Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

無神論者の疎外が肯定される論拠

アメリカから帰って紙幣を整理していると、そこに印刷されている「In God We Trust」という文字が気になった。これが印刷されるに至った経緯や巻き起こっている議論はイン・ゴッド・ウィー・トラスト - Wikipediaでも見てもらえれば良いが、これはアメリカにアイデンティティを持つ無神論者にとっては許しがたい言葉であり、私のような弱い不可知論者にとっても違和感を覚える言葉だ。

インドネシアでは無神論は違法であり、神の信仰ならばキリストだろうがアラーだろうが肯定される。

これら、オフィシャルに(特に一神教的)有神論が支持され、無神論者が疎外され、場合によっては迫害されることが肯定されるのは何故か考えてみたい。これは決して、法哲学的にそれを基礎づけようとするものではない。何かの宗教的正義を肯定するためにどんだけ理論を振り回したって、理論を社会影響に結び付けられる強者が勝つことにしかならないので(双方論理的には正しいことが屡々なのだ)そういうの大嫌いなのだけれど、なぜ肯定したがるのかということをメタに記述するのは楽しいのでやってみようということだ。


基本的には有神論者が信仰を否定されることへの不快感と、「神の信仰」と抽象化されたことで各宗教の有神論者が一体となるマジョリティの力が、無神論者の疎外を肯定する原動力なんだろう。

まあ、日本人の宗教観はそれの鏡像みたいなもんで、宗教が引き起こす害悪への不快感と、日本的な宗教観(日本は一般的に無宗教ではない、本来の仏教とかでももちろんない、日本的なるものとしか言いようのない宗教意識をかなりの人たちが共有している)を共有するマジョリティの力が、熱心な宗教者の疎外を肯定する原動力になる。

有神論者と弱い不可知論者は共存できるが、強い不可知論者や無神論者とは衝突を免れ得ない。世の中、共存し得ないものというのはあって、人を誰彼構わず殺したいという人間と、殺されず安全に暮らしたいと考える人間は共存しえない。前者だけならば特に矛盾は生じない。ただただ殺伐とした世の中が来るだけだ。それでも人類全体が滅びたりなんかはしない。「人を殺しちゃいけない理由」がなんか難しい哲学的論題のように扱われることがあるが、みんな莫迦なんじゃないかと思う。「人を殺しちゃいけない理由」なんかなくて「「人を殺しちゃいけない」ことにしている理由」は、マジョリティが「殺されず安全に暮らしたいと考え」ていて、殺すという行為がこの2つの両立を不可能にする行為であるというそれだけで十分な説明じゃないか。なんで「マジョリティが「殺されず安全に暮らしたいと考え」」ているかは、進化心理学的に説明がつくし。どこにも難しいことなんかない。あとは、これをバイナリから連続量的に捉えなおせるかとか、地域的局所性を想像できるかとか、ハードルはあることはあるけれど。

さて、脱線したけれど、繰り返すと、(1)不倶戴天のコードと(2)そのコード上でのマジョリティ、だけ揃えば「正義」が作られる、と綺麗に言葉になったのでメモしておく。

あとは、マジョリティがどう理論を振り回すかは僕の興味の範囲外だ。


利己的遺伝子 - Wikipediaに対する誤解とかも、この話が理解されないのと通底しているね。あくまで生き残った形質が優れた形質なのであって、優れた形質が生き残るのではない。後者は a priori に優れた形質を我々が判断できるという前提に立った言い方で、この考え方に基づく優生学はそりゃ問題を孕むさ。社会環境を含む環境との相互作用でしかなくて、環境さえも変化するということが織り込まれていないからね。この話と心理形質がどう結びつくかと言えば、ちゃんとミーム(この概念の発案者はドーキンス)という概念の導入で遺伝子概念が抽象化され、関連付けられているので、基本的には40年前にこういう考え方で「正義」を捉える基盤はできているはずなのだが、そうやって正義を相対化することは複数の正義を共存することにならず、「正義の味方」と衝突することにしかならない(=Yet Another 正義に堕してしまう)というのが、このミームが広がりにくい要因かもね。