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@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

彼岸会日記

彼岸会に久々に行ったらなかなか良かった。読経の後に説法があって、寺の外から呼ばれたゲストのお坊さんが説法されたのだが、2つの資料を引きながら「御蔭様」という題で話された。ちなみにうちは臨済宗です。


1つは「六法礼経」。

仏教経典。1巻。後漢(ごかん)の安世高(あんせいこう)訳になる『尸迦羅越(しからおつ)六方礼経』の略。パーリ本の長部経典31『シンガーローバーダ経』Sigalovda-suttantaに相当。バラモンのシンガーラカSingalakaが亡父の言いつけに従って、毎朝ただ六方を意味なく拝んでいるのを見た釈迦(しゃか)が、その非を諭し、六方のそれぞれに父母・師長・親族・朋友・使用人・沙門(しゃもん)を配して礼拝(らいはい)することを教え、それを中心に在家者の実践すべき仏教倫理を説いた経典として有名。[石上善應]

from 六方礼経(ろっぽうらいきょう)とは - コトバンク from 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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阿含の仏教のp.310を見ると実はこの方角の話以外も色々載っているが、この方角の話が一番有名らしい。

余談だが、「配す」という動詞は普段使わないが、宗教系で良く聞くのは漢文の訓読から来ているのかしら。ちょうどその場で妹にクルアーンの説明をしていた時に、クルアーン4章48節の話をしていて、「配す」がパッと伝わらなかった。

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さっきの本とは異なるが、ある中国語のサイトでは、

佛见之,告以礼拜方位无益,为说佛法之六方礼,以父母、师长、妻妇、亲族、僮仆、沙门婆罗门等,以东、南、西、北、上、下六方,各八五事恭敬。

(強調は私によるもの)

とあったので、訓読由来という仮説を思いついた。


もう一つは「慈悲の瞑想」。こちらはWikipediaにそれなりに詳しく載っている→慈悲の瞑想 - Wikipedia


六法礼経の「下」というのは現代的には差別的な匂いでマズい感じがする。その点は説法の際にお坊さんが時代背景を説明しつつ躱していた。その時代の環境に合わせて解釈を行い、それによって宗教のコアを守るのは、まるでラカトシュのリサーチプログラムの話に似ているなぁと、強制婚を巡るイスラムの解釈(1954年のマレーシアの雑誌の中で、強制婚の非人道的な側面が問題にされる中、強制婚を根拠づけるクルアーンハディースの章句は無く、つまりイスラム教の問題ではなく、慣習の問題であるという解説の形を取っていた)をこの前読んでいて思ったのだけれど、そういうのはどこの宗教でもあるのかなと興味深く聞いていた。


説法のあとおはぎを食べながらおっさん(和尚さんの略なので、べっぴんではなくカッコウと同じイントネーション)と話す会があるのだが、そこで父が Charlie Hebdo の一件に触れつつ、仏教と偶像化についての質問をしていたのだけれど、禅宗においては先ほどの「下」を含め、生きとし生けるものに仏心が備わっているという形で、絶対的存在を遍在するものとして捉えるので、あんまり偶像化とかにとやかく言いませんという回答だった。


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