Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

音楽について思い出語りとメモ

2000年、僕は高校1年生。ヒットチャートはこんな感じ。

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History.txt によると「制作開始 1997年 6月中旬頃」であり1998年には使えるソフトになっていたCherry という midi シーケンサがあって、それが図書館にあった Vector の添付 CD の中に入っていた。当時月Piをたまに買ってた僕は TSUNAMI とか SEASONS とか らいおんハートとかを midi で作って、耳で覚えて弾いていた。楽譜はもちろん読めたが、暗記するのが苦手だったのだ。

2003年、大学1年生。入学時の寮の先輩がクラオタで、Scriabinとかが好きだったのの影響もあってRussian Piano House (←リンク切れ) というサイトにハマる。僕はSzymanowskiにハマる。このサイトの方は所蔵していた楽譜をひたすら midi にして定期更新してくれていた。この記録を書き始めたきっかけもこのサイトが消えていることについて考えを巡らすためだ。

2007年、修士1年生。楽譜を買うお金が無い僕に衝撃のサイトが登場した。IMSLP/Petrucci Music Library: Free Public Domain Sheet Music。実際は2006年に登場していたが、有名になったのは2007年で、閉鎖騒動と復活も経て、現在に至っても大量の楽譜をアーカイブし続けてくれている神プロジェクトだ。柏キャンパスのホールに忍び込み、夜な夜な曲を弾いていたのは僕です。

博士くらいから少し音楽にブランクがある。一つは環境の問題でピアノを弾く環境がなくなったこと。もう一つは、修士時代にウクライナKPIカプースチンを弾き、中国の清華大学との交流会でジブリを弾き、どちらでもとても人前で聴かせられるものではなく、当時付き合っていた彼女にフラれる遠因の一つにもなったくらいで、自分の力量に絶望したというのがある。友人がギターの伴奏や連弾に誘ってくれたりでキーボードで弾くことがあったが、それもお遊び程度。

2013年、就職2年目、Berklee音楽院が提供しているCourseraのJazz Improvisationで単位を取る。研究上で機械学習の単位も取ったが、趣味でMOOCSの単位を取り切ったのはこれが初めてで、人工知能学会全国大会の時も、カラオケボックスに鍵盤ハーモニカを持ち込んで録音し、課題提出を乗り切った。友人から漫画を貸されハマった「坂道のアポロン」、アニメも2012年に放送され、このBerkleeの授業を受け、とJazzに本格的にハマっていったので、上手い下手ではなく、コミュニケーションの一つとしての音楽というものに幻想を抱いた(結局、仲間を見つけられず今に至るまで楽しむ機会が無い)

京都に移ってから、音楽の研究をしていて「ららら クラシック」に解説者として出ていた人と話した際に MusicXML の話になって MusicXMLいじる - Drafts という記事を書いている。2015年。その後も MuseScore で思い付きを書き留めたり程度はしていて、F.Chopin Piano Concerto No.1, Op.11 Mov.3 Bar 144-147 - Draftsみたいな記事も書いている。Cherry に比べて、音符で入力できて楽譜としても使える時点で幅が広がった。

キーボードからMIDI入力もできるので、かなり高性能なのだ。

消えたサイトとその代替

先ほどのロシア音楽のmidiたちは消えてしまった。Internet Archive から見てチェックしてみると、いくつかは現在 IMSLP に楽譜があるし、YouTube にもマイナーな演奏があがっている。

そうやって新しい形で代替されていく部分と、代替しきれない部分があって、量的にはこの元のサイトはかなりマイナー志向だったので、やっぱ無いものもあるという単純な不足と、感想や解説文がなかなか秀逸だったという2つの点で代替かなわない部分がある。一瞬、うちで引き取ってデータベースにしてあげようかとも思ったのだが、まあそんな時間はないかと思い直して連絡を取るのをやめた。

