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Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

世界史だけでは分からない日本の大学の構造的欠陥

世界史が教える日本の大学の構造的欠陥 このままでは日本から大学が消えていく | JBpress(日本ビジネスプレス)を読んだ。前半の知識は面白かったし、大学の自律性が失われることは大学の意義自体を損なうというメインメッセージには共感した。ただし何点か気になったので、他に思い出した件を含めつつ、簡潔にメモしておく。

歴史の演繹の仕方が雑

官学 vs 宗教の変革と共に発展した大学 という構図を 3.11 の御用学者批判や STAP 批判に結び付けるような分析はとりあえず粗すぎるだろうとは思う。政府と科学という意味でいえば、米国研究公正局設立の経緯と効果とか参照すれば、官学に端を発することが直接的に記事で問題視されている問題群を引き起こしているわけではないと言える。不勉強でヨーロッパにおける同様の事例を即座に列挙できないが、ヨーロッパにおいても、公的な機関による監視のシステムは聞いたことがある。研究資金について完全に国家から自立しているわけではない以上、歴史的な側面からだけ問題が引き起こされるわけではないと認識すべき。そして、政府や公的機関との関係についても「官学 vs 宗教の変革と共に発展した大学」で後者を称揚するみたいな発想は現実的解決策を阻害しかねない。

社会への開き方

で、そこが崩れると、そもそも問題の解決策が崩れるのだが、欧米がしっかり根を持っているから欧米に倣え、ではダメで、自ら根を張らねばならない(根っつうのは移植できないんだよ、できるならデラシネデラシネじゃないだろ?)。じゃあ、仏教系の学問追求からの断絶から回復するのかと言われれば、それは難しいし意味もないだろう。そりゃ、歴史典籍を紐解いて、再評価することは全然できると思うけれど、今の学問に対して、仏教的なものを、西洋科学黎明期の神学や哲学のような形で接続できるかと言われれば、人材的にも実践として生き残っている知識的にも不可能だろうと思うし、それにこだわる理由もないと思う。ちなみに、同じ意味でイスラームは西洋科学にただ倣わない根を張ろうと努力している気がする。マレーシアのイスラム理解研究所に行ったときに、西洋科学を批判検討した本の多さには圧倒された。

まあ、それは良いとして、しっかり根を張るためには社会と関係を持たなければならない。そしてその社会とは宗教である必要はない(でも、宗教と社会との関係って変に軽視されているので、プロ倫の概要くらいは知ってて損しない気はする)。日本は産業(⊂社会)に開けという圧力が強い、という指摘は一部当たっていると思う。

社会があっと言うような情報を研究機関名義でぶち上げれば証券取引などを通じて瞬時で暴利が貪れますから

産業に寄与するのが悪いのではなく、こういうのを金になると言って「寄与」の一部に含めてはならない、むしろしっかりと害悪だという認識を共有することが大事。そう、産業に開かれることだっていいことなんだと思うよ、特許に相当する技術が実用化されるとか、農村漁村のコミュニティの問題や政府との関係の問題が学問的に整理されることで解決に向かうとか。あと、市民にも開こうということでオープンサイエンスみたいな潮流もあるし、もちろん、指摘されているようにグローバル化も大事。これは日本研究でさえそう。リンク張って知人にこの適当メモからトラバを飛ばすのが恥ずかしいので「北米大学図書館の日本研究司書の人たちの危機感を実感した話」でググって。でも、JBpress記事のような考え方でグローバル化したら、「グローバル(=欧米)に認められないものには価値が無い」みたいなクッソヤバい科学観になりかねないので、現代科学哲学の本の束で殴りつけたい。

部局主義

現在では学長権限が非常に強くなっています。教授会の自治が危ぶまれる、として危機意識を持つ気持ちもよく分かりますが、反面、部局ごとの「部利部略」で全く動かない現状なども見ますので、率直に大鉈を振るう必要があるようにも思います

あるあるあーあるある。東大でも京大でもこれは感じる。なんなら部局内の派閥だってあるんだよね、これは大きくて歴史が長い大学ならではなんだよねーという話を最近他大の人としていた。僕は研究者としては若手なので、大鉈にもある程度必要性を感じているのですが、常に「何のための大鉈?」というのは問わねばならないと思う。部局を統合したからって風通しが良くなるわけじゃないんですよ。そうなるんなら1000人の大部屋でもつくりゃあダンパー数も越えられるって話になるでしょうが、数十人の大部屋だって風通し悪いみたいな経験は学生時代にしたんじゃないだろうか。風通しの良さ、具体的には何か、と考えた時に、例えば互いの研究を忌憚なく批判できることならば、人数少ない方が風通し良いなって思う事例はいくつかある。某研究会とか、単に友人とか。(こんなこと言ってるけど僕個人は部局はスタッフ含め必ず30人以上にすべきだと思っている。理由割愛)

マクロなことばっかり考えて大鉈振るうといいことないっすよ。大鉈はあくまで、風通しを良くするため、大学の自律性を高めるために有効だと思うなら振るえばいいんじゃないですか。