Drafts

@cm3 の草稿置場 / 少々Wikiっぽく使っているので中身は適宜追記修正されます。

現代のブラクラ

タブを閉じるイベントを検知して「閉じていいですか?」みたいに聞いてくれる機能はウェブアプリで便利なんだけど、それを悪用したブラクラに先日嵌った。つまり、閉じても閉じなくてもその閉じようとした行為をトリガーにしてタブが無限に増殖するというブラクラ

Chrome で嵌ったので、Chrome での対処法は「ナビゲーションの確認」が閉じたカンマ秒の間に[Shift]+[Esc]キーを押して タスクマネージャを立ち上げて該当のウィンドウを落とす。Windows 付属のタスクマネージャでは落とせなくて、かなり苦労した。

参考:

Docker 再勉強

Virtuoso を Docker で運用 - Drafts を1年前にやってたのだが、Docker が進化しすぎて全然通用しなくなっていたので再勉強中。

Docker Toolboxという形でOpenStackみたいにいくつかのコンポーネントにプロジェクトが分かれた模様。最低限は Engine と Machine。ほんとは GUI の Kitematic も欲しいけれど、Linux Support はまだ初期段階ということで今回は見送り。

Docker Engine をインストール

docker.io ではなく docker-engine をインストールする。Installation on Ubuntu にいろいろ書いてある。

Docker Engine をアップグレード

sudo apt-get upgrade docker-engine

でできました 1.11から1.12にアップグレード。

Docker Machine をインストール

Install Machine にやりかた書いてあるけど、パーミッションの関係で動かなかったので、

wget https://github.com/docker/machine/releases/download/v0.7.0/docker-machine-`uname -s`-`uname -m`
sudo cp docker-machine-Linux-x86_64 /usr/local/bin/docker-machine
sudo chmod +x /usr/local/bin/docker-machine

とやった。つまりは、適切なバイナリ持ってきて適切な場所に置いて、実行権限つけてるだけ。

学ぶ

Linux — Docker-docs-ja 1.11.0 ドキュメント という日本語ドキュメントがあって、45分のチュートリアルがある。これを今やっている。

その他参考

  • Dockerでホストを乗っ取られた - Qiita 前もセキュリティ的に色々考えて面倒だった。そりゃ分かってる人が読めば当然のことなんだけど、Docker は使う側がセキュリティのことあれこれ考える必要が大きいのは現状の問題だと思う。

二日酔いがまだ抜けきりません。三日目です。純粋アルコール換算量 10ml まで大丈夫だったはずなのですが、8ml程度で半日つぶれることを覚悟したのに、36時間たってもまだ体がだるいです。あのちゃんとしたシャンパンとウイスキーはなかなか価値だったのですが、舐める程度でやめるべきでした。アセトアルデヒドを分解するALDH2遺伝子が無いのは確定なのですが、その場合ADH1B遺伝子の有無にかかわらず飲めないとされるもので、僕はあとの苦しみを考えなければ3,4時間ならば並みの日本人並みには飲めるので、よくわかりません。まぁこんな事実公表して飲まされたところで飲ます側はあとの責任を取ってくれるわけでもないので「飲めません」と基本的には断ってます。飲んでいるうちに強くなるというルートがあるともいわれていて、それが消えたため、10ml の限界が下がってしまったのかもしれません。これからは、改めて、舐める感じの喫酒を極めていきたいと思います。


その酒の席は料理持ち込みだったので、新味バターソースのマカロニアスパラサラダ by かおりん♪♡を作っていきました、結構好評で良かった。1時間くらい放置しただけでちょっと乾いた感じになってしまったので、レンチンすればよかった。たぶん脂分が時間の経過で固くなるんだと思う。

あと、その場でも料理をしたのですが、トマトを拙く切っているときに、Hさんが「お、上手いな」的なことをおっしゃって、僕が照れてしまって切り方を間違えたりしつつ、喜んで切り続けているのを見て、Yさんが「さすが褒められて育った世代だな!」とおっしゃってた。Yさんは昔アメフトか何かやってらっしゃって、そういうスポーツにおける発破による奮起みたいなのと対照的に見え、それを世代差として受け取ったのだと思う。もちろん世代差も大きいが、僕たちの世代は個人差が大きいと僕は思っている。

むしろ、Hさんのことを「人のことを良く見ていて、ちゃんと評価してくれるので、やる気が出る」とYさんと似た世代の方が評していたので、叱咤激励で頑張れないことを(これも規範っていうの?要はちょっと広範に力を持つ世間感覚)恥ずかしいというような風潮が、実はどの世代でもある程度あった個人差を抑圧してただけなんじゃないかなとさえ思う。


これはスポ根的なものを批判してるんじゃなくて、むしろ逆。彼らは叱咤激励に愛を感じて頑張れてたわけで、スポ根漫画も多くの場合、その世界だけに閉じていれば問題が無い。叱咤をコミュニケーション手段として用いることは、弊害が大きかったからこの数十年で否定されてきているだけで、それ自体が常に問題になるわけではないし、初等教育のような場で用いることは危ないということが共有されるのは妥当だとしても、スポ根漫画的表現が非難されたら馬鹿らしい話だと思う。


