国際会議って分野によって違いますよね、という話をする場合、よくあるのは、採択率の問題。情報系だと10%台だったりして、ジャーナル通すより難しい会議も少なくない。ただし、会議という期限と容量の決まったイベントのためのものなので、一字一句直すようなクオリティの高めかたはしないし、ページ数も少なめだ。ジャーナルと簡単に比較できるものでもない。
私は学術系の出版で字切り部分にお金をかける必要性はあまり無いと感じている。論文PDFでは最低限の字切り考慮(つまり、PDFの元となる Word や LaTeX が対応する範囲)しか為されていないし、それで特段の不便を感じないからだ。でも、文系の先生方はそこに拘る先生も少なくないし
と以前書いた通り、個人的には学術出版物に過剰に文章の精度を求めるのは反対な立場だし、なんならある側面で役に立てば別にいいじゃんという寛容派だ。
CS畑の友達の機械学習系の論文報告を聞いたときに、特に仮定を述べるわけでもなくタンタンと結果のみを発表したので、どんな仮定の元で成り立つのかと質問したら、知らないけれど見てのとおり良く動くと言われ、あんたバカァ? と思ったが、NIPSに採択されてて本当に馬鹿らしい分野だと思った。
— 便座DØ)))PENESS (@benthedopeness) July 8, 2017
気持ちは分かるが、例えば「使える分散表現の獲得」と「その計算機科学的原理」の対応は後付けで色々為された、と認識している。もちろん元論文にもある程度の原理の話はあるので、上の例ほど酷くはないが、原理を後付けする協働を想定した学術会議での発表というのはありうるのではということだ。そして、その後付けもまさにNIPSで行われた。
[1706.03762] Attention Is All You Needなんかも、そういう原理を探る系論文で話題になったし、混沌とはしているが、そのあたりの営みを無駄だとは思わない。(この文脈で、同じ著者が [1706.05137] One Model To Learn Them All を書いたことも触れたいがこちらは読んでいないのであまりよく知らない)
そんな、 Anything goes って話をしたかったのではなくて、書き始めたきっかけは、国際会議の運営で非常にもやもやしているからだ。
ある国際会議の Organizing (co-)Chair 相当をしていて、他の Chair (特に片方A)とすごく価値観が違う。
僕は参加者が聞きたいものを、その分野で最先端のものを、公募投稿で評価されたものを、元々のテーマに沿ったものを、最優先にプログラムを組もうとする。一方で、Aの価値優先順位に、紹介すべき優れた研究者(身内)というのが、強いように感じる、これは皮肉めいた捉え方かもしれないが。例えば、僕は極端なので、キーノートですら、一人で話す必要も無く、テーマと先進性と面白さがあれば、2人で片方が若手でも良いと考えた。これはさすがに他 Chair 2人双方の反対に遭った。そもそも僕は誰かを招待して会議を成り立たせるというのは非常に苦手で、国内研究会で失敗して他の幹事に尻拭いしてもらったことも、インタビュー企画でまったく返信がもらえないレベルの人ばかりに突撃して締め切りがヤバくなったことも、失敗の山ばかりで、そこから「なんでも頼めるくらいの気軽な身内に頼むことの重要性」は認識したつもりだ。でも、例えば、協賛してもらった組織の招待セッションだからそこをシングルトラック貫いて、公募を勝ち抜いてきたチュートリアルを5パラレルのところに置くというのは、僕からするとあり得ないし、チュートリアルワークショップチェアも「え、あのシングルセッションの裏空いてるやん、入れてくれないの??」とメールしてきた。ワークショップチュートリアルのところをパラレルにしすぎるのに反対すること自体はBも僕と同じ立場に立ってくれて、これは何の違いだろうと考えると、普段の研究会や、一緒に参加した学会の違いを考えるに、知った顔で会議を作り上げて阿吽の呼吸で議論するのと、知らない人を集めて比較的客観的な土台を積み上げて議論することと、どちらでやってきたかの差なのかもしれないと感じている。
Anything goes, どちらが悪いという話ではない。今回の会議は性質的に中間(ただし、少し後者寄り)に立っていると思うので、会議の性質にはある程度合わせるべきだとは思うが。必ずしも前者のレベルが低く、後者のレベルが高いわけではない、後者でレベルが低い会議も僕は知っているし、その会議に価値を認めている。広い分野での議論を支援する、新しい学術的出会いを支援する、若手のデビューを支援するといったことにオーガナイザーが注力していて、学際的研究の萌芽期に、ゆっくり考えたいときに出したりする。人文社会系だと前者のタイプの会議が多く、レベルの高い会議でさえもそういう雰囲気を持つと聞いたこともある。
ただし、自分の立場や性向がどういうところにあって、会議がどういうタイプのものであって、それが学術知識創成の総体の中でどういう役割を担うもので、といった文脈を捉えなければ、ひとことに国際会議といっても、国際会議に関する語りが、それに対する評価をする自分自身の狭い価値観の反映でしかないようなものになりがちなのではないか、と思った。