に来る様などが追加されている。新秩序の時代はコネによる腐敗とかも横行したと評されていることから、これは「田舎者だという印象」を政治的な道具にしていたスハルトに対する風刺的な側面を持った創作話なのではないかと思う。