楽譜に関してはIMSLPがある、網羅性についてもそれは個人より音楽大学図書館の仕事だろう。間に個人が介在していただくことは多々あろうが。midi的なものについても、手書きからは困難だが、現在の印刷版ならOCRできる日が間違いなく来るだろう。ある程度手作業の修正は必要になると言えども。そうやってデジタル化することの意義は、分析がしやすくなるとか演奏補助などのアプリケーション、機械学習による音楽生成のデータになる等々の利便がある。単に聞くのならば、YouTube にどんどんとマイナーな曲が上がっていけばいいだろう。IMSLP や YouTube の永続性についてはまた考えないといけないのだけれど。

趣味としての音楽演奏はどう生き残るのか

いきなり何を言い出すのだ、と思うかもしれない。

家事としての料理が生き残っているのはコスパの問題に違いないとほぼ確信しているのだが、趣味としての料理もその手軽さと日常的要請に支えられている。ここで僕は決して「それを美徳とする規範に支えられている」なんて言いたくない。経済合理性がある条件下で美徳に化けたもの(であることは全く立証されていないので単に僕の仮説なのだが)を、まるで美徳が支配的であるように描くのが嫌だから。大学1年の時に授業で挙げられたバタイユの「善」概念の事例が幸福追求ですべてエミュレートしきれることを指摘するレポート書いた人だからね。宗教と科学の連続性を「予期(ry 脱線するからやめよう。

Skypeのグループ通話で音楽やっていたことも少しあった(2010年)。でもズレが大きすぎて、なかなかできるものではない。産総研の後藤先生がインターネット越しのセッションの話をされてたのも2010年だから(参考: CiNii 論文 -  第54回 後藤真孝氏インタビュー : 好きな研究をやり続けるために(学生フォーラムInter-View))、同時期に「研究としては存在するけど民生用に十分なクオリティで存在しなかった」状態で、いまでもググってもみつからない。音楽のコラボレーションとしては非同期で重ね合わせるのが「弾いてみた」に「歌ってみた」が重ねられるようなニコ動上の営みとして存在する(参考: CiNii 論文 -  動画共有サイトにおける大規模な協調的創造活動の創発のネットワーク分析  ニコニコ動画における初音ミク動画コミュニティを対象として:ニコニコ動画における初音ミク動画コミュニティを対象として、これも2010年)MOOCSで勉強して、非同期で演奏して、全体的に同期性が失われていく。趣味が多様化して個々を支えられるだけのリソースが無くなれば必然的なのかもしれない。身体性等同期性にまつわる機能を求めるならば疑似同期を追及するしかないだろう。

ピアノは一戸建てを所有するのが当然の世代にしか個人で所有するのに向かない

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from [しんきん経済レポート]2010年No.6 10万台を割り込んだピアノ生産台数| しんきん経済研究所

圧倒的に演奏者人口が多いのはピアノなのだが、弾ける環境が無い。一時期、趣味でつながるシェアハウスというのに可能性を感じていた(例: シェアハウステーマ別物件特集 | シェアハウス東京のポータルサイトなら『SHARE PARADE』)数部屋で一件、音楽ホールを貸し切るとか、学校の音楽室を夜間開放して、修繕費+αをコミュニティが持つとかね。でも、ゲストハウスに泊まるところから、結局カプセルホテル+バーが一番いいんじゃね?と思い始めたりしたのと同じで、普通に大人のカルチャーセンターでいいんだよね(ただし、講師が来るのはたまにだけでいいから安くしてくれとか、出張多いと休会できないの辛いとか、いろいろ不満はあるんだけど)。

安い他の楽器(例えばオカリナやピアニカ)に移動するというのもあるし、僕はピアニカもかっこよく吹けるんだよと布教してたことあるけど(Adiós Noninoとかラテン音楽を情感たっぷりにピアニカで弾けば大抵イメージが覆る)、そういう形を社会全体で目指すのは文化の死だと思う。ちょっと本節冒頭の話題に戻るけど、文化生成力を経済性や徳が支配するようになってしまったら終わりなんすよ。そこらへんは最近劣化した記事を見て呆れはするものの(ブクマにもあったけど良い3箇条の背景となってる語りが酷い)、宮台さんが繰り返し指摘しているミメーシスみたいなのは文化の生成力として重要だと思う。