美味しいお酒も、褒めも、叱咤激励も、ちゃんと僕というレセプターや社会環境をひっくるめて個々アトミックなコミュニケーションとして成立していて、そこに齟齬があった場合は僕はできるだけ自分でなんとかしてるつもりだし、そのコミュニケーションに規範的なものが持ち込まれると、それが自分に味方するモノであったとしても特に歓迎してないです。その場の全員が共有してそうだと確信した場合のみ歓迎する。


その他関連:

Chrome の 32bit版廃止に伴ういろいろ on Lubuntu

ブラウザ周り

Chromium で Flash Player が使えなくなる件の対処法 - Qiitaにも追記したが、もう Chrome でも Chromium でも Flash は使えなくなる。厳密には古い Plugin を使い続けることはできるが、セキュリティ上望ましくないし、また YouTube などが HTML5 のサポートを充実させているので、もう使う必要がないだろう ニコ動も HTML5 Video 対応してくれないかな。私は、ChromiumFlash プラグインを切って使っている。Firefox に乗り換えることもできるが、Linux では LINEが Chrome/Chromium アプリでしか使えない(wine だといろいろ不具合がある)ので、どうしても Flash を使いたい時だけ Firefox を使ってる。

参考:

apt-get update 周り

エラーがでるようになったので、chrome を remove したら直った。

無神論者の疎外が肯定される論拠

アメリカから帰って紙幣を整理していると、そこに印刷されている「In God We Trust」という文字が気になった。これが印刷されるに至った経緯や巻き起こっている議論はイン・ゴッド・ウィー・トラスト - Wikipediaでも見てもらえれば良いが、これはアメリカにアイデンティティを持つ無神論者にとっては許しがたい言葉であり、私のような弱い不可知論者にとっても違和感を覚える言葉だ。

インドネシアでは無神論は違法であり、神の信仰ならばキリストだろうがアラーだろうが肯定される。

これら、オフィシャルに(特に一神教的)有神論が支持され、無神論者が疎外され、場合によっては迫害されることが肯定されるのは何故か考えてみたい。これは決して、法哲学的にそれを基礎づけようとするものではない。何かの宗教的正義を肯定するためにどんだけ理論を振り回したって、理論を社会影響に結び付けられる強者が勝つことにしかならないので(双方論理的には正しいことが屡々なのだ)そういうの大嫌いなのだけれど、なぜ肯定したがるのかということをメタに記述するのは楽しいのでやってみようということだ。


基本的には有神論者が信仰を否定されることへの不快感と、「神の信仰」と抽象化されたことで各宗教の有神論者が一体となるマジョリティの力が、無神論者の疎外を肯定する原動力なんだろう。

まあ、日本人の宗教観はそれの鏡像みたいなもんで、宗教が引き起こす害悪への不快感と、日本的な宗教観(日本は一般的に無宗教ではない、本来の仏教とかでももちろんない、日本的なるものとしか言いようのない宗教意識をかなりの人たちが共有している)を共有するマジョリティの力が、熱心な宗教者の疎外を肯定する原動力になる。

有神論者と弱い不可知論者は共存できるが、強い不可知論者や無神論者とは衝突を免れ得ない。世の中、共存し得ないものというのはあって、人を誰彼構わず殺したいという人間と、殺されず安全に暮らしたいと考える人間は共存しえない。前者だけならば特に矛盾は生じない。ただただ殺伐とした世の中が来るだけだ。それでも人類全体が滅びたりなんかはしない。「人を殺しちゃいけない理由」がなんか難しい哲学的論題のように扱われることがあるが、みんな莫迦なんじゃないかと思う。「人を殺しちゃいけない理由」なんかなくて「「人を殺しちゃいけない」ことにしている理由」は、マジョリティが「殺されず安全に暮らしたいと考え」ていて、殺すという行為がこの2つの両立を不可能にする行為であるというそれだけで十分な説明じゃないか。なんで「マジョリティが「殺されず安全に暮らしたいと考え」」ているかは、進化心理学的に説明がつくし。どこにも難しいことなんかない。あとは、これをバイナリから連続量的に捉えなおせるかとか、地域的局所性を想像できるかとか、ハードルはあることはあるけれど。

さて、脱線したけれど、繰り返すと、(1)不倶戴天のコードと(2)そのコード上でのマジョリティ、だけ揃えば「正義」が作られる、と綺麗に言葉になったのでメモしておく。

あとは、マジョリティがどう理論を振り回すかは僕の興味の範囲外だ。


利己的遺伝子 - Wikipediaに対する誤解とかも、この話が理解されないのと通底しているね。あくまで生き残った形質が優れた形質なのであって、優れた形質が生き残るのではない。後者は a priori に優れた形質を我々が判断できるという前提に立った言い方で、この考え方に基づく優生学はそりゃ問題を孕むさ。社会環境を含む環境との相互作用でしかなくて、環境さえも変化するということが織り込まれていないからね。この話と心理形質がどう結びつくかと言えば、ちゃんとミーム(この概念の発案者はドーキンス)という概念の導入で遺伝子概念が抽象化され、関連付けられているので、基本的には40年前にこういう考え方で「正義」を捉える基盤はできているはずなのだが、そうやって正義を相対化することは複数の正義を共存することにならず、「正義の味方」と衝突することにしかならない(=Yet Another 正義に堕してしまう)というのが、このミームが広がりにくい要因かもね。

eduroam を iOS7 以上で使う

Configuring eduroam on an iOS 7 or later device — University Information Services (Academic & Infrastructure)

このリンクをSafariで開いてインストールする必要がある。リンク読み取り用QRも置いておく↓

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参考: