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Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

富の偏りと意識の偏りが文化を作る?

「お国柄」について色んな人が色んなことを言うし、色んなオレオレ理論を聞く。酒の上の雑談から論文になっている話までレベルは様々だが、それらの共通点でもあり、最近なんとなく実感として湧いてきたことが表題の「富の偏りと意識の偏りが文化を作る」という仮説。

仮説と言っても具体性に欠けるので検証のしようもないが、例えば、当たり前だと思われている「意識の偏り」の方で思いつくのが、死体の扱い。特に意識が強くないと、大災害や大殺戮の後、トラックやブルドーザーでザッと集めてポンっと埋める。そりゃ災害の規模や元々のコミュニティの規模と死者の割合などによって雑な集団埋葬は仕方ない場合もあるが、その経緯や後世がどう扱うかが異なってくる(これは 原爆供養塔に留学生たちと行って話してて思いついた)。死体に関しての意識が他の集団よりも強ければ、墓や慰霊の周辺に独特の文化が作られる。

で、富の偏りの方は必要なのかと言われたら、これは文化大革命に関する聞き取り調査をしたことのある研究者がそれを指摘していたのを聞いて、ほぅ、と思った。ブルジョア階級の文化と社会環境としての階級が失われることによって模範となる「素敵な」在り方が消えてしまう。方向性が消える。

文化的なものを何か作るには、多大な富が必要であり、国家単位で全国民が富んだ国家がなければ、富の偏りは必要になるだろう。意識もおなじで、全方位に注げるほど大量の意識を調達することができない。局所的に資源が集中するとそこに何かが生まれるという、ストラテジーもへったくれもない投資モデルみたいなもんだ。

既存の文化を保守することに執心すれば保守だし、それを崩すことに執心すれば保守より劣悪な何かになるので、新しい文化を生み出し新陳代謝を起こすように仕向けられないかと思うのだけれど、なかなか難しいね。

参考:

革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。