結論無いですよ?何か期待して読んだ方には悪いのでビジネスアイデアだけ置いておきますね( っ・ω・)っネットとかで安く学んだり練習したりするのと上手く組み合わさったプログラムをカルチャーセンターやカラオケに寄生する形で立ち上げて一山あてましょう。以上です。

例文:会議の特別セッションのチェアの依頼

ある程度親しい人に対して会議の特別セッションチェアをお願いしている。英語力はヤバいが、内容の例文としてご参考まで。

Dear ***,

Hi, (個人的な挨拶、こないだはありがとうとか)
I hope your preparation for the workshop is going well. 
Btw, I'm writing this message to ask you to manage
 one more special session at 会議名 :-)

セッションに関する情報、URLなど

I'll help preparation 
(making ML for sending a message to those presenters and
gathering 1 slide Power point from presenters) and the session also, 
but a session chair who can manage this fast-tempo session is needed.

Then, I have a favour to ask you.
Would you mind to chair セッション名 on 日付?

I very much hope your acceptance, many thanks in advance.

Best,
***

ポイントとしては

  • 僕が誰か思い出してもらう
  • 既にしてもらっている協力事項についての謝辞
  • 冒頭に簡潔にお願いの事項を書く
  • イメージがわくようにセッションの情報を提供
  • 自分もしくは他のメンバーが手伝えるならば何を手伝えるかを伝える
  • どういう人として、相手を指名しているのか「君が必要なんだ!」
  • お願い定型文

って感じですね。こういうやりとり上手いなって思ってる某先生に「〇〇の件はお願い、僕にCCしてください」「××は僕から依頼文送りますんで」って言って、このテンプレを盗みました☆

関連:

あるディレクトリ以下の編集権限をグループに与える

chgrp -R [group名] [ディレクトリパス]

これは分かるでしょう、

sudo find [ディレクトリパス] -type f -print | sudo xargs chmod 0664

sudo find [ディレクトリパス] -type d -print | sudo xargs chmod 2775

これはファイルを664に、ディレクトリをsetgid付きの775にしている。 (通常は読み出しだけのファイルが 644、通常のディレクトリが 755)

「X教徒による宗教的迫害」とは

元ネタはノート:イスラーム教徒による宗教的迫害 - Wikipedia で、

イスラーム教徒による宗教的迫害という記事が何故問題かというと、次のように説明できます。 1. グループAが、グループBを迫害した。 2. X教徒のグループAが、グループBを迫害した。 3. X教徒が、グループBを迫害した。 このような記述を考えると、1から2への移行は、グループAがX教徒であることが検証できれば、問題ないと思えます。しかし、3への移行は、「X教徒」というものが、そもそも、グループAと同規模の均一性ある組織・団体の成員かという疑問があり、2→3は成立しないとするのが妥当と思います

という頭の悪い主張(∀と∃の区別がついていない)をみつけて、否定しておこうと思ったんだけど、まあ2007年の書き込みでほぼ無視されているのでWikipedia上で蒸し返すことはないかと思って、表題のように捉えなおして少しメモしておこうと思う(まあ、以下に書くことは概念分析あたりでは基礎事項だろうが、僕は説明が下手なので練習がてら)。

3が「すべてのX教徒」でなくてもいいのは自明だが(上の投稿者にとっては非自明だったようだが)、逆に2の「X教徒のグループAが、グループBを迫害した」事例全てにおいて「X教徒による宗教的迫害」と言えるのかどうかの criteria を考える。

一つ大きいのは、投稿者は無視しているが、タイトルが示している通り「宗教的」という文脈の存在だ。例えば、経済的締め付けを行うことはこれに該当しないのか、という問題がある。「X教徒による宗教的迫害」はX以外の宗教の教徒に行われると解されるのが日本語では普通のはず(つまり、X教X1派がX教X2派に迫害を行うことは含まれないし)。対象はY教徒だったり異教徒だったりするだろうが、経済的しめつけをY教徒にのみ行ったのなら、それは宗教的迫害になる。例えば当該稿に「ジズヤなどの税金が課せられた。」という記述がゾロアスター教徒への行為の一部として記載されている。「迫害が宗教的であること」は「迫害行為自体が被害者にとって宗教的な手段であること」を意味せず(P)「迫害の対象者のcriteriaが宗教的であること」を意味している(Q)(より正確には、Pは反例により確証され、Qは正例により支持された、だが、前述の通りこの議論はヘイトスピーチ関連等でよく見る話なので、Qも強く支持される。ジズヤは政治的経済的手段であり、少なくともゾロアスター教徒から見て手段として宗教的ではない、というのを前提しているが、イスラム側から見れば宗教的基礎づけがあるので、それでもって宗教的と考えるという手®もある。Qは必ずしも唯一性を持たない。ただし、イスラムは生活のすべてを支配する法であるので、イスラム教徒が行う行為は必然的に宗教的になるとも言え、イスラム側から宗教的基礎づけがあることを条件にするのは特にイスラムを対象にした場合はあまり良い criteria には思えない。)

難しいのは「迫害の対象者のcriteriaが宗教的であること」という概念レベルの話を、事実からどう推論するかということで、ここは前述の「よく見る話」にも多くの混乱がある。僕が何度も「そりゃ変だ」と言っているのは、「迫害の対象者のcriteriaが宗教的である」と解釈できる可能性が稀にでもあればその推論が成立するというやり方。量的推論での有意差が5%有意差はモデルとして差が無くても5%の確率で有意差が誤って出る(というか、それを差があると解釈することが誤っているのだが)という話なので、この読み解こうとしたら読み解けるということを解釈成立の条件にするのは非常に危ない。質的推論においてこれをどう説明したら納得されるのか分かってないが。あと、解釈者の多数派が…みたいに数に頼るのは、実際は色々問題を引き起こす(数の暴力とか、サイレントマジョリティ問題とかなんとか)(統計的に回数が多いこと自体は成立蓋然性を強めるので、それとの兼ね合いを考えねばならない)。あ、ミーティングの時間、とりあえずこれ以上は議論が必要なレベルなので、まあ「あたりまえだろクソが」という部分は書いた。

ひとことに国際会議といっても

国際会議って分野によって違いますよね、という話をする場合、よくあるのは、採択率の問題。情報系だと10%台だったりして、ジャーナル通すより難しい会議も少なくない。ただし、会議という期限と容量の決まったイベントのためのものなので、一字一句直すようなクオリティの高めかたはしないし、ページ数も少なめだ。ジャーナルと簡単に比較できるものでもない。

私は学術系の出版で字切り部分にお金をかける必要性はあまり無いと感じている。論文PDFでは最低限の字切り考慮(つまり、PDFの元となる Word や LaTeX が対応する範囲)しか為されていないし、それで特段の不便を感じないからだ。でも、文系の先生方はそこに拘る先生も少なくないし

以前書いた通り、個人的には学術出版物に過剰に文章の精度を求めるのは反対な立場だし、なんならある側面で役に立てば別にいいじゃんという寛容派だ。

気持ちは分かるが、例えば「使える分散表現の獲得」と「その計算機科学的原理」の対応は後付けで色々為された、と認識している。もちろん元論文にもある程度の原理の話はあるので、上の例ほど酷くはないが、原理を後付けする協働を想定した学術会議での発表というのはありうるのではということだ。そして、その後付けもまさにNIPSで行われた。

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ディープラーニングチュートリアル 応用編

[1706.03762] Attention Is All You Needなんかも、そういう原理を探る系論文で話題になったし、混沌とはしているが、そのあたりの営みを無駄だとは思わない。(この文脈で、同じ著者が [1706.05137] One Model To Learn Them All を書いたことも触れたいがこちらは読んでいないのであまりよく知らない)


そんな、 Anything goes って話をしたかったのではなくて、書き始めたきっかけは、国際会議の運営で非常にもやもやしているからだ。

ある国際会議の Organizing (co-)Chair 相当をしていて、他の Chair (特に片方A)とすごく価値観が違う。

僕は参加者が聞きたいものを、その分野で最先端のものを、公募投稿で評価されたものを、元々のテーマに沿ったものを、最優先にプログラムを組もうとする。一方で、Aの価値優先順位に、紹介すべき優れた研究者(身内)というのが、強いように感じる、これは皮肉めいた捉え方かもしれないが。例えば、僕は極端なので、キーノートですら、一人で話す必要も無く、テーマと先進性と面白さがあれば、2人で片方が若手でも良いと考えた。これはさすがに他 Chair 2人双方の反対に遭った。そもそも僕は誰かを招待して会議を成り立たせるというのは非常に苦手で、国内研究会で失敗して他の幹事に尻拭いしてもらったことも、インタビュー企画でまったく返信がもらえないレベルの人ばかりに突撃して締め切りがヤバくなったことも、失敗の山ばかりで、そこから「なんでも頼めるくらいの気軽な身内に頼むことの重要性」は認識したつもりだ。でも、例えば、協賛してもらった組織の招待セッションだからそこをシングルトラック貫いて、公募を勝ち抜いてきたチュートリアルを5パラレルのところに置くというのは、僕からするとあり得ないし、チュートリアルワークショップチェアも「え、あのシングルセッションの裏空いてるやん、入れてくれないの??」とメールしてきた。ワークショップチュートリアルのところをパラレルにしすぎるのに反対すること自体はBも僕と同じ立場に立ってくれて、これは何の違いだろうと考えると、普段の研究会や、一緒に参加した学会の違いを考えるに、知った顔で会議を作り上げて阿吽の呼吸で議論するのと、知らない人を集めて比較的客観的な土台を積み上げて議論することと、どちらでやってきたかの差なのかもしれないと感じている。

Anything goes, どちらが悪いという話ではない。今回の会議は性質的に中間(ただし、少し後者寄り)に立っていると思うので、会議の性質にはある程度合わせるべきだとは思うが。必ずしも前者のレベルが低く、後者のレベルが高いわけではない、後者でレベルが低い会議も僕は知っているし、その会議に価値を認めている。広い分野での議論を支援する、新しい学術的出会いを支援する、若手のデビューを支援するといったことにオーガナイザーが注力していて、学際的研究の萌芽期に、ゆっくり考えたいときに出したりする。人文社会系だと前者のタイプの会議が多く、レベルの高い会議でさえもそういう雰囲気を持つと聞いたこともある。

ただし、自分の立場や性向がどういうところにあって、会議がどういうタイプのものであって、それが学術知識創成の総体の中でどういう役割を担うもので、といった文脈を捉えなければ、ひとことに国際会議といっても、国際会議に関する語りが、それに対する評価をする自分自身の狭い価値観の反映でしかないようなものになりがちなのではないか、と思った。

Apache アップグレード後に再起動失敗して時間食った

sudo service httpd24-httpd restart

の結果に

Starting httpd: AH00526: Syntax error on line 16 of /opt/rh/httpd24/root/etc/httpd/conf.d/autoindex.conf:
Invalid command 'IndexOptions', perhaps misspelled or defined by a module not included in the server configuration
                                                           [FAILED]

って出てくれると、

/etc/httpd/conf.modules.d/00-base.conf の中の autoindex を有効にすればいいんだなと分かるが、単に

Starting httpd:                                            [FAILED]

されてしまうと戸惑う。そういう時は

sudo tail /var/log/httpd24/error_log

すると、

[Wed Jun 14 16:01:03.605522 2017] [proxy_hcheck:crit] [pid 3667] AH03262: mod_watchdog is required
AH00016: Configuration Failed

みたいな情報があって、ああ watchdog も有効にしなきゃいけないのか、と分かって成功した。また /opt/rh/httpd24/root/etc/httpd/conf.d/autoindex.conf の冒頭に

# Required modules: mod_authz_core, mod_authz_host,
#                   mod_autoindex, mod_alias

とコメントで書いてあるので、そういうのも参考になるかも。

環境

RedHat 6

IME入力モード切替の通知を無効にする(Windows 10)

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Windows 10 Creators Update をしたら、画面の中央にIME入力モード切替の通知が出て煩わしい。

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右下の言語メニューからプロパティをクリックして

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この「画面中央に表示する」のチェックボックスを外したら無効にできた。