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Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

現代思想 2015年12月号 特集=人工知能 -ポスト・シンギュラリティ-は元上司から、インタビューしたことある人、つい先日一緒にシンポ組んだ人(この人は人工知能の人ではなく農業史の人で特集とは関係のない記事を書いている)まで知ってる人のコンテンツばかりだった。

さて、とりあえずザッと目を通してメモをしていく。


人造美女系譜学 ポストヒューマン的テクノロジーのジェンダー化をめぐる文化的想像力 / 小澤京子

例の表紙事件の話に触れての内容。系譜学といって殆どは莫大な文脈を列挙しているに過ぎないのだが、筆者の理解の深さを思わせる一言が各所に挿入されていて良かった。全体的には、副題が示すように「ダナ・ハラウェイを嚆矢とする「サイボーグ・フェミニズム」の系譜が説いたように、従来的なジェンダーセクシュアリティの間の二項対立や断絶を無効化する可能性」(pp.198-199)を模索するようなまとめ方をしており、表紙の話は「この問題はつまるところ、理想的女性身体を人造する、あるいは人工物に女性性を見出すというファンタスム(所謂ピュグマリオニズム)の系譜と、人間の機能を複製ないし拡張するテクノロジーのひとつ「人工知能」のあり方との、交差地点に位置づけられるだろう。」(p.198)という扱いで触媒にしか使っていない。その文脈であの表紙がガッカリされたことは友人と話したおかげでとても良くわかっていたのだけれど、一方で目にするのはコンテンツ文化史に関する理解のない批判ばかりで「まあ、君たちにそう見えるのは分かるが…」と辟易していたので、特に四章「SF的作品の中のロボット、ヒューマノイド、サイボーグ、AIたち」において、僕よりも広く深い知識で前述の重要な一言を差し挟みながら列挙された系譜はとても価値のあるものだった。まず、「愛らしくデフォルメされた子供や動物の形態を採る「親しみやすい」ロボットの系譜」が『鉄腕アトム』や『ドラえもん』を例に語られる。途中割愛して、「主人公の少年との性的なコミュニケーションが前面に押し出される」『ちょびっツ』(p.206)にも触れ、その周辺の作品の骨格はSFとしての新奇性よりもラヴ・コメディとしての「定型」であるとコメントを挟んでいる。筆者は表紙問題などの基本的な問題点は押さえつつも、個々の作品の文脈に善悪の価値判断などを持ち込まず、あくまで副題のテーマへ寄与できる部分を拾い上げていっているし、それは好感が持てた。が、敢えて僕が元々「理解がない批判ばかり」だったと言った部分を持ち込んでみると、親しみやすさはまさに炎上後の描き手のコメントに現れていた側面であり、ラヴ・コメディの「定型」や2章で寺山修司の「ロボットと友達になる本」の

こうした「イギリスの女中」を一人位、そばに置いておきたいと思うのは、私ばかりではないだろう(ただし、フランスのではなく、イギリスの、となっているところがミソであり、いかにも性的魅力に欠ける、というのが難点なのであった。)

(『不思議図書館』角川文庫 p.25)を引用して擬人化されていない複合型家電「イギリスの女中」を連想しているあたり、あの絵をまず目にしたときに家事と女性の結びつきにしか見えない(!)と言った人々が見なかったものにちゃんと焦点が当たっている。…長くなったけれど、実は、「この問題はつまるところ、…」という冒頭だけで、いやもっと言えば、「人造美女系譜」を語ろうとされている時点で、代弁してくれてありがとう感はたっぷりだった。

ところで本当は筆者の本題について触れるのが礼儀なんだろうとおもう…が、申し訳ないのだけれど、マリオ・ペルニオーラジョルジョ・アガンベン(前者は名前さえ、後者はほぼ名前だけしか知らなかった)の概念をポンポン投げ入れた1ページにも満たない怒涛の結語は、ちょっとググったりしても理解できなかった。そのため、理解してもらえたのに理解できないという毒を服した状態であり、後程ハラウェイを読むことで解毒したい。


この調子では読み終わらない、とばすぞとばすぞ。記事名は挙げないが、「合わない」記事も多い。理解できないだけなら上のように素直に白状するが、理解できるが意義が感じられないタイプのものも多い。まあ『現代思想』はいつもそうである。


東ロボプロジェクトの裏側は基礎的な部分は当然知っているので、新井先生の発話から気になった部分とそれに対するコメントを記す。

知識科目といっても世界史はとても特徴があります。今私たちが持っている「常識」が古代エジプトで通用するかといえば、そうではないかもしれない、という前提が世界史にはある。「常識」で判断させるというのを、すごく気を付けて排除している。過去問を眺めていると、多分それが世界史の矜持なんだろう、という気がしてきますね。(p.43)

対照的に「常識」が必要とされてロボットに解きづらいのが政治経済というのも感覚と符合する。しかし、特定の世界観はセンター試験では問われた覚えがないので、これは東大二次試験の話だろう。知識化されない常識が持ち込まれないからデータで解けるという話なのかもしれないが、記述式ではそうはいかないだろう。その場でストーリーを組み上げるというのはどうしたら良いのだろうか(そもそも必要なのか)。

文字の重複率ではなくて、せめて単語でやったらどうですか、と言われます。もちろんそれもやってみた上で、文字の重複率のほうがセンター入試では効いたんですね。(p.44)

傍線部の言い換えの選択肢を選ぶのに、文字によるベクトルの積をとって判別していることについて。国語に関してはナイーブな方法ほど効きすぎて…という話は一回目のチャレンジの時からあったが、これはすごく象徴的ですね。

「公式は要らない」とうちの子は言うのです(笑)

数学の話。Tarski-Seidenberg でズッバーンの話。公式食わせるのもやったのか、で、意味なかったのか、、、ちょっと残念。

経済の話の部分はさらっと読んだけれど、あまり興味が無かったのでパス。


なんどか、シンボリズム vs コネクショニズム という対立項が示されるが、何が違うのかわからない。シンボルも意味を持つのは他シンボルの際としてのネットワークとしてであるし、コネクションも、シンボルによってノードとエッジが同定されなければ記述できない。後者が深層学習だって?ベクトルはコネクションなの?シンボルじゃないの?

の2つを、視点として人工知能のモデルを語るときに持ち込むことがモデルを比較したりするときに有用だというのならば、わかる。

この対立項には別の対立項である、合理主義 vs 経験主義が重ねられていることが多い。そちらはちゃんと意味を持つので、例えば人工知能学会誌 Vol.27 No.3とか参考になる。


なんか人工知能デカルトフッサールの関係を論じてるの見て、俺でもこの方面で価値のある論考を書けるわという大きな気になってきた。


あるハプニングで時間が無くなったのでこのくらいザッと読んで返